軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第3話 名もなき花束

黒い斑点が、子供の腕に広がっていた。

小さな腕だ。五つか六つか。母親に抱かれた男の子は、熱で頬を真っ赤にして、ぐったりと力なく目を閉じている。

「黒斑熱です。三日前から村の子供たちに広がって……」

村長が額の汗を拭いながら言った。声が震えている。

砦から馬で半刻の村。ゼルギウス様に「村で病が出た」と告げられて馬車に乗せられ、着いた先がこれだった。

家の中に寝かされた子供が七人。どの子も同じ黒い斑点と高熱。母親たちが顔を覆って泣いている。

黒斑熱。辺境の風土病で、罹れば半数が死ぬと聞いたことがある。宮廷で薬草管理の仕事をしていた頃、文献で読んだ。治療法は確立されていない——というのが、この世界の常識だ。

でも。

子供の腕に触れた瞬間、頭の奥で何かが弾けた。

(この斑点の出方……壊死じゃない。毛細血管の炎症。発熱と発疹が同時に出ているなら——水系感染症?)

水系。感染症。

また、知らないはずの言葉が浮かぶ。

でも今度は、あの夜の治療のときほど戸惑わなかった。この知識は「正しい」と、体が知っている。

「村長。この村の井戸はどこですか」

「井戸? 広場の中央に——」

「見せてください。それと、子供たちが遊んでいた場所に水たまりはありませんか。虫の多い場所は」

村長が目を丸くした。

私も、自分の口から出る質問に少し驚いていた。けれど足は動いている。頭の中の知識が、歩くべき道を示している。

井戸の水を汲んで、光にかざした。

微かに濁っている。匂いもおかしい。近くの水たまりには小さな虫がうようよと湧いていた。

(汚染された井戸水と虫の媒介。二重の感染経路。だから子供に集中してる——水遊びをするから)

原因がわかれば、やることは決まっている。

井戸を封鎖した。

水たまりを埋めさせた。

薬草園——砦の裏手に自分で作った小さな畑——から持ってきた解熱草と浄血花を煎じて、子供たちに飲ませた。

その上から治癒魔法をかける。金色の光が子供たちの腕を包む。

一人。二人。三人。

黒い斑点が薄くなっていく。熱が下がっていく。

四人目の子——最初に見た男の子の熱が下がったとき、母親が声を上げて泣いた。

「ああ……ああ、先生……!」

先生。

そう呼ばれたのは初めてだった。

闇の魔女でも、流刑囚でも、元侯爵令嬢でもなく。

先生。

「……大丈夫ですよ。もう峠は越えました」

声が少し揺れた。

自分の声だとは思えなかった。

七人全員の治療を終えた頃には日が暮れていた。体は重い。けれど倒れるほどではない。二週間で魔力の加減を覚えたのだ。

砦に戻る馬車の中で、治療の記録をまとめた。原因。症状の推移。使用した薬草。治癒魔法の効果。煎じ薬だけでも効く可能性。

(これは……論文にできる。誰かの役に立てるなら、まとめて送るべきだ)

王立学術院宛。著者名は書かない。流刑囚の名前では読んでもらえないだろうから。

翌朝、砦の伝書鳩に論文を託した。

辺境伯がそれを見ていたらしい。何を送ったかは聞かれなかったが、夕食の席でぽつりと呟いたのが聞こえた。

「——昔の友にも、報せておくか」

誰に何を報せるのかは、わからなかった。

花の匂いで目が覚めた。

医務室の机の上に、小さな花束が置いてある。名前の札はない。野の花を無造作に束ねただけの、素朴な花束だ。

昨日もあった。一昨日もあった。

ここ数日、毎朝置かれている。

(領民のどなたかが、感謝の印に置いてくださっているのかしら)

黒斑熱の治療以来、村人たちの態度が変わった。砦に野菜を届けてくれる人が増えた。だから花束も、その延長だろう。

花瓶に水を入れて、花を活けた。

青い小さな花。名前は知らない。

窓の外を何気なく見ると、朝靄の中を歩く人影があった。

灰色の髪。ゼルギウス様だ。早朝の見回りだろうか。

——あら。

その手に、何か青いものが見えた気がした。

目を凝らしたときにはもう、ゼルギウス様は角を曲がって消えていた。

(気のせいね)

花瓶の花に目を戻す。青い花が、朝の光の中で揺れていた。

王都、王立学術院。

ミリアーナ・ロートは、白い指で論文の頁をめくっていた。

『辺境地域における黒斑熱の病因と治療法の提案——著者不明』

学術院の廊下は騒がしかった。学者たちが集まって、この論文の話をしている。

辺境から届いた匿名の論文。汚染水と虫媒介という二重の感染経路の特定。薬草と治癒魔法の併用療法。症例報告七件。

「画期的だよ。黒斑熱の治療法がまとめられたのは史上初だ」

「著者不明というのが気になるが……辺境にこれほどの治癒理論を書ける者がいるとは」

ミリアーナは頁を見つめた。

理解できなかった。

治癒魔法については誰よりも学んできたはずだった。教会で、学院で、この国で一番の治癒師だと——そう認められて、聖女の称号を得たはずだった。

なのに、この論文に書かれている理論が、まるで読めない。

知らない概念。知らない治癒の手順。知らない言葉。

(——辺境に。辺境の、誰が)

胸の奥が冷たくなった。

あの女を追い出してから、もう半月以上が経つ。闇の魔女は辺境で野垂れ死ぬと、誰もが言っていた。わたくしもそう思っていた。

まさか。

「ミリアーナ? どうした、顔色が悪いぞ」

レオンハルトの声がした。

振り向くと、殿下が心配そうにこちらを見ている。

「殿下……」

論文を閉じた。手が震えている。

それを隠すように、レオンハルトの腕に手を添えた。

「あの辺境の治癒師が、少し気になりまして」

「匿名の論文だろう? 辺境の軍医が書いたのかもしれん。気にすることはない」

「……ええ。そうですわね」

微笑んだ。完璧に微笑んで見せた。

でも指先は、レオンハルトの袖を掴んで離さなかった。