軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第八十話:未完成の未来

1984年2月。

凍てつくような寒風が窓を叩く開発室に、斎藤常務が大きな段ボール箱を抱えて飛び込んできた。

「届いたぞ」

徹夜明けの技術者たちが、一斉に顔を上げる。

斎藤が段ボールを開けると、中からベージュ色をした一体型の奇妙なプラスチックケースが現れた。画面の横には、手のひらに収まる小さなマウスが繋がれている。

「これが‥‥いくらしたんですか」

関根が身を乗り出した。

「日本円にして約七十万だ。二百万以上したLisaと比べれば破格だが、一般家庭ではまだ手が出ないだろう」

「‥‥だが恐ろしいのはそれを1年でここまでの値段に下げてきたことだ」

100ボルトへの変圧器を噛ませ、斎藤が電源を入れる。

短いビープ音の後、小さなブラウン管の画面が明るくなり、笑顔のアイコンが現れた。

「おお……」

関根が思わず声を漏らした。

斎藤がマウスを動かすと、画面上の矢印が手の動きに完全に同期して滑らかに動く。ファイルに見立てた絵を掴んで動かせるその挙動は、まさに魔法だった。

「すごい……」

高村が冷や汗を流しながら画面に釘付けになる。

開発室の空気が重圧に押し潰されそうになった、その時だった。

(確かにすごい、だが‥‥)

忠夫が顎に指を当てながら、静かに口を開いた。

「斎藤さん。ワープロソフトか何かを立ち上げて、ファイルを作って保存してみてください」

「あ、ああ。わかった」

斎藤がマウスを操作し、付属のアプリケーションディスクを読み込ませようとした瞬間――。

カシャッ!

マシンが突然、挿入されていたフロッピーディスクを勢いよく吐き出した。

そして画面には、こう表示されていた。

『Please insert the disk(ディスクを入れてください)』

「ん? なんだ?」

斎藤が戸惑いながら、別のディスクをドライブに挿し込む。

数秒間、ジー、ガリガリとドライブが鳴った後。

カシャッ!

またディスクが吐き出され、今度は『システムディスクを入れてください』と要求してきた。

言われるがままに最初のディスクに戻すと、また数秒後に吐き出され、別のディスクを要求される。

カシャッ。カチャカチャ、ジー。カシャッ。

(‥‥やはり)

忠夫は心の中で静かに確信し、小さく頷いた。

「……なんだこの仕様は」

斎藤は低く呟き、吐き出されたディスクを見つめていた。

そのループを前に、開発室に一瞬の戸惑いが広がる。

忠夫は吐き出され続けるディスクを指差した。

「画面表示だけで、相当メモリを使っているんでしょう」

再び、カシャッ、とディスクが吐き出される。

「ドライブも一基しかない。システムとアプリケーションを同時に扱えないんです」

「……つまり、メモリ不足を、ユーザーにディスクを入れ替えさせることで無理やり補っているということか」

西村が呆然と呟いた。

忠夫は静かに頷く。

「ええ。コストダウンのしわ寄せが、すべてそこに集中しています。画面の見栄えは素晴らしいですが、少なくとも、今のままでは本格的な実務機としては厳しいでしょう」

沈黙を破ったのは、大門だった。

吐き出されたディスクをひとつ手に取り、しげしげと眺めた。

「人間が機械を使っているのか、機械に人間が使われているのか分からんな」

「確かにな」

小林が無精髭の口元をニヤリと歪ませる。

開発室には、どこか安堵に近い空気が流れ始めていた。

だが、忠夫の表情だけは一切緩んでいなかった。

「……いえ、油断はできませんよ」

忠夫の冷ややかな声に、西村たちの笑みがスッと消える。

「皆さん。以前、僕が言ったことを覚えていますか?」

一瞬の沈黙の後、最初に気づいたのは大門だった。

「……メモリ……不足」

『メモリはこれから、さらに安くなっていく可能性の高い資源です』

かつてホワイトボードの前で忠夫が放った言葉が、開発室の全員の脳裏に蘇る。

「……ッ! まさか……」

高村が絶句する。

忠夫は静かに頷いた。

「ええ。このメモリ不足というボトルネックは、半導体の製造技術が上がれば必ず解決します。彼らは必ず、より完成度を上げた後継機を出してきます」

吐き出されたディスクを見つめながら、それまで黙っていた今川がふっと目を細めた。

「なるほどな。あの会社は実用性よりも先に、世界に向けて『これがパソコンの未来だ』と強烈な旗を立てることを選んだわけだ」

今川の言葉に、開発室の空気が一瞬にして引き締まった。

「ええ、問題は彼らが市場を完全に支配してしまう前に、我々が割って入れるかどうかです」

「つまり、こちらに残された時間は長くないということか」

高村が言った。

「‥‥はい」

忠夫は、壁に掛けられた巨大な論理回路図へと視線を移した。

深い静寂が降りた。

斎藤が口元に笑みを浮かべ、ネクタイを緩めた。

「聞いたな、お前ら。目標は来年秋、そこでテープアウトだ。二年で新設計の石を作るのは業界の常識からすれば狂気の沙汰だ。だが……これに対抗するにはそれしかない」

斎藤の言葉に、誰も返事をしなかった。

だが次の瞬間、

開発室のあちこちで、紙をめくる音とキーボードを叩く音が一斉に鳴り始める。

忠夫は言葉のない熱気の中で、そっと手元の仕様書を開いた。

割り込み処理のあのわずかなズレ。

あの小さなバグを潰さなければ、未来には届かない。

ペンを握る指先に、自然と力がこもった。