作品タイトル不明
第六十三話「酒豪カティ」
トリア暦三〇一七年九月二十四日午後六時頃。
俺は鍛冶師ギルドの集会室にいる。
そして、目の前では三日連続――俺たちにとっては二日連続――の宴会の準備が進められていた。
今日の主役はドワーフたちでは無く、カウム王国の王妃カトリーナ。
彼女は昼間に起きた俺に対する暴行未遂事件(?)の対応のために鍛冶師ギルド本部を訪れ、鍛冶師たちが納得できる案を提示し、大きな混乱を起こすことなく解決させた。
王妃の政治感覚は非常にスマートなものだった。
カウム王国が今後一切鍛冶師ギルドに干渉しないという案を提示した上で、それを明文化した文書まで準備し、更に後で判ったことだが、法として整備することも視野に入れていた。
鍛冶師たちにとって王国からの干渉は非常に煩わしいものだろうから、鍛冶師たちもそれだけで充分に納得している。
俺に関することだが、今回の直接的な被害者は確かに俺ザカライアス・ロックハートだ。だが、俺は帝国の叙任された騎士でもなく、まして貴族でもない。辺境の騎士の次男坊という限りなく平民に近い存在だ。そして重要なのは公人として王国を訪問したわけではないということだ。
これが公的な組織の代表であったなら、身分が低くともその公人に対して剣を向けることは大問題だ。だが、今回はあくまで私人としての一個人であり、通常なら上級貴族である伯爵から剣を向けられた程度では王国政府が問題だと認識することはあり得ない。
但し、俺の場合、いささか事情が異なる。
鍛冶師ギルドとはロックハート家の一員というだけでなく、個人としても懇意であり、ギルドが公式に抗議を行っているからこそ問題になったのだ。つまり、極端なことを言えば、ギルドが納得する謝罪案を出せば、例え俺が納得しなくとも、王国としては解決したことになる。
今回、王妃はそれを理解した上で、謝罪案を提示した。もし、グレンジャーを処刑することで謝罪とすると言われても、遺族から恨まれるだけで少なくとも俺にメリットはないが、俺も鍛冶師たちも納得できる案、つまり、俺にうまい酒を与えるというドワーフたちが最も喝采する案を提示することにより、関係者が納得する案を提示したのだ。この点だけ見ても優れた情報収集能力とシャープな政治センスを持っていると言える。
だが、そこからだった。俺が困惑したのは。
そこまではそれほどおかしな展開ではなかったのだが、突然、王妃がドワーフたちの仲間になりたいと言い出した。そして、その理由が“ザックコレクションを飲みたいから”という意表を突くものだった。
王妃の酒への熱い想いを認めたドワーフたちは、快く彼女を仲間に迎え、ザックコレクションを味わうための宴会が始まろうとしている。
俺は未だにこの展開についていけない。
(王妃がウルリッヒたちを説得したところまでは予想の範囲内なんだが、 宴会(これ) は何で必要なんだ? この王妃様の考えに全く付いていけない……)
確かに王妃の酒への想いは本物だろう。
恥じらいを見せつつも、初恋の相手に対するような熱い想いを吐露している。もし、あの熱い想いが演技なら、王妃は俺の想像を遥かに超えた役者なのだろう。
そこまで考えたが、これ以上考える必要がないことに気付く。
(まあいいだろう。宴会になれば本物かどうかはすぐに判るはずだ。もし演技なら、一口飲んだところで馬脚を現すはずだ。少なくともドワーフには気付かれるはずだ。本当に酒を飲みたいのか、ただ、酒を口実にコネクションを作りたいのかが……)
ギルド職員たちの手で準備が一気に進められていく。
いつも思うことがある。鍛冶師ギルドの職員の最大の仕事は宴会の準備なのではないかと。
あっという間にテーブルが並べ替えられ、更にはジョッキやグラス――昨日俺が提供したもの――が用意されていく。日本に行けば、すぐにでもホテルや結婚式場の裏方になれそうなほど手際がいい。
