作品タイトル不明
第二十三話 三年をかけて問題は降り積もった
ぼんやりと景色を眺めるのは、いつ以来だろう。
イヴェルタリーの領地にいたころ、私はいつも三人の兄と一緒にいた。世話好きの兄たちが末妹を手放さず、騎士の訓練や勉学の時間にまで連れて歩いたからだ。
十歳離れた長兄ウルフスタン、八歳離れた次兄ウルフリック、五歳離れた三兄エゼルウルフ、そして私。大事に大事に、もう失うまいと手の届く範囲に置かれていた。
もちろん、父イヴェルタリー伯爵もそうだ。私を見ていると、父も兄三人も、失ってしまった愛する人たちと重ねてしまうのだ。
だから父は、私を王妃の側仕えにと打診されたとき、断らなかったのだろう。自分を含め家族にとって、私への過保護は互いによろしくないと知っていたから、手離す決断をした。
王都へ上る前、もうイヴェルタリーの領地に戻ることはなく、この家族五人で会うことは少なくなるだろうと思った私は、せめて故郷の景色を目に焼きつけておこうとしたことがある。
屋敷そばの鐘楼に登って、山肌の深い森とそこから流れてくる大河、麦畑の広がる村落と街道、それに馬に乗った騎士たちの行進の列を眺め、これが故郷なのだと記憶に残したつもりだった。
しかし、記憶は年を取るごとに薄れていく。イヴェルタリーの領地が殊更いい土地ではなかっただろうし、住み慣れた王都も王宮も不便はままあるにもかかわらず、特別いい思い出とろくでもない思い出しか残らないのだ。
あのとき鐘楼の上で感じた風の匂いや、王妃が優しく私を呼ぶ声の高さは、もうはっきりと思い出せない。
今の私の鼻と耳は、遠く厨房から流れてくる焼いた肉の香ばしい香りと、久々にそばで感じるアルバートの深い呼吸音で占められている。
安定していた呼吸が突如として止まり、アルバートの起床を私へと教える。
膝の上で目を覚ましたアルバートが、まだぼんやりと私を見上げていた。
「あら、起きていたの」
「ああ」
「夕食までまだ時間があるわ」
使用人を読んで確認するほどでもないが、肉の香りの正体を知りたいだろうと思い、私はテーブルのベルへと手を伸ばそうとした。
すると、アルバートが「いや、いい」と言ってゆっくりと起き上がる。
ソファへ腰かけ直したアルバートは、寝ぼけ眼を擦ってから、私へこう言った。
「話がある」
アルバートは私を真っ直ぐに見据えてくる。
夕食までまだ時間はある。私は話に付き合うことにした。
「どうぞ」
「預かっているメリザンド王女の子、ベオフリックだったか? 父親は?」
「今のところ、不明ということになっているわ」
「不明? そんな馬鹿な話があるか。それに、結婚の話も聞いていないぞ」
「あら、婚約は?」
「婚約は——」
アルバートは寝起きの頭を叩き、ほとんど意識してこなかったであろう従姉妹の経歴を思い出していた。
アルソナ王国第一王女メリザンド。アルバートにとっては母の姉の子であり、私と近しいことから苦手意識を持って近寄らなかった親族だ。
それでも一応の経歴は頭に入っていたのだろう、アルバートは第一王女メリザンドの、婚姻にまつわる事情を口にする。
「ちょっと待て。確か、メリザンド王女は昔 許嫁(いいなずけ) を病で亡くしてから、特に結婚の話はなかったんじゃないか?」
「そうね。その上で、未婚の王女の出産は、どれほど危ういか分かるでしょう?」
「それは……まあ……」
第一王女メリザンドのかつての許嫁は、流行病によりわずか十四歳で命を落とした。それがもう十年前の話になる。そのせいで公爵家が一つ潰れ、アルソナ王国の公爵の基盤や後継者不足が取り沙汰されるきっかけとなった。
それ以降、第一王女メリザンドには結婚の話が出ていなかった。本人も乗り気ではなく、三年前、妹王女のアミスのほうが先に嫁ぐことになる。
