作品タイトル不明
第八十四話:スタンダードセル
1984年、4月。
体育館の天井に、校長の退屈な挨拶が反響している。
生徒たちが、窮屈そうにパイプ椅子に座っていた。
忠夫の頭の中は、まったく別のことで占められていた。
(……マイラー紙への手描き作業か)
五万個のトランジスタ。
それを、定規と色鉛筆と極細テープで、一つひとつ手作業で描いていく。
現代の設計環境なら、CADの自動配置で短時間で終わる工程だった。
だが、今の時代にはまだ使えるものがない。
(何か、方法はないか)
記憶を探る。
思い出すのは、関根が一つ一つ手描きで行なっていた作業。
同じ形のセルを、何度も、何度も。
「――以上で、始業式を終わります」
校長の声が途切れた。
生徒たちが一斉に立ち上がり、礼をする。
忠夫も立ち上がりかけたその時、ふと動きが止まった。
(……待てよ。同じ形なら)
NANDやフリップフロップを“部品”として規格化し、同じものを繰り返し配置していく――。スタンダードセル方式。
(……これなら!)
忠夫の目が鋭く細められた。
チャイムが鳴るのと同時に、忠夫は鞄を掴んで教室を飛び出した。
◇
開発室の扉を開けた瞬間、淀んだ汗の匂いが鼻を突いた。
「……七十八番セル、描き直しだ」
関根の声に張りがない。
机の端に積まれたマイラー紙の山。
「……駄目だ、同じ形のはずなのに、手の震えで毎回どこかが微妙にズレる」
関根がルーペを覗き込みながら呻いた。
忠夫は真っ直ぐに関根の製図台へ歩み寄り、マイラー紙の上に並ぶ同じ図形を見つめた。
「……やっぱり、同じ形だ」
関根が、消しゴムを握ったまま顔を上げる。
「……どういうことだ?」
「これ、同じ形のセルを、何度も描いているんですよね」
忠夫は静かに続けた。
「だったら、一度だけ完璧に描いて、それを『マスターセル』として使い回せばいいと思いませんか?」
「……マスターセル?」
「ええ、例えばNANDはどこに置いても、同じ形のはずですよね」
関根の手が止まった。
「……ああ」
「なら、一度だけ正確に描いて、あとは『どこに置くか』の座標リストを作ればいいんです」
ガタッと椅子が鳴った。
西村が立ち上がっていた。
「……同じセルを使い回すのか……?」
「はい。インバータも、フリップフロップも、よく使う回路は数十種類しかない。描かなければいけないのは、数十種類のマスターセルと――配置の一覧表だけです」
関根の手から、消しゴムが滑り落ちた。
沈黙が続いた。
高村が腕を組んだまま、忠夫を見た。
「……だが、それは精度が出なければ、流用しても全部ゴミになるぞ」
「はい。だからマスターセルだけは、今まで以上に丁寧に描くんです」
「座標リストは誰が作る」
「フォーマットと手順は僕が考えます。入力作業を分担してもらえませんか」
高村が眉をひそめた。
「マスターセルはどれくらいかかる」
「種類は六十〜八十種類程度です。一つを丁寧に描くのに一日かかるとして。全部揃えるのに二ヶ月から三ヶ月といったところです」
「その間、通常の作業は止まるのか」
「止めません。マスターセルの作成と座標リストの作成を並行して進めます。終わった時点で、残りの作業速度が大きく変わるはずです」
しばらく誰も口を開かなかった。
関根が床に落ちた消しゴムを拾い、ゆっくりと立ち上がった。
製図台の上の、描きかけのマイラー紙を見下ろす。
七十八番セル。今まで何度描き直したか、もう数えていない。
「……確かに、同じ形を何度も描いている」
関根が低く、独り言のように言った。
「NANDは、NANDだ。どこに置いても、同じ形のはずだ」
西村が額に手を当てた。
「……なんで今まで気づかなかったんだ」
「仕様が変わり続けていたからです」
忠夫は静かに答えた。
「今までは、論理設計が固まっていなかった。セルを規格化しても、すぐ描き直しになっていたんです」
大門が低く唸った。
「……論理が固まったから、物理も固められる、か」
「はい」
高村が立ち上がり、ホワイトボードの前に立った。
「分かった、やってみろ」
関根が新しいマイラー紙を製図台に広げた。
「……まずNANDからだ」
スッ、と定規が滑った。