更にザックコレクションの入った金属製の樽と通常のスコッチ、ブランデー、カルバ ト(・) ス――りんご酒の蒸留酒。蒸留職人カルバートの名をとった酒――の樽も集会室の中に運び込まれていく。
それだけでなく、いつの間にか集会室から消えていた王妃が新たな樽を運び入れる指揮を執っていたのだ。
「こちらに置いたらよいのかしら?……これはどこに?……ええ、これは甘口の白ワインよ……」
どうやら王宮から持ち出した酒樽について、職員たちと協議しながら設置しているようだ。
これだけ活動的な王妃も珍しいが、ギルドの職員も侮れない。
自国の王妃を相手に物怖じすることなく、対応しているのだ。一昨日、ザックコレクションの積み下ろしで躊躇っていた姿は微塵もない。
(つまりだ。自分の国の王妃様より、ザックコレクションの方が緊張するということか……おかしい気がするが、ウルリッヒたちを見ていれば分からないでもないな……)
三十分ほどで宴会の準備がほぼ完了した。
「後は料理を出すだけじゃが、まずはザックコレクションじゃ。こいつには料理はいらん」
ウルリッヒがそう言うと、王妃が目を輝かす。
「一番に飲ませて頂けますの!」
四十を過ぎている王妃が少女のように胸の前で両手を握りしめ、喜びを表している。
昨日の試飲会で職員たちはザックコレクションの供し方を把握したようで、デキャンタ用のボトルに移し替え、きれいに磨き上げられたグラスを並べていく。
その横ではウルリッヒがグラスを持ち上げ、「これからは王妃様用のグラスも用意しておかねばな」と王妃に笑いかけている。
王妃はその言葉に「ありがたいことですわ」と微笑むが、
「でも、その“王妃様”というのはちょっと。 私(わたくし) も、もうお仲間なのですから、カティと呼んで頂きたいですわ」
ウルリッヒはガハハと笑い、
「よかろう。この場だけじゃが、カティと呼ぶことにするわい」
王妃は「私もウルリッヒさんとお呼びしますわ」とにっこりと笑った後、俺に顔を向ける。
「ザカライアス卿もお願いしますね。私もザックさんと呼ばせて頂きますから」
俺はその言葉に焦る。
国主に匹敵する鍛冶師ギルドの 匠合(ギルド) 長であるウルリッヒを呼び捨てにしているが、さすがに一国の王妃を名では呼べない。常識的には“王妃殿下”と尊称で呼ばねばならないのだ。
「それは……ご容赦頂けないでしょうか」
困惑を伝えるため、そう言ってみたが、きっぱりと断られた。
「いいえ、この場に王妃も匠合長も関係ありません。ここにいるのは“お酒好き”だけなのですから」
横で聞いていたウルリッヒたちが、それを茶化すように笑い声を上げる。
「諦めろ、ザック。カティの言う通り、身分も地位も関係ないんじゃ」
「そう言われてもな……王妃様だぞ……」
ウルリッヒだけに聞こえるようにそう言うが、確りと王妃にも聞こえていたようで、
「あら、寂しいことをおっしゃるのね……私だけ 除者(のけもの) に……」
そう言って泣き真似をする。
鍛冶師たちからも「そいつはよくねぇぞ」という声が上がる。俺は諦めて、「分かりました」と頭を下げるが、
「さすがに呼び捨てはどうかと思うので、カティさんと呼ばせて頂きます。もちろん、この場だけですが」
この王妃が相手だと、主導権が握れない。
どこまでが演技なのかは判らないが、既にウルリッヒたちとは完全に打ち解けている。この良好な関係が継続できるなら、カウム王国から鍛冶師ギルドが去ることは無いだろう。
俺たちが話をしている間にギルド職員たちが 長期熟成酒(ザックコレクション) を注ぎ始める。
グラスに琥珀色の液体が注がれ始めると、昨日と同様、集会室は厳粛な空気に包まれていった。
俺たちの席はウルリッヒら最上位の鍛冶師たちと同じテーブルであり、そこには当然、王妃も着席していた。正面に座る王妃から小声で質問が来る。
