作品タイトル不明
第8話 モブ、アイドルの過保護な兄に詰められて「守ります」と口走る
放課後って、一日で一番平和な時間帯のはずだ。
授業は終わり、部活に行くやつは行き、帰るやつは帰る。
俺は帰る側の人間で、矢野も帰る側の人間。
今日も鞄に教科書を突っ込んで、適当に帰って、適当にメシ作って、適当に寝る。
それだけの予定だった。
——教室のドアが、がらっと開くまでは。
「紗月の彼氏はいるか」
低くて迫力のある声が教室に響いた。
は?
なんか見覚えのある男がスーツ姿で立ってる……。
いやいやいやいや、間接的に呼ばれた気がするけど気のせいだよな!
そうに決まってる。さぁ帰ろう。
お願いだから俺を平和なモブのままでいさせてくれ。
「誰? 先生?」
「いや、先生にしちゃ若くない?」
「怖くない……? ていうか橘さんの彼氏って……」
クラスメイトがざわつき始めて、一斉に俺を見る。
やめろ!反応するな!
こっちを見るな!!
怪しい男は誰の声にも反応しない。
まっすぐ俺のほうを見ている……気のせいだな!!
ふと隣を見ると、矢野がいつの間にかスマホを構えていた。
「……おい。お前、何してんだ」
「ん? 面白いイベントが始まりそうだから、その記録」
「記録じゃねえ。帰るぞ!!」
「いや、呼ばれてたじゃん、お前」
お前とは絶交だ!
今ここで絶交する!!
怪しい男がズンズンと教室の中に入ってきた。
周囲の生徒が道を空けていく。
空けんな! 壁になれよ!!
現実逃避もここまでらしい。
怪しい男、もとい橘兄が俺の席まで来てしまった。
なんでこんなに迫力あんだよ。
ていうか、スーツ姿ってなんだよ!
「ちょ、ちょっと——ここ学校なんですけど!」
「関係ない」
「関係あるわ!」
ツッコミが虚空に消えた。橘兄は一切動じない。
俺の机の前まで来ると、仁王立ちで見下ろしてきた。
近い。近すぎる。
なんでこいつら兄妹は距離感おかしいんだ!
橘と違って圧がすごすぎる。
スーツの肩幅が視界を埋めている。
そんな橘兄が口を開く。
「名前は」
「水野悠真です!」
「年齢は」
「16です!」
「部活は」
「帰宅部です!」
「学力は」
「平均以下です!!」
なんで俺、自分の教室で取り調べ受けてんだ!
誰かこれドッキリだって言ってくれ!
周囲のざわつきがさらに大きくなる。
「取り調べだ……」
「てか水野、帰宅部だったのかよ」
「そこ!?」
クラスメイトのツッコミポイントが完全にズレている。
いや、帰宅部いじりは今じゃないだろ!
橘兄は腕を組んだまま、じっと俺を見下ろしている。
ちょ、ちょっと……だから圧が強いって!
「手を見せろ」
「は?」
「手だ」
意味がわからない。でも逆らえる空気じゃない。
俺は恐る恐る両手を差し出した。
橘兄が俺の手を取った。
大きい。俺の手が子供みたいに見える。
指先を確認するように、じっと見ている。
なんの鑑定ですか?
意味わからないんですが?
「……まあいい」
それだけ言って手を離した。
合格なのか不合格なのかすらわからない。
ていうか何の意味があったんだ……。
「正直、お前のどこがいいのかわからん」
「俺もそう思います!」
反射で答えた。
言った瞬間、教室がどよめいた。
「おい水野、自分で認めんなよ!」
「いや、事実だから!」
橘兄の眉がわずかに動いた。
やば……正直に答えすぎたか……?
「……本当に紗月を守れるのか」
その声は、さっきまでのトーンと違って聞こえた。
兄として心配してるのか……?
守れるのか。
そう言われても、偽の彼氏が、何を守るっていうんだ。
……でも。
モールで見た橘の顔が、一瞬だけ浮かんだ。
スカートの裾を握って、俺に見捨てられるんじゃないかって怯えていた、あの目。
「……守ります」
自然と口に出ていた。
けど、言った瞬間に後悔した。
……待って。なんで俺、こんな柄にもないこと言ってんだ。
これ絶対あとで後悔するやつだ。いや、もうすでに後悔してる!
