作品タイトル不明
第52話 モブ、学園アイドルに「本物にしたい」と言ったら泣いて飛び込んできた
六限終了のチャイムが鳴った。
ノートを見たら、白紙だった。
朝のことを覚えていない。
教室に来て、席に座ったのは覚えている。
弁当も食ったはずだけど、何を食べたかは出てこない。
手のひらが汗ばんでる。朝からずっとこうだ。
胸のあたりもずっと詰まってる。
もう放課後かよ。
一日が丸ごと消えた。
何のページが開いていたのかもわからないまま、教科書を閉じた。
「悠真くん、帰ろ!」
ドアのところに橘が立ってた。
カバンを肩にかけて、いつもの笑顔で手を振ってる。
返す言葉が、すぐに出てこない。
「……おう」
それだけ絞り出して、カバンを持った。
◇
正門を出た。
四人で並木道を歩く。
銀杏の枝が白っぽい空に突き刺さっている。
空気が冷たい。
橘が何か喋っているが、内容が頭に入ってこない。
「ねえねえ、明日は何味がいい? 鮭? 昆布?」
「……ああ」
「ああってどっち?」
「……どっちでも」
うまく返事ができねぇ……。
「ね、悠真くん、聞いてる?」
「……聞いてる」
聞こうとはしてるけど、お前のほう見れないんだよ……。
見たら——なんか、全部こぼれそうだ。
ポケットの中で拳を握る。手汗がすごい。
矢野が前を歩いてる。ポテチを食って、いつもの音がしてる。
宮田がその横で「寒い」とぼやいてる。
矢野が少しだけ、こっちを見た気がした。
けど、すぐ前を向いた。
いつも通り。全部いつも通りだ。
俺だけが、いつもと違う。
喉の奥が乾いてる。さっきから、ずっと。
◇
駅前で矢野が別れた。
「じゃな」
それだけ言って、西口に曲がった。
あいつは何も言わず、いつも通り帰った。
しばらく三人で歩いて、十字路で宮田が足を止めた。
「じゃあね」
宮田も何も聞かなかった。
橘に手を振って、こっちには少しだけ笑って、そのまま角を曲がっていった。
二人になった。
心臓の音がうるさい。
住宅街に入って、急に静かになったから余計に。
さっきまで混じってた車の音も人の声も消えて、橘の足音だけが、隣で鳴ってる。
ローファーが、コンクリートを叩く音。
やけに、はっきり聞こえる。
「ねえ悠真くん、今日なんか静かだね」
「……そうか?」
「うん。いつもはもうちょっと何か言うのに」
そうだな。
橘のほうに向く。
不思議な顔をしてこっちを見てる。
覚悟……決めろ、俺!!
深呼吸して、一言。
「紗月」
何とか絞り出した。
橘が目を丸くする。
それと同時に俺の手が、橘の手を掴んでいた。
冷たい。
なぜかそんなことを思ったが、あとは勢いだ!
「ちょっと、来てくれ」
ふと目についた、近くの公園に入る。
「え……ちょ、え?」
橘の声が裏返ってる。
何も答えられなかった。
◇
公園のベンチの近く。
周りには誰もいなくて静かだ。
橘……いや、紗月を見る。
顔が赤い。
ついてきてくれた。何がなんだか分かってないだろうに。
俺、逃げるな!
「紗月」
さっきよりハッキリ言う。
紗月が、まっすぐこっちを見てる。
唇が乾いてる。
深く、息を吸った。
「——俺たち、嘘から始まった」
声が、震えてる。情けないくらい。
「でも——」
言葉が途中で止まる。
うまく出てこない。
けど、知るか、そんなこと!
コイツに伝えるんだろ!
「本物に、したい。紗月のことが、好き、なんだ……!」
言えた……!
膝から、力が抜けた。
言った。言っちまった。
紗月の顔が、目の前にある。
何も返ってこない。
風が吹いた。頭の上で、葉のない桜の枝が、かすかに鳴った。
それ以外、何も聞こえない。
自分の心臓の音だけが、やたらうるさい。
紗月が、動かない。目が大きく見開かれてる。
口が、少しだけ開いてるのが見える。
吐く息が、白く揺れた。
指先が、冷たい。
——怖い。
頼む。何か、言ってくれ——
——体に、衝撃が来た。
紗月が、飛び込んできていた。
俺の胸のあたりに、顔を押しつけるように。
腕が回ってきて、背中のコートを、ぐしゃっと掴まれた。
頭がパニックだったけど、俺の腕は紗月の背中に勝手に回っていた。
紗月の肩が震えてた。
背中が、手のひらの下で小刻みに揺れてる。
泣いてる。
紗月が、泣いてる。
「……す、き」
俺の胸元から、小さな声が聞こえた。
「……好き、好き! ずっと、なんだろうって……思ってたの……!」
紗月が勢いよく顔を上げた。目が濡れてる。なのに、笑ってた。めちゃくちゃ、笑ってた。
心臓がうるさい。頭が追いつかない。
なのに——
「——ゆう、ま」
気がついたら、唇が塞がれてた。
え、これ、キス——!?
俺は固まったまま何もできない。
紗月は唇を押し付けるようにしてくる。
心臓の音と、頭の混乱でさっきから何が起きてるのか分からない……!
「えへへ……しちゃった」
「おま……」
紗月が至近距離で、顔を真っ赤にしながら笑う。
「だって、うれしかったんだもん」
そう言って俺の胸に顔をうずめる。
「……お前、ほんと距離感バグってんな」
「……距離感とか、知らないもん……!」
俺の口元が、勝手に緩んだ。
なんだよ、それ。
知らないもん、じゃないだろ。
◇
ベンチに座った。
隣には紗月がいる。
なんか、全身の力が抜けてる。
さっきまでの緊張が全部消えて、何も残ってない。
からっぽだ。
気持ちいいくらい、からっぽ。
公園、ベンチ。
何となく、紗月との出会いを思い出す。
あの日は、何が起きてるのかわからなかった。
心臓だけがばかみたいにうるさくて。
紗月は笑ってた。
全っ然悪びれないで、本当に楽しそうに。
あのときはこうなるなんて想像できなかったな……。
紗月は嬉しそうに俺の腕を掴んでる。
少し泣いてた跡が残ってる。
目もちょっと赤い。
「ねえ悠真、これから楽しみだね!」
いつの間にか、呼び方、変わってるな……。
いつも通りの顔で、笑ってる。
切り替えが早いのか、俺が戸惑ってるだけなのか……。
苦笑しながら紗月に返す。
「……おう、そうだな」
空を見上げたら、もう薄暗かった。
「そろそろ、帰るか」
「えー、まだいようよぅ」
腕を引かれる。
「もう暗いだろ、ほら」
引かれた手を、そのまま握り直す。
紗月がぱっと笑顔になった。
「うん……! じゃあ帰ろ!」
繋いだ手から、体温が伝わってくる。
明日からも、こいつに振り回されるんだろう。
だけど、それが楽しみで仕方ないと思っている時点で、俺の負けだ。
モブと、学園のアイドル。——だったのに、な。