「ザックコレクションの飲み方を教えていただけませんこと?」
王妃の問いに昨日ウルリッヒたちにした説明を繰り返すが、心の中では既に知っているのではないかと考えていた。
(鍛冶師ギルドに情報源を持っているはずだ。そうでなければ、昨日の今日でドワーフたちが涙した様子を知っているはずが無い。それなら、飲み方も聞いているはずなんだが……俺に聞いたのは一応礼儀という感じなんだろうな……)
スコッチが満たされたグラスが行き渡る。
「まずはザックコレクションを味わうとするか」
ウルリッヒの言葉で、ドワーフたちが一斉にグラスを持ち上げる。相変わらず一糸乱れぬ動きで、これにはさすがの王妃も目を丸くしていた。
昨日と同様に口をつけたまま、動きが止まる。
さすがに昨日のように涙を流すものはいないが、それでも表情は恍惚としていた。
王妃も同じように口をつける。
王族らしく上品に口をつけるが、香りが上がってきた瞬間、表情が大きく変わった。優しい笑みを浮かべていた顔が眉間にしわを寄せ始め、真剣な表情に変わっていく。その真剣な表情は長く続かず、ゆっくりと、だが確実に表情が蕩けていった。最後には昨日のドワーフたちと同じく、うっすらと涙を浮かべ、動きを止めていた。
周囲ではスコッチを口に含み、「うめぇ!」と叫んでいるが、王妃は周囲の騒音が耳に入らないのか、三十秒ほど香りを嗅ぎ続けていた。
ウルリッヒが「軽く口に含むんじゃ」と言うと、頷くことなくグラスを少し傾ける。先ほどまでの王妃ならウルリッヒに礼を言ったのだろうが、彼の姿が目に入っていないかのように、ただ指示に従っていた。
口に含んだ瞬間、再び表情が変わるが、横にいるリディが肘で俺を突く。どうやら、貴婦人の顔を凝視し続けるのは失礼だと言いたいようだ。
確かにその通りなので、視線を自分のグラスに移し、ゆっくりと口に含んでいく。
(やはり、まだまだだな……)
俺は飲みながら、このスコッチに足りないものについて考えていた。
(うちのスコッチに足りないのはスモーキーさだ。 泥炭(ピート) が手に入らないからなんだが、ラフロイグやラガヴーリンみたいなガツンとくるスモーキー臭があってもいい……まあ、ピートの効いていない“ノンピート”も好きなんだが……)
ピートについては、ラスモア村周辺で探したのだが、結局見付からなかった。スコットの蒸留所では麦芽の乾燥を石炭でやっているため、ほとんどピートが効いておらず、優しい感じのスコッチに仕上がっている。
(……今のところ、俺以外、問題だと思っていない。これは当然なんだが……これからブレンデットを作るようになると、絶対にピートの強いウィスキーは必要だ。というより、ピートの効いているものが無いというのが問題なんだ……)
そんなことを考えていたら、急に王妃が立ち上がった。
「スコットさん!」
突然、名を呼ばれ、スコットは思わず立ち上がった。だが、王妃はそんなことを気にすることなく、
「これがアルスでも造れるようになりますの! 蒸留所を建てれば、これと同じものが!」
スコットは王族に名指しで呼ばれ、完全に萎縮しており、答えられない。
スコットが不憫になり、俺が代わりに答える。
「必ず出来ます。ですが、職人の腕と情熱、そして、何より時間が必要です。このザックコレクションは十年物。つまり、酒として造られてから十年の時が必要なのです。更に上を目指すのであれば、二十年、三十年という時間が必要でしょう」
王妃は「十年も」と呟き、椅子に座り込む。だが、すぐに思い直し、ウルリッヒに向き直る。
「絶対に作りましょう! 三十年でも五十年でも構いません! スコットさんのお酒に 優(まさ) る物を。私に出来ることなら何でもおっしゃってください! 国を挙げて支援しますわ!」
(それじゃ、ギルドに干渉しないって言う話と矛盾しないか?)