橘兄が、一拍だけ間を置いた。
「足りないな」
返ってきたのはそれだけ。
何が? どういうこと……?
橘兄はくるりと背を向けた。
大きな背中が教室のドアに向かって歩いていく。
お、終わったのか……?
正直意味わからんけど……。
安堵したその瞬間——廊下から別の足音が飛び込んできた。
「お兄ちゃん!? なんでここにいるの!?」
橘だ。
息を切らしている。駆けつけてきたらしい。
「当然だろう。確認しに来た」
「確認って——もう、過保護すぎるよ!」
「過保護ではない。当然の管理だ」
橘が頬を膨らませて兄の腕を引っ張っている。
兄はびくともしない。体格差がすごい。
「ごめんね、水野くん! お兄ちゃんああいう人なの、気にしないで大丈夫だから!」
橘が振り返って、申し訳なさそうな顔をした。
「……いや、まあ……大丈夫。たぶん」
大丈夫じゃない。全然大丈夫じゃない。
でも橘にそんな顔されると、それしか言えなくなる。
橘兄はドアの前で一度だけ振り返った。
俺を見て、何も言わずに去っていった。
廊下から橘が兄に文句を言う声が聞こえる。
嵐は去った……。
教室が静まり返った。
三秒後、堰が切れたように教室中がざわめき始めた。
「何!? 今の何!?」
「え、あの人、橘さんのお兄さん!?」
「てかお前、本当に橘と付き合ってんのか!?」
「『守ります』って言ってたよな!? あれマジ?」
質問の雨あられだ。
俺はそれに返す気力もなく机に突っ伏した。
「……もう帰りたい。モブに戻してくれ……」
「『……守ります』」
ふいに、すぐ隣から俺の震えた声が再生された。
バッと顔を上げると、矢野がスマホの画面をこちらに向けてニヤニヤしていた。
画面の中では、俺が橘兄を前に決死の表情を浮かべている。
「おい、矢野! お前それ——」
「バッチリ高画質で保存しといたわ。俺の最高の娯楽としてな」
「消せ! 今すぐ消せ!!」
「無理」
矢野はスマホをひらりと躱して鞄にしまうと、何でもない顔でポテチの袋を開けた。
こいつには人の心がないのか!
「今日お前の助けが一番欲しかったのに、お前が一番ダメージ与えてきてるじゃねえか!!」
「まあ頑張れよ」
矢野がポテチを一枚口に放り込んで、ぼそっと言った。
「つまりお前、不合格ってことだろ」
「……聞こえてたのかよ、あの一言」
「『足りない』って言ってたじゃん。何が足りないかは知らんけど」
足りない。
あの男は、何が足りないと言ったんだ。
学力か。部活か。身長か。
いや、たぶんそういうことじゃないと思うが……ダメだ、全然わかんねぇ!!
橘が教室に戻ってきた。
まだ申し訳なさそうな顔をしている。
「水野くん、ごめんね……! お兄ちゃん、勝手に来たみたいで——」
「まぁ……お前のせいじゃないのはわかってる」
「ほんとにごめんね……。えっと……水野くん」
「どうした?」
「『守ります』って。お兄ちゃんに言ってくれたんだね」
橘が少しだけ、嬉しそうに笑った。
聞こえてたのかよ……。
「あ、あれは——口が滑っただけ……」
「でも言ってくれたじゃん」
「……それは」
「嬉しかった」
一言。それだけ。
橘が花が咲くような笑顔で言う。
その表情に心拍が上がる。
返す言葉が、出てこない。
なんで俺、こいつの笑顔ひとつでこうなってんだ。いい加減学習しろ俺……。
「じゃ、帰ろっか!」
橘がいつもの笑顔に戻った。切り替え早すぎだろ。
「……勝手にしろ」
鞄を持って立ち上がると、内ポケットのキーホルダーがカチャリと鳴った。
矢野が鞄を肩にかけながら、最後にぼそっと呟いた。
「お前さ、『守ります』なんて言うか? 普通」
聞こえないフリをした。
聞こえないフリをするしかなかった。