軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第4話 偶然だ

月明かりの下で、銀色に光る草を摘む。

月露草。夜の間だけ葉の表面に銀色の露を結ぶ、辺境の希少薬草だ。日が昇れば露は消え、ただの雑草に戻る。

新しい解熱薬の材料にしたくて、三日前から場所を探していた。砦の裏手の森を抜けた先、小さな沢のほとりに群生しているのを見つけたのが昨日の夕方。

夜の森は静かだった。

虫の声と、沢の水音と、自分の足音だけ。

籠に月露草を詰めながら、また——あの記憶が来た。

白い廊下。蛍光灯。消毒液の匂い。

今度はもっと鮮明だった。

棚に並ぶ小さな瓶。ラベルに書かれた文字は読めないけれど、何が入っているかはわかる。解熱剤。鎮痛剤。抗生物質。

薬棚の前に立つ誰かの手。白い手。私の手——に、似ている。

声が聞こえた。

「お疲れさま、先生」。

同僚の声。白衣を着た女性が笑っている。

(先生——薬を扱う先生。調剤する人。)

言葉が浮かんだ。

薬剤師。

私は——前の世界では、薬剤師だった。

籠の中の月露草を見つめた。銀色の露が月光を反射して、小さな星のように瞬いている。

薬草を摘む手つきが妙に慣れているのも、煎じ薬の配合が直感でわかるのも、患者の容態から必要な処置が見えるのも。

全部、あの白い廊下の記憶が教えてくれていたのだ。

——でも。

前の世界の私は、どうなったのだろう。

記憶はいつも途切れる。白い廊下と薬棚と同僚の声。その先が見えない。帰る家はあったのか。待っている人はいたのか。

(たぶん——いなかった)

根拠はない。けれど体が覚えている。深夜の調剤室で一人、帰る気力もなく椅子に座っていた感覚。誰にも頼れなかった重さ。

この世界でも同じだ。

王太子に裏切られ、父に捨てられ、一人で辺境に立っている。

結局、どの世界でも——

がさり、と草が鳴った。

考えごとに沈んでいた意識が一瞬で覚醒した。

振り返る。森の奥、木々の隙間に——光る目が二つ。

黒い影が飛び出してきた。

大きい。

狼よりも二回りは大きな獣が、牙を剥いて跳躍してくる。

逃げられない。足がすくんだ。治癒魔法は攻撃には使えない。手をかざしたところで傷を治すだけだ。

(だめ——)

爪が月光を弾いた瞬間、銀色の光が横から走った。

違う。銀色の光ではない。剣だ。

一閃。

獣の首が宙を舞い、胴体が地面に崩れ落ちた。土埃が舞い上がる。

剣を振り抜いた姿勢のまま、ゼルギウス様が立っていた。

「——夜に一人で森に入るな」

低い声。息一つ乱れていない。

「ゼルギウス、様……」

声が震えた。膝が笑っている。座り込みそうになるのを、必死に堪えた。

「なぜ……ここに」

「偶然だ」

偶然。

偶然、深夜に、森の奥に、剣を帯びて。

——明らかに嘘だ。

でも追及する余裕がなかった。心臓がまだ暴れている。獣の死体が足元に転がっている。血の匂いがする。

ゼルギウス様は剣を鞘に収めて、踵を返した。

「帰るぞ」

それだけ。振り返りもしない。

でもその歩調は、私が追いつける速さに合わせてあった。

帰り道は、不思議と怖くなかった。

前を歩くゼルギウス様の背中が大きい。灰色の髪が月明かりに淡く光っている。

沈黙が続いた。虫の声と、二人分の足音だけが森に落ちる。

口を開いたのは、私の方だった。

「……どうして、私を信用するんですか」

聞くつもりはなかった。口から勝手に出た。

「闇の魔女だと言われているのに。王都では犯罪者です。なのに——治療を許して、薬草園を作らせて、こうして……」

護衛までして。

偶然だと嘘をついてまで。

ゼルギウス様は足を止めなかった。背中を向けたまま、数歩歩いて。

「俺は魔法の属性は知らん」

低い声が、夜の森に落ちた。

「だがお前が兵士を治したのは見た。子供を治したのも見た」

それだけか。

それだけなのだ。この人にとっては。

闇だとか光だとか、令嬢だとか流刑囚だとか、そういうものは全部——この人の判断基準の外にある。

目の前で何が起きたか。それだけを見ている。

……ああ。

胸の奥が、じわりと熱くなった。

(泣くな。泣くな。ここで泣いたら——)

堪えきれなかった。

泣いたわけではない。涙は出なかった。

代わりに——手が、光った。

金色の光が両手から溢れ出した。制御できない。感情が揺れた瞬間に、魔力が勝手にあふれ出している。

「っ——」

光が広がっていく。周囲の木々を包む。足元の枯れ草を這う。

止められない。止め方がわからない。

枯れ木の幹が、光に包まれた。

冬を越せずに立ち枯れたはずの老木。その枝先から——白い花が、一輪、咲いた。

二輪。三輪。満開。

枯れ木に花が咲いている。

夜の森が、金色の光と白い花に包まれた。

綺麗だと思った。綺麗だと思うのに、身体が震えている。自分の魔力が制御できないことが怖い。何が起きているのかわからないことが怖い。

手を、握られた。

大きな手だった。硬い。剣胼胝だらけの、武骨な手。

ゼルギウス様が、私の右手を握っていた。

強くはない。けれど確かな力で。

——あ。

光が収まっていく。

手のひらの熱が引いていく。金色の光が薄れて、森に月明かりが戻ってくる。

枯れ木に咲いた花だけが、夜の空気の中で静かに揺れていた。

心臓の音が聞こえる。自分のか、この人のかわからない。

「……止まったか」

ゼルギウス様が言った。手はまだ離していない。

「すみません、私——」

「謝るな」

短い。いつも通りだ。

でも手は離さなかった。砦の灯りが木々の隙間から見えるまで、ずっと。

私はその手の温度を、ずっと感じていた。

(……なんで手を握ったら止まったのかしら。それとも偶然——いえ、この人の「偶然」を信じるのはもうやめたほうがいいわね)

砦が近づく。

ゼルギウス様がようやく手を離した。何事もなかったかのように前を歩き始める。

指先が冷たくなった。

さっきまで温かかったのに。

振り返って、森を見た。

月明かりの中で、枯れ木に咲いた白い花がまだ揺れている。

治癒ではない。あの木は病気だったのではない。枯れていたのだ。死んでいた木に、花が咲いた。

——再生。

その言葉が、頭の隅をかすめた。意味はまだわからない。でも、何かが変わり始めている気がした。