俺と同じことを考えたようで、ウルリッヒが苦笑いを浮かべて切り出す。
「カティの言いたいことは分かるんじゃが、それでは国が酒を造ることになっちまうじゃろう。儂らが何とかするから、カティは大船に乗ったつもりで待っておればよい」
そこでようやく自分が興奮していることに気付いたのか、「あっ」と言って両手で顔を隠す。
「年甲斐も無く、興奮してしまいましたわ。蒸留所のことは鍛冶師ギルドの皆さんにお任せします。ですが、私にも何かさせていただきたいですわ。こんなにおいしいお酒を造るのに何もしないなんて……ザックさん、何かいい知恵はございませんか?」
そう問われ、俺は一つだけあると答えた。
そして、その方策を伝えると、王妃は大きく頷いていた。
その後、大宴会に突入する。
王妃の持ち込んだ 葡萄酒(ワイン) は甘口のワインだった。葡萄の濃縮した甘さと爽やかな酸味で、貴腐ワインで有名なフランスのソーテルヌやハンガリーのトカイのものというより、ドイツのアイスヴァインのような味わいだった。
「これは他では滅多にできないのよ。私の実家のある村だけで作れるものなの。ザックさんにはこれを年に一樽贈ることにするわ。それと実家の甘口のリンゴ酒もね」
王妃はうまそうに飲んでいるメルとシャロンにいたずらっぽい笑みを浮かべて、
「でも、飲みすぎるとこんな体形になっちゃうから注意してね」
二人は一瞬、グラスを持つ手を止め、顔を見合わせる。
「うふふ、大丈夫よ。私はお酒なら何でもたくさん飲むしたくさん食べるから、こうなっただけ。最近では甘過ぎてそれほど飲んでいないのよ……でも、飲みすぎには注意しなさいね」
そう言いつつも右手のジョッキを放すことは無かった。その中には三年物のスコッチがなみなみと入っており、既に二杯目に突入している。
王妃の横ではウルリッヒが「カティは飲みすぎじゃ」と呟いているが、一向に手を止める気配は無かった。
(大丈夫なのか? ザックコレクションはさすがに一杯で止めたが、その後はスコッチをがぶ飲みしているんだが……急性アルコール中毒ってレベルを超えているぞ。陽気になっているから酔ってはいるんだろうが、ベアトリス以上に飲める女の人を初めて見た気がするな……)
陽気になった王妃が今回の処置について詳細を教えてくれた。
「シャーゴールド侯には今回のようなことが二度と起きないよう、きちんとした法律を整備して頂きます……」
理屈倒れのシャーゴールド侯に相応しい仕事だが、それで処分になるのか疑問に思った。
「鍛冶師ギルドに対する不干渉だけでなく、他にも色々と……すべての人が守るべき法律を作って頂きますわ。陛下も含めてね。そんな法律を作った人は大変でしょうね。いろいろ言われるでしょうし……」
確かにその通りなのだが、もし、シャーゴールド侯が法の整備の仕事を放棄したら意味がないのではないか。そのことについて問うと、
「もし、侯爵が放棄したら……それは鍛冶師ギルドとの約束を反故にすると取られてもおかしくないですわね。陛下もそこのところはご理解頂けるはずなので、侯爵を職務怠慢の罪で処分することになりますわ」
王妃は満面の笑みを浮かべてそう言いきった。逃げ出せば、シャーゴールドは国王の側近という地位を失うだけでなく、強制的に隠居でもさせられるのだろう。もしかしたら、王妃によって侯爵家は取り潰されるのかもしれない。俺にはそれほど凄惨な笑みに見えた。
話題を変えるため、俺に剣を向けたグレンジャー伯について聞いてみると、一瞬その存在を忘れていたかのように、「グレンジャー伯?」と小首をかしげ、
「ああ、あの方は伯爵位を剥奪されて平民になるそうですわ。その上でノーリッシュ家預かりになるそうですよ……」
ノーリッシュ家預かりと聞き、随分軽い処分だなと思っていると、
「……もちろん、蟄居などさせません。聖銀騎士団の一兵士として身を粉にして働いてもらいます……爵位を失い平民となるのですから、今まで見下していた子爵以下の貴族に頭を下げねばならないのです。それがあの人にとっては一番の罰でしょうね……」
彼は爵位を剥奪され、更に国王との血縁関係についても絶縁される。その上で宮廷の警備につかせれば、今まで侮蔑していた下級貴族や騎士たちに対して頭を下げ続けなければならない。
騎士団を辞めればいいだけじゃないかと思い、そのことについて聴いてみると、
「父親であるノーリッシュ公がきちんと対応してくださいますわ。大きな失敗をした親族が償う機会を与えられたのですもの。もし、職務を放棄すれば……それは公爵の監督不行き届き。ノーリッシュ家が責任を取ることになるのでしょうね……」
王妃は問題の多いグレンジャーをノーリッシュ家に監督させ、彼が失敗するなり、職務を放棄するなりすれば、それを理由にノーリッシュ家に責を負わせるという。ノーリッシュ公は絶縁したいグレンジャーを保護し、かつ、働かせなければならない。失敗すれば、ノーリッシュ家にペナルティが課せられるし、成功させるためには問題の多いグレンジャーを制御し続けなければならない。
