作品タイトル不明
第三十三話 暗転、機転、急転
次の予定、夕方のテーンロー子爵家での音楽会まで、まだ時間はある。
カルストン伯爵邸へ大至急戻った私は、脇目も振らず書斎へ駆け込んだ。三つある書斎のうち、アルバートの仕事用にと用意していたところを選び、新品の書斎机に皿以外のバスケットの中身をぶち撒ける。
クッションや布の類は書斎机の下へと落ち、いくつかの、封をして折った跡のある手紙たちが残る。
先ほど、馬車の中で、私はそれらに目を通した。
しかし、アルソナ王国の言葉で書かれた手紙は一枚だけ、他はすべて『ウーリゼン帝国』の公式言語を使っている。署名一つとっても、私には正確に読み取れない。
書斎机に手紙を並べ、共通する署名が二つ、三つ。それ以外の文字列の意味は、すっかりお手上げだった。
(思ったよりも骨が折れるわね……辞書で引けばあるいは、でも時間がないわ。今日の音楽会は辞退する? いや、余計な憶測を呼んでしまう。たった一つの行動が、ここまでの私の印象や評価にヒビを入れて、敵を前にして隙を見せるようなものだわ)
分かりもしない文字と、年甲斐もなく睨めっこをしていたそのときだった。
「おい、トリッシュ」
扉が開いたことにさえ、私は気付かなかった。
振り向けば、予期せぬ来訪が待ち構えていた。アルバートだ。
一瞬、会議はどうした、と口から出そうだった。当然、終わったからこそ帰ってきているのだろう。
いやそもそも、この家の主人が帰ってきているのだから、来訪というのは正しくないが、この際どうでもいい。
私は、とにかく急いでいる。近づいてくるアルバートへ、平然として声をかける。
「あら、帰っていたの?」
「ああ! お前、エントランスで俺に目もくれず走って……」
アルバートの視線が、書斎机の上へと向けられる。
見せるべきでないのでは——そんな思いが頭を 過(よぎ) りつつも、私はひらめいた。
アルバートは、東の大陸で仕事をしてきた外交官だ。ウーリゼン帝国の言葉も分かるだろう、分からなくたって私よりはずっと馴染みがあるはずだ。
すぐさま、私は何も知らないアルバートへ指示を飛ばす。
「ちょうどよかった。今すぐこれらを翻訳しておいて」
「は?」
「私は音楽会に出席するわ。戻るまでにお願いね」
「ちょっ、待て」
「それの内容は、絶対に他言しないこと。あとで説明するわ、それじゃ」
返事は聞かない。私は、即座に書斎から出ていく。
書斎の扉を閉め、執事の一人にこう言いつけた。
「私が帰ってくるまで、アルバートをここから出さないで。トイレくらいはいいわ」
執事の短い承諾の言葉が、私の背中へ向けられる。
実に静かに、私の参戦すべき舞台の幕は上がったのだった。
二時間後、私は王都のアップタウンの一角、テーンロー子爵邸にいた。
石造りの家が多い中、高級な北方産木材を使った二階建ての邸宅は狭いながらも重厚感がある。そこに集まってくる二十人ほどの紳士淑女は、入り口でテーンロー子爵夫妻に出迎えられていた。
私もその一人で、中年の子爵夫妻と挨拶を交わす。
「ご機嫌麗しゅう、テーンロー子爵ならびにご夫人。お招きいただきありがとうございます」
「わざわざ来てくださって恐縮ですわ。本日は珍しい趣向を用意しておりますのよ」
「楽しみですわ」
にっこりと、私は微笑んでみせたが、今日だけは完璧にできているか分からない。
青を基調としたイブニングドレスに柔らかなボレロで装いを整え、金とサファイアのアクセサリーを選んだ。ひとまず、ケチのつけどころはないだろう。
中へと案内されると、音楽会が開かれる小規模なホールはすでに飾り付けと楽団の配置が済んでいた。
パッと見ただけでも、異国情緒ある雰囲気だ。幾何学模様の赤い絨毯、彫りの深い顔立ちの四人、そしてリュートに似た首の曲がった弦楽器や、木製の台に置かれた台形の 弦琴(ツィター) のような楽器。
(ウーリゼン帝国風の舞台、それに演者。当然のように、楽器もそう)
どれもこれも引っかかるものを覚えたが、私は黙って後方の席に着く。
開演までの時間は、恐ろしいほど長く感じた。これほど一刻も早く終わってほしいと願ったのは、後にも先にも今日だけだろう。
まもなく、主催者であるテーンロー子爵夫妻が舞台の前に現れ、招待客たちへ挨拶を始めた。
「皆様、本日はお越しいただきありがとうございます。ご覧のとおり、東の大陸でも名高い楽団の演奏を——」
ホールには、さまざまな人物がいるように見えて、そこには一定の規則がある。
もてなす側になったからこそ分かる、私は挨拶になど耳を貸さず、一人一人客たちの分析に頭を回す。
(呼ばれているのは、伯爵や子爵クラス。公爵はいない。男性が多め、それに王宮勤めから引退した人々もいる。派閥までは厳密に分けきれないわね)
音楽会は最先端の、万人に好まれるイベントというわけではない。無論、貴族にとって音楽は欠かせないものであり、贅や名誉の象徴たるものだが、興味がない人間にとっては洗練された音色もいびきの騒音も同じものだ。
それゆえに、ここにいる人々はある程度は同じ趣味で繋がっている。だが、一部はそうではなく、付き合いで呼ばれたか、あるいは紛れ込ませているかのどちらかだ。
もしもっと長く、演奏が始まるまでここにいればそのあたりも分かっただろうが、挨拶の最中にテーンロー子爵家の使用人が私のそばにきて、耳打ちした。
「失礼。カルストン伯爵夫人、お屋敷からの急使が来ております」
喜びが溢れないよう、私はできるだけ厳かに、席を立ってホールから出た。
急使は見知った我が家の使用人で、私に一枚のメモを渡してきた。
それを読んだ私は、使用人を馬車へ先に乗り込ませ、ホールで挨拶を終えたテーンロー子爵が出てくるのを待った。
挨拶が終わって、一旦外に出てきたテーンロー子爵は、緊張のあまり上気した顔だった。そこへ水を差すのは忍びない、本当に。
私を見つけたテーンロー子爵が、何事かと近づいてくる。
「これはカルストン伯爵夫人、どうなさいましたか?」
「屋敷から使いの者が来ておりましたの。王宮から戻ってきた夫の体調が悪いそうで、とても心配なのです」
「それはいけない! 早く帰ってあげなさい。確か、大陸から戻ってきたばかりでしょう?」
「お気遣い感謝いたしますわ。それに、途中退席という無礼、何卒お許しくださいませ。また後日、機会を改めまして」
深々と頭を下げ、私は踵を返す。
テーンロー子爵は悪い人ではない、こうして見送ってもくれる。
だが、今のところ彼は私の敵になることを想像していないようだった。
我が家の馬車に乗り込み、御者に大至急の帰宅を命じる。私の手元のメモには『理由をつけて早く帰ってこい』とだけ書かれていた。
(まったく、こんな小技を使う知恵がついているなんて。アルバートも成長しているわね)
アルバートは見張りの執事に、私が早く帰れるよう一芝居を打たせたようだ。
これで私は音楽会に出席した、という事実ができ、気もそぞろで堪能できない音楽よりも今もっとも関心のある事柄に集中することができる。
無意識のうちに、少しだけ笑みが溢れた。
ひとまず、アルバートの仕事の成果に期待するとしよう。