作品タイトル不明
第5話 見ていた帳尻
引き継ぎの紙束は、私がこの家で何をしてきたかを、静かに語っていた。
婚約の解消は、まだ正式には決まっていない。両家の話し合いはこれからだ。けれど、もう私がフェルゼン家の雑事を抱える理由はなくなった。だから今日は、これまで私が握っていた家政の段取りを、書き出して残しにきた。後を引き継ぐ誰かが困らないように。困るのは目に見えているが、せめて手がかりくらいは置いていきたい。性分なのだ。
机に向かって、私はひたすら書いた。贈答先の家ごとの注意。どの家が記録を取るか。どの家が格にうるさいか。去年何を贈ったか。茶会の席順を決めるときに気をつけること。出入りの商人の名と、値の相場。使用人の誰が何を得意とするか。
書き出してみて、自分でも少し呆れた。一枚では収まらない。二枚でも足りない。紙が三枚目に入ったとき、ようやく、この半年で私が抱えていたものの厚みが、目に見える形になった。誰にも頼まれていないのに、ずいぶんと背負い込んでいたものだ。背負っているあいだは、重さに気づかない。下ろそうとして初めて、こんなに重かったのかと知る。指輪と同じだ。
「ずいぶん細かいんだな」
声に顔を上げると、書斎の扉が開いていて、クリストフ様が立っていた。手に、私が書いた紙の一枚を持っている。いつのまにか取り上げられていたらしい。
「失礼かと思いましたが、後の方が困らないようにと」
「困る、か」
クリストフ様は紙に目を落としたまま、低く呟いた。
「これを全部、君が一人で覚えていたのか」
「覚えていた、というほどのことでは。気がついたらそうなっていただけです」
謙遜ではなかった。本当に、そういうことだったのだ。誰かが「君に任せる」と言うたびに、覚えるべきことが一つずつ増えた。一つずつなら、たいした重さではない。けれど一つずつが半年も積もれば、紙三枚分になる。誰も足し算をしていなかったから、誰も気づかなかった。私自身でさえ。
クリストフ様は、紙束をめくっていった。一枚、また一枚。読む速度が、弟とは違った。マティアス様は贈答リストを一瞥で承認した人だ。中身を読んでいなかった。この人は、読んでいる。文字を追う目の動きで分かる。
「ベルナール侯爵家には去年と同じ品を贈るな、と書いてある。理由は」
「あちらは記録を取る家です。同じ物を二度贈ると、軽んじられたと受け取られます」
「……なるほど。これを知らずに同じ品を贈れば、それだけで一つ角が立つわけか」
クリストフ様が、ようやく顔を上げた。私を見る。茶会で何度も会っているのに、初めてまともに目を合わせた気がした。値踏みする目ではなかった。咎める目でもない。何か、見落としていたものをやっと見つけた、という目に近かった。
「あなたが、この家の贈答や席順を、ずっと整えていたんだな」
「整えていた、というほど大層なものでは」
「いや」
クリストフ様は、私の言葉を短く遮った。
「大層なものだ。これがなければ、この家は何度も恥をかいていた。気づいていなかったのは、こちら側だ」
私は返事に詰まった。
おかしなものだ。この半年、私は誰にも何も言われなかった。よくやっていると褒められたわけでもなければ、手を抜いていると咎められたわけでもない。ただ、できて当たり前のものとして、私の働きは空気に溶けていた。空気を褒める人間はいない。空気に気づく人間も、いない。
なのに、出ていくと決めた今になって、初めて、その空気に名前がついた。
「私は見ていました」
クリストフ様は、それだけ言った。
短い言葉だった。けれど、その短さが、かえって信じられた。長々と労われていたら、私はきっと社交辞令だと受け流していた。たいていの労いは、その場をなめらかにするための油だ。けれど、この人の「見ていた」には、油の匂いがしなかった。
不覚にも、少しだけ、喉の奥が詰まった。
——という言い方も、たぶん綺麗すぎる。正しくは、こうだ。誰かが自分の働きを見ていたという、ただそれだけのことに、私は思っていた以上に飢えていたらしい。みっともない話である。
「もったいないお言葉です」
私は、声の調子を整えてそう言った。喉の詰まりは、誰にも気づかせなかったはずだ。たぶん。
「マティアスは……弟は、これを当たり前だと思っていた」
クリストフ様の声が、少し低くなった。
「謝って済む話ではない。済むとも思っていない。ただ、知らなかったでは、こちらの落ち度が消えるわけでもない」
弟をかばう言葉ではなかった。むしろ、かばわないという宣言に近かった。私は少し意外だった。身内なのだから、多少は弟を立てるものだと思っていた。けれど、この人は、立てなかった。事実を事実として、まっすぐ机の上に置いた。
書斎の机の上で、私が書いた紙の角が、窓から入る風にかすかにめくれた。クリストフ様は、それを指で押さえた。几帳面な手の動きだった。私が紙を揃えるときと、少し似ていた。
「これは、預かってもいいか」
「もちろんです。お役に立てるなら」
「役に立つ。立ちすぎるくらいだ」
クリストフ様は、紙束を丁寧に揃えてから、もう一度私を見た。
「行くのか」
「ええ。もう、私がこの家にいる理由はありませんから」
言ってから、少しだけ、言葉が足りなかったかと思った。けれど、足す言葉も思いつかなかったので、そのままにした。クリストフ様も、引き止めはしなかった。引き止めるような人ではないのだろう。ただ、玄関まで送ろうと言って、立ち上がった。当主自らが客を送るのは、本来なら過分な礼だ。私はそれを、断らなかった。断る気力も、なぜか湧かなかった。
玄関の広間を抜けるとき、使用人たちが並んで頭を下げた。いつもより、深い辞儀だった。給仕の侍女が、目を伏せずにこちらを見ていた。何か言いたげで、けれど言えない。立場というのは、そういうものだ。私はその侍女に、小さく頷いて返した。あなたの目礼を、私はちゃんと受け取っている、という意味のつもりだった。伝わったかどうかは分からない。
馬車に乗り込みながら、私は最後にもう一度、書斎の窓を見上げた。クリストフ様の姿は、もうなかった。
私がいなくなった後の帳簿を、誰が引き継ぐのか。
それを案じるのは、もう私の役目ではない。役目ではないはずなのに、つい考えてしまう自分が、我ながら少し笑えた。性分というのは、家を出るくらいでは、なかなか抜けないものらしい。