作品タイトル不明
第4話 お返しします
「やはりこれは君のものだ」と差し出された指輪を、私は受け取らなかった。
フェルゼン家の応接室。マティアス様が向かいに座り、小さな箱を卓の上に押し出してきた。蓋は半端に開いていて、中で銀の指輪が鈍く光っている。あの淡い青のリボンに包まれていた指輪だ。ローラの指の上で何度も見た。
「先日のことを、君が気にしているんじゃないかと思ってね」
気にしている。なるほど、そういう解釈になっているらしい。私が形見を貸さなかったことで機嫌を損ねたとでも思ったのだろう。だから、別の指輪を返してご機嫌を取ろう、と。筋道は通っている。前提がまるごと間違っているだけで。
「ローラには別の物を贈るよ。だから、これは元どおり君が持っていてくれ」
私は箱を見た。それから、マティアス様を見た。
一度ローラの指にはまった指輪を、当人の前で取り上げて、私に差し戻す。それを「元どおり」と呼ぶ神経が、私には少し理解しがたい。元どおりというのは、何もなかったことにすることではない。あったことは、もうあったのだ。淡い青のリボンも、ローラの「いいの? 本当に?」という二度の問いも、私の手元に残った空の箱も、全部。
「申し訳ありませんが、お受けできません」
私がそう言うと、マティアス様は怪訝な顔をした。
「どうして。君が気に入らなかったわけじゃないだろう」
「気に入る気に入らないの話ではないのです。一度よそへ贈られた物を、改めて私に下さるというのは、礼に反します」
返す、という行為が、どれだけ相手の面目を踏みにじるか。贈り物の格にうるさいベルナール侯爵家のことを思い出すまでもない。物には、流れた経緯がついて回る。一度ローラのものになった指輪は、もうローラのものになった経緯ごと、私のところへ来る。私はそれを、自分の指にはめて生きていく自信がない。
もっとも、そんな理屈を並べるより先に、本音はずっと単純だった。
要らない。
その指輪が、ではない。指輪を返すことで何かが帳消しになると思っている、その考え方が、要らないのだ。
「その指輪は、彼女に差し上げてください」
応接室が静かになった。マティアス様の手が、箱の上で止まる。
「……どういう意味だい」
「言葉のとおりです。一度ローラに贈られたのですから、ローラのものです。私に戻す必要はありません」
「フィオナ」
マティアス様は、ようやく何かがいつもと違うことに気づき始めたようだった。この半年、私が「ええ」と「承知いたしました」で受けてきた言葉を、今日は一つも口にしていないことに。
「君は、怒っているのか」
怒っている。その問いに、私はしばらく答えを探した。怒り、という言葉が、自分の中の温度に合っているのか、よく分からなかったからだ。怒りは熱い。けれど私の中にあるものは、もっと冷えていた。長く放っておかれて、すっかり冷めた紅茶のような何かだった。
「いいえ」
私は首を振った。
「怒っているのではありません。疲れたのです」
それは、自分でも驚くほど正直な言葉だった。怒りなら、まだ熱がある。熱があるうちは、相手に伝えたいことがあるということだ。けれど私の中には、もう伝えたいことすら、あまり残っていなかった。あるのは、ただ、これ以上は続けられないという、底をついた感覚だけだった。
「マティアス様。婚約を、解消していただけませんか」
言ってしまった。
言葉にしてみると、思っていたよりずっと軽かった。半年のあいだ喉の奥につかえていたものが、こんなに短い一文だったのかと、自分でも少し拍子抜けした。
マティアス様は、虚を突かれた顔で固まっていた。それから、慌てたように身を乗り出す。
「待ってくれ。何を急に。指輪のことなら——」
「指輪のことではありません」
私は遮った。遮ったことを、悪いとは思わなかった。
「指輪は、きっかけにすぎません。あなたが私に下さろうとしたのは、指輪ではなく、なかったことにしたい気持ちでしょう。けれど、なかったことには、なりません」
これだけは、はっきり言っておきたかった。彼が悪人なら、こんな手間はかけない。問題は、彼が悪人ではないことだ。悪気がないまま人を軽んじる人間は、自分が誰かの足を踏んでいることに、最後まで気づかない。気づかせるには、足をどけてもらうしかない。私が、その足の下から出ていくしかない。
「少し、考えさせてくれ。今すぐ決めることじゃない」
「ええ。お互いの家のこともありますから、手続きはきちんと踏みます」
私が落ち着いてそう返したことが、かえってマティアス様を不安にさせたようだった。取り乱して泣く婚約者なら、まだなだめようがある。けれど、淡々と手続きの話を始める婚約者を、彼はどう扱えばいいのか分からないのだろう。
「フィオナ、本当に、僕は——」
何か言いかけたが、続きは出てこなかった。
私はその続きを待たなかった。待つ理由を、もう持っていなかったからだ。
「では、今日はこれで。お返事は、ご家族とよくお話しになってからで結構です」
席を立つ。卓の上には、半端に開いた箱と、その中の指輪が、置き去りのまま残っていた。私はそれに手を触れなかった。触れる必要のない物だった。
応接室を出るとき、扉の外でかすかに息を呑む気配がした。給仕の侍女だろう。立ち聞きするつもりはなかったのだろうが、声は廊下まで届いていたのかもしれない。彼女がどんな顔をしているのか、振り返って確かめはしなかった。けれど、この家の使用人は、私が思うより多くを見て、多くを聞いている。今日のことも、きっと。
馬車に乗り込むと、アガサが私の顔をじっと見た。何かを尋ねたそうで、けれど尋ねなかった。私は窓の外へ目をやって、小さく息を吐いた。
足が、少しだけ軽い気がした。
長く座りすぎた席から立ち上がったときの、あの血の巡り出す感じに似ていた。痺れていたことに、立ってみて初めて気づく。私は半年のあいだ、自分の足が痺れていたことにすら、気づいていなかったらしい。
膝の上で、私は両手を組んだ。左手の薬指には、もう何もはまっていなかった。婚約指輪は、とうに装身具箱の奥だ。けれど不思議と、指が寂しいとは思わなかった。
マティアス様が、家族とどんな話をするのか。私には見当がついていた。
たぶん彼は、母上に相談するだろう。そして母上は——あの方は、私の扱いを、ずっと黙って見てきた数少ない人のひとりだ。彼女が何と言うかは、私には分からない。けれど、彼女がため息をつく姿だけは、なぜか、はっきりと思い浮かんだ。
馬車が動き出す。フェルゼン家の門が、後ろへ遠ざかっていった。