ただ、第一王子ドンナーと第二王子ロウヴァンの争いがある中、あまり第一王女メリザンドの去就は注目されていなかったのだ。血縁関係もあって国内貴族にそうおいそれと嫁ぐわけにもいかず、さりとて国外となると外交という厄介な事情が絡んでくる。
なのに、第一王女メリザンドは秘密裡に出産し、男子を儲けた。父親は名乗りを上げず、王家にとっては大変機微な問題が生まれてしまったのだ。
何もかもが内密に、どれを取ってもまだ公にはできないことばかりだ。
「とんでもないことになったな。世間に知られればスキャンダルどころじゃない、王位継承争いも収拾がつかなくなる。それに、第一王女メリザンドでは誰かと強引に結婚させて、遡って書類上はその子とする方法も使えない」
「昔、アルソナ王国にはセダル公爵をはじめ比較的新しい公爵家しかないのだから、必然的に王女はそちらとの関係を優先して降嫁すべき、と主張した大臣もいたわね。ほとんど従兄弟婚になってしまうから無理だったけれど」
実にややこしいことになってしまった、と目の前のアルバートのように王家の誰もが頭を抱えていたことだろう。
ややこしい問題は棚上げするに限る。この三年間はそうなっており、ベオフリックは我が家でお昼寝をしているのが現実だ。いずれ隠し通せなくなるとき、責任を取るのは自分ではありませんように——皆がそう思ったのかもしれない。
無論、私はそんな不埒な考えが頭をよぎったことすらないが。
しばし考えたアルバートは、問題を慎重に切り出す。
「結局、メリザンド王女は誰と結婚するんだ? いや、すべきなんだ?」
その問いには、私の立場ではこう答えるしかない。
「責任を取る人間次第で変わってくるし、道義的にこのまま逃すわけにはいかない。だけど、アルソナ王国第一王女のお立場をこれ以上揺るがさないためにも結婚相手は身分に見劣りしない男性とするほかない。これが、現状よ」
あくまで、私の立場からすれば、そうなる。
それをアルバートも理解しているのか、一旦その前提を取り払った。
「お前の意図はともかく、俺が意見するとこうなる。その条件下だと、アルソナ王国として最大の利益を得るために、メリザンド王女を嫁がせるべきところは……停戦や和平を見越して、ウーリゼン帝国じゃないか?」
それは、第一王女メリザンドという危険物をアルソナ王国から遠ざけ、安全に処理する方法だ。
海を越え、大陸という情報の流れてこない遠くへ押しやり、諸問題どころかベオフリックの存在さえもあやふやにする。しかも、表向きは輿入れと和平がセットになり、誰の体面も傷つかない。
第一王女メリザンドの受けた傷を無視すれば、最適解だろう。
私がその答えを手ひどく糾弾する前に、アルバートは条件を追加した。
「た、ただし、責任云々となると話は別だ。そこを解決しないことには、メリザンド王女を安心して嫁がせることはできない、そうだな?」
「ええ。ベオフリックは当然ウーリゼン帝国まではついていけないから、彼女の血統自体はアルソナ王国に残ることになる。これが王家として落としどころになるでしょうね」
「しかし、責任か。彼女を身ごもらせた相手に、落とし前をつけさせるということなら」
「できなくはないし、我が家としてはそれをやると『 国王の養父母(キングメーカー) 』という不名誉なあだ名を付けられてしまいかねないわ」
少なくとも、私の知る範囲では、そうなってしまう可能性が高いと判断している。
そう言わずとも、アルバートは思いっきり眉を上げ、言葉を詰まらせていた。
第一王女メリザンドの名誉のために問題を解決するとなると、玉座の主さえも左右しかねない事態に陥るだろう。
その意味を理解できたアルバートは、最悪の可能性を思いついてしまったようだ。
「まさか……ドニー王子が関わっているのか?」