「……もし、グレンジャー殿が不慮の死に見舞われたら、厳正なる捜査が行われます。鍛冶師ギルドに対して、王国が説明しなければなりませんから。ノーリッシュ公に証拠を残さず暗殺するなどという器用なことが出来たとしても、鍛冶師ギルドに対する責任がございますわ。もし、万が一ノーリッシュ家の関与が発覚すれば……これ以上は言わなくても分かりますわね」
商店の女将のような王妃の顔が一瞬、違うものに見えた。
グレンジャーが死ねば、ノーリッシュ家は自らの関与の 如何(いかん) に関わらず、鍛冶師ギルドに対する責任という名目で処分される。つまり、グレンジャーの死がノーリッシュ家に不利益になるような仕組みになっているのだ。
更に国王についても、どのような対応をするか教えてくれた。
「陛下にはこれからきちんと仕事をしていただきますわ。若くて有能な文官たちを昇進させて監督、いえ、助言させます……陛下は下々のことを軽くお考えになる傾向にありますから、今回のことはよい教訓になったはずです。もし、教訓になっていないようなら……」
王妃はそれ以上語らなかったが、恐らく強制的に隠居させられるのだろう。
「でも、本当はこんなこと……ごめんなさいね。ザックさんにご迷惑を掛けたことは申し訳なく思っているのよ。でも、こんなことをやりたくはないのよ。私はこうやって飲んで騒いでいる方が楽しいんですもの。誰かが代わってくれればいいのだけど」
そう言ってちらりと俺の方をみるが、俺は目を合わさないようにする。
「でも、こんなにおいしいお酒がロックハート家のお屋敷には何十樽もあるのでしょ……私も見てみたいわ……」
そう言いながらも三杯目のスコッチをぐびぐびと飲んでいた。
まさに鯨飲という言葉が相応しい。
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トリア暦三〇一八年、カウム王国では次のような法律が制定された。
“蒸留酒及び長期熟成酒の品質に関する法律”
そこには蒸留酒の品質を維持するため、以下のようなことが定められていた。
カウム王国産スコッチと名乗るには、以下の全ての条件を満たす必要がある。
『カウム王国内の蒸留所にて、水および発芽させた大麦(これに他の穀物の全粒のみ加えることができる)から蒸留されたものであって……当該蒸留所または王国内の醸造所にて、酵母の添加のみにより発酵されたものであり……七百リットル以下の容量のオーク樽において、カウム王国においてのみ熟成されており、三年(三十六ヶ月)以上の期間、熟成されていること……その製造および熟成において用いられた原料ならびにその製造および熟成の方法に由来する色、香りおよび味を保持しており、一切の物質が添加されておらず、国の検査官により、全量の四割以上が酒精と判定されたものをカウム王国産スコッチと呼称することが出来る……』
この法律は当時の国王アルバート十一世により公布されたが、法律の制定には王妃カトリーナの並々ならぬ尽力があったとされる。
また、この法律の制定に対し、Z・ロックハート卿が助言したとされている。
更に品質を守るため、悪質な業者を排除するため定期的な監査を行うと共に、一定の品質以上の蒸留酒に対する税率を軽減するなどの施策も実施している。
特に長期熟成酒に関しては苛烈なほどの取り締まりを行ったことから、“魔女カティ”や、厳しく罰するという意味の Soak(ソーク) をもじった“カティ・ソーク”と呼ばれることになった。
なお、この“カティ・ソーク”には“酒豪カティ”という意味――“Soak”には“痛飲する”という意味もある――もあり、鍛冶師たちは好んでその呼び名で呼んだという。
この“カティ・ソーク”という呼び名は、後にアルス王国を代表するブレンデットウィスキーの銘柄として今も生き続けている。
王妃カトリーナの政治への関与は表向きには蒸留酒に関するものに限られていた。だが、Z・ロックハート卿傷害未遂事件以降のカウム王国の状況を見る限り、カトリーナが裏から関与し続けた可能性が高いと言われている。
また、国王の側近を刷新すべく、若く有能な官僚を多数推挙した点は高く評価されている。
悪質な蒸留酒製造業者に対する苛烈な取り締まりだが、これは王国の法治主義を明確に打ち出す手段であったという説が定説となっている。事実、トリア暦三〇一八年以降に制定、修正された法令は多く、更にそれらは体系的に整備されていった。
その改革により、カウム王国は王家と一部の上級貴族による寡頭政治から、官僚による法治国家に転換し、豊富な資源と優秀な鍛冶師たちを有する強国になっていった。ただ、強国になるにはスコッチと同様に二十年近い年月が必要であった。
