軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第七十九話:ユビキタス

1983年、12月下旬。

冬休みに入り、世間がクリスマスの喧騒に浮かれる中、東芝の開発室に忠夫は入り浸っていた。

「……計算が合わない」

忠夫は手元の仕様書とコードを交互に見ながら、低く呟いた。

命令セットを元に手で追っていくと、どこかで辻褄が合わなくなる。割り込みが入った瞬間のレジスタの状態。OSが想定している動作と、命令セットの仕様書に書かれている動作が、微妙にずれていた。

コードは正しいはずだった。仕様書も正しいはずだった。

だが、二つを重ねると、どこかが食い違う。

忠夫は仕様書のページをめくり、回路図を引き寄せた。

横では、関根が目を血走らせながらマイラー紙の束と格闘している。

小林は無精髭を伸ばしたまま無言でデジタイザを叩き続け、大門は端末に向かってネットリストを打ち込んでいる。

誰もが自分の作業に埋もれていた。

部屋の空気が疲労と焦燥で限界に達しかけていたその時、開発室の重い扉が開いた。

「少し休め。夕食だ」

斎藤常務が、湯気を立てる出前のカツ丼とそばを両手に提げて入ってきた。

技術者たちが、のそりと群がる。

「……それに、お前たちの耳に入れておきたい情報がある」

斎藤はネクタイを緩めながら、低い声で言った。

「来月末、アップルが、GUIを搭載した大衆向けの普及機を発売するそうだ」

静まり返る開発室。

高村が唸るように口を開いた。

「あの会社、今年初めに数百万もするGUIマシンを出して大コケしたばかりじゃないですか。それをもう、一般向けに落とし込んできたって言うんですか」

「ああ。まだ値段まではわからないが、値段によっては脅威になるだろうな」

斎藤の重々しい言葉に、先を越されたという絶望に似た空気が部屋を覆いかけた。

その時だった。

それまで黙ってそばを啜っていた今川が、静かに箸を置いた。

「……別に、悲観する必要はありません」

疲労で沈みかけていた空気が、わずかに動く。

今川は静かに続けた。

「GUIそのものは新しい概念ではない。ゼロックスも、アップルも、“操作を視覚化する”方向へ進んでいる」

今川の目が細くなる。

「確かに、計算機を一般へ広げる上で、“視覚化”は避けて通れない」

机の仕様書を指先で叩く。

「しかし、本当に難しいのは、その奥です。リアルタイム制御、マルチタスク、分散処理、そして異機種間接続……社会全体を支えるそれらのシステムは、まだ世界の誰も作れていない」

今川の目が、静かに熱を帯びる。

「だからこそ、TRONをやる意味がある」

「……面白い」

斎藤が口元に笑みを浮かべ、ネクタイを緩めた。

「来月、発売日当日に米国法人にその実物を買わせる。相手がどれほどの敵か、皆で確かめてやろうじゃないか」

開発室に、再び静かな緊張が戻ってきた。

忠夫は箸を置き、冷めかけたカツ丼を見つめながら、ゆっくりと息を吐いた。

仕様書のページをもう一度めくり、どこかで食い違っていたあの微妙なずれを思い浮かべる。

GUIという波が来る。だが、その先にはもっと深い海がある。

忠夫は静かに目を細めた。