作品タイトル不明
第八十五話:進路調査票
帰りのHR。
担任の高城が黒板を軽く叩いた。
「はい、静かに。今日は進路調査票を配るぞ」
教室の空気がわずかにざわついた。
前の席の男子が「もうそんな時期かよ」と小さく漏らし、後ろでは女子が「どこの高校に行く?」と囁き合っている。
高城は教卓の上の紙の束を持ち上げた。
「お前らも、もう中学三年生だ」
一枚、進路調査票を掲げる。
「まだ早いと思ってる奴もいるだろうが、一年なんてあっという間だ」
教室のざわめきが少しだけ静まった。
「家でもちゃんと話し合ってこい。進学にするのか、それとも就職か。自分の将来のことだからな。適当に書くなよ」
高城はそう言って、前列の生徒へ紙を配り始める。
「期限は来週までだ。忘れるなよ」
一枚、また一枚と、紙が前から後ろへ回ってくる。忠夫の机にも、進路調査票が置かれた。
忠夫の手が止まった。
(……高校、か)
学ぶだけなら、もう十分すぎるほど学んでいる。
今さら高校の授業を受ける必要があるのか。
忠夫は、調査票の欄を見つめたまま、目を細めた。
教室の窓から、柔らかな春の日差しが机の上へ落ちていた。
◇
翌日の開発室には、張り詰めた静けさがあった。
関根の製図台には、真新しいマイラー紙が広がっている。
「……インバータ、完成しました」
関根が顔も上げずに言う。
西村が近づき、ルーペで覗き込んだ。
「……線が全然違うな」
「当たり前ですよ。これ一枚で全部決まるんですから」
関根は定規を当て直しながら続けた。
「今日はNORをやります。明日はフリップフロップです。……一つずつ潰していく」
忠夫は製図台に並ぶマスターセルを見渡した。
まだ七枚。残り六十枚以上。
だが、確実に積み上がっていた。
忠夫は自分の席に戻り、座標リストのフォーマット作りに向かった。
セル番号、X座標、Y座標、そしてセルの向き。
表の形そのものは単純だった。だが、六十種類を超えるセルそれぞれに番号を振り、原点の位置を決め、向きの記号を統一し、ピン位置の扱いまで揃えて、誰が書いても同じ意味になる記述規則を作るのは、地味で細かい作業だった。
◇
「佐伯君、ちょっといいか」
斎藤が開発室の扉から顔を出した。
廊下に出ると、斎藤は無言で封筒を差し出した。
忠夫は中身を開く。
量産開始報告書。
擬似SRAM、第一ロット出荷予定。
忠夫の視線が、その数字の列で止まった。
「……始まったんですか」
「ああ」
斎藤は廊下の窓へ目を向けた。
春の夕陽が、ガラス越しに差し込んでいる。
「製造ラインが昨日立ち上がった。今月から本格出荷だ」
忠夫は静かに書類を閉じた。
「……そうですか」
斎藤が小さく笑った。
「ようやく、形になった」
忠夫は少しだけ目を細めた。
「はい」
短い沈黙。
そして斎藤は、今度は真っ直ぐ忠夫を見る。
「CPUも、そこまで持っていくぞ」
忠夫は迷わず頷いた。
「……はい」
斎藤は満足そうに息を吐き、開発室の方へ歩き出した。
「関根たちが待ってる。戻るぞ」
◇
開発室に戻ると、関根がNORの輪郭を引き始めていた。
スッ、と定規が滑る。
忠夫はその音を聞きながら、座標リストの続きに向かった。