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オズワルド・グレンジャー元伯爵は爵位を失った一年後に、王宮内である騎士に斬りかかったことで、法に基づき処刑された。その相手となった騎士はグレンジャーがトーア砦の司令であった際に、多くの友や部下を失った部隊長だった。彼は平民となったグレンジャーをことあるごとに愚弄しつづけ、最終的には激高させることにより、部下たちの仇を討つことに成功した。
グレンジャーが宮廷内で刃傷沙汰を起こしたことにより、父親であるセオドア・ノーリッシュ公爵はその監督責任を取らされる形で当主の座を長男に譲った。彼は失意と共に王宮を去り、領地に引きこもったのち、病死した。
ジェローム・シャーゴールド侯爵は台頭する若手官僚たちに押し出される形で、国王の側近の座を失った。彼は巻き返しを図ろうと旧体制派となる上級貴族たちに接触を図るが、貴族に不利な厳しい法律を制定した彼を誰も相手にしなかった。窮した彼はあろうことか、政敵であったセオドア・ノーリッシュ公爵と手を組もうとしたが、グレンジャーの起こした不祥事によりノーリッシュ公が隠居すると、打つ手がなくなり不満を漏らすだけの存在に成り下がった。そして、国王を批判していると取られかねない発言を漏らした結果、国王からも疎まれ、失意のうちに宮廷を去っていった。
アドルファス・エッジカンブ伯爵は上司であるシャーゴールド侯爵が側近の地位を失いつつあると知ると、すぐに侯爵を見限り、三公爵に接近するが、結局誰からも相手にされなかった。そのため、鍛冶師ギルドとのパイプを作ろうと領内に蒸留所を造ったが、元々いい加減な資産管理を行っていたため、すぐに資金繰りが苦しくなった。苦肉の策として三年間という熟成期間を待つことなく蒸留酒を販売しようとしたが、カトリーナの意向で作られた蒸留酒品質監査チームに蒸留酒法違反で逮捕され、結局多額の借金だけが残ることになった。
国王アルバート十一世は公式には三〇二八年に嫡男である王太子に王位を譲り、隠居したことになっている。だが、現在では彼が以前のような王政を目指し、官僚たちを放逐しようとして失敗した結果、王妃と王太子によって強制的に隠居させられたという説が有力となっている。退位後は一切の公式行事に出席することなく、退位した十年後に死去した。
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蒸留酒に関する名著“トリア・ウィスキー大全”の著者G・E・マーチャントは“カティ・ソーク”の項で王妃カトリーナについて以下のように記している。
『カトリーナ・ブレントウッドはサウスハイランド地方、つまり、カウム王国におけるスコッチの生産、普及に欠かせない人物であった。彼女が制定したとされる“蒸留酒及び長期熟成酒の品質に関する法律”は王国内だけでなく、他国にも広がり、スコッチの品質維持向上に大いに寄与した。事実、この法律が普及したことにより蒸留酒の品質は世界レベルで上がった。なお、この法律の普及に対し、鍛冶師ギルドが各国に圧力をかけたとされるが、真偽のほどは明らかにされていない……』
更にブレンデットウィスキー“カティ・ソーク”についてこう記している。
『……カティ・ソークはサウスハイランドを代表するスコッチの銘柄であり、一般的にはやや甘口の飲みやすいスコッチと言われている。また、サウスハイランド産のスコッチを普及させるという王妃カトリーナの意向を受け、あえて価格を抑えており、世界各国で見ることができる。しかし、飲むほどに甘さだけでなく、深い味わいとパンチの効いた香りを印象付ける。これは名前の由来となったカトリーナの多面性を表していると言われ……』
そして、このウィスキーの ラベル(エチケット) のデザインについても記していた。
『……このカティ・ソークの ラベル(エチケット) には必ず帆船の絵が描かれている。海のない山国であるカウム王国のウィスキーに、なぜ帆船なのか。これについては有名な逸話が残されている……鍛冶師ギルド総本部は“カティ・ソーク”というウィスキーの銘柄を作る際、Z・ロックハート卿にラベルのデザインを依頼した。彼は初めて王妃カトリーナに出会った際、彼女が着ていたチュニックとスカートの色合いが帆船に似ていた――キャンバスのような色合いのチュニックと船体のような濃い茶色のスカートを着用していたと記録に残っている――ことに加え、彼女の体格が帆を張った帆船のように見えたことから、帆船をモチーフにしたデザインを採用したとされている……この逸話はロックハート卿本人の証言も残っており、信憑性は高いのだが、その当時、帆船を見たことがなかったはずのロックハート卿が、なぜそのような感想を持ったかについては定かではない……』