作品タイトル不明
第51話 モブ、親友に「あの時のほうがヤバかっただろ」と言われて覚悟を決める
朝から、胸のあたりが重い。
重いっていうか、何か詰まってる感じがする。
朝起きたときからずっとで、顔洗っても制服着ても、消えなかった。
通学路。息が白い。十二月の朝の空気が冷たくて、吐く息がすぐ風に流される。
珍しく、途中で矢野と合流した。
コートの襟を立てて、ポケットに手を突っ込んで、ちょっと猫背で。
こいつは寒くなるといつもこうだ。
土曜のことが、まだ頭の隅にある。
橘兄の部屋の静けさ。冷蔵庫の低い音。
勝手に口が動いたあの一言が、まだ耳にこびりついてる。
「寒いな」
「だな」
矢野が短く返す。それだけ。
しばらく並んで歩いた。
住宅街の角を曲がって、坂の下に学校が見えた。
「……なんかあった?」
矢野の声。横を向いたら、こっちをちらっと見てた。
「……別に」
「ふーん」
矢野はそれだけ言って、前を向いた。
しばらく黙って歩く。いつもより会話が少ない気がした。
でも、矢野が隣にいる。
それがちょっとだけ、ありがたかった。
なんでかは、考えたくなかった。
◇
教室に着いた。席について、カバンから教科書を出す。
机が冷たい。
いつもの朝。いつもの机。いつもの教室の空気。
なのに、ドアの方をちらちら見てしまう。
まだ来てない。
いつ言うか、どう言うかは決まってない。
……言うしかないよな。
ドアが開いた。
つい、顔がそっちを向く。
チェックのマフラーを巻いたまま、橘が入ってきた。
頬が赤い。寒かったんだろう。
胸のあたりが、きゅっとなった。
「おはよ悠真くん!」
いつもの声——に聞こえたけど、ほんの一瞬だけ出遅れた気がした。
先週はもっとおかしかったけど——今日はだいぶ戻ってる、のか?
ちょっとだけ、ほっとした。
けど、目が合った瞬間、橘の視線がすっと逸れた。
先週もそうだった。気のせいじゃなかったらしい。
「……おはよ」
まっすぐ橘を見て、返した。
橘は一拍おいて、いつもの笑顔に戻った。
改めて見るとやっぱめっちゃ可愛いよな、こいつ……。
「今日めっちゃ寒くない? 朝、霜降りてたよ!」
「そうだな」
「あ、お兄ちゃんのケーキどうだった? おいしかった?」
「ああ、普通にうまかった。……つか、菓子作りまで教わった」
「えっ、作り方まで!? お兄ちゃんが教えたの!?」
「……なんでそんな驚くんだよ」
「だってお兄ちゃん、人に教えるとか絶対しないタイプだよ!?」
橘がぱちぱち瞬きしてる。
「すごいじゃん! じゃあ、またお昼にね!」
そう言って手をひらひら振って——ドアのところで一回だけ振り返って、何か言いかけて、すぐ出ていった。
なんか、会話するだけで気分が上がる自分がいて嫌だ……。
あいつに、好きだって言うのか……。
……言えんのかよ、俺。
思わずため息が出る。
朝から気分が変わりすぎてしんどい。
気分を切り替えたくて、机からノートを出した。
テスト勉強の続きでもするか……。
◇
二限が終わった。
ちょっと歩きたくて、席を立った。
教室にいると橘のことばかり考える。
階段を降りて、二階の廊下に出た。
前から書類の束を抱えてる女子が歩いてくる。
柊だった。
「あ……先輩、お疲れさまです」
柊の声は、ちょっと遅れて出てきた。
いつも通り、に聞こえた。
「おう、お疲れ」
改めて思うけど、柊って、凄いよな。
あんなことがあっても、こうして普通にやってる。
「……先輩?」
考え込みすぎたらしい。
柊が首を傾げる。
「あ、ああ……悪い。ちょっとぼーっとしてた。仕事、頑張れよ」
「ありがとうございます」
柊が軽く会釈して、そのまま歩いていった。
◇
屋上。さすがに十二月の空気は冷たい。
けど、いつもの場所は壁際で風が当たらないし、日が差してると、けっこうあったかい。
いつもの場所に矢野が座って、ポテチの袋を開けてた。
橘と宮田が階段を上がってきた。
橘がマフラーに口元を埋めたまま、屋上を見回す。
壁際にすとんと座って、日差しの中で肩の力を抜いた。
「さむっ……あー、やっぱここあったかい」
「日当たりいいしな」
「矢野くんは寒くないの?」
「ポテチ食ってりゃあったかい」
宮田が目を細めて矢野を見てる。
「それ嘘でしょ」
いつも通り。四人で屋上。
おにぎりとタッパーを交換して、飯を食う。
おにぎりを食べてるのに、味がよくわからない。橘の顔を、つい追ってしまう。
宮田が橘のほうをちらっと見て、それからこっちに視線を移した。
目が合ったが、ふっと逸らされた。
……バレてんのか?
矢野はいつも通りポテチを食ってる。
けど、いつもより口数が少ない気がする。
矢野は……気がついてるかもな。
ふと思った。
この四人の昼休みが、いつまで続くんだろう。
俺が……崩すことになるかもしれない。
そんな覚悟が、できるんだろうか……。
◇
六限が終わった。
今日一日、橘の顔をいつもより見てしまった気がする……。
はぁ……。
「悠真くん、帰ろ!」
ドアのところに橘が立ってた。
カバンを肩にかけて、笑ってる。
ダメだ……視線がそっちに吸い込まれる。
意識して視線をそらす。
そらした先、矢野と目が合う。
「……悪い。今日は矢野と帰るわ。ちょっと用事があってな」
矢野は何か察してるのか、何も言わない。
「……ふーん。じゃあ玲奈と帰るね。またね悠真くん!」
一瞬だけ間があった気がしたけど、橘は笑顔で手を振って廊下に消えた。
……「また明日」って言えばよかったかな。
「矢野……」
「帰るんだろ? 行こうぜ」
そう言って矢野は、カバンを肩にかけてドアに向かった。
◇
門を出た。
矢野と二人で並木道を歩く。
こいつと二人だけで帰るのも久々に感じる。
それだけ、四人で帰るのが普通になったってことか……。
コンビニで矢野がポテチを買った。
歩きながら開けて食べてる。
矢野のポテチの音だけが聞こえてる。
その音がなんか、落ち着く。
ポテチの音になんで癒されてんだよ俺……。
そのいつも通りの空気のおかげかは分からんけど、自然とコイツには伝えておこうと思った。
「……矢野」
ポテチの音が止まった。
「俺、橘のこと——」
矢野がこっちを見る。
「好き、なんだ」
矢野に言っただけなのに、心臓がうるさい。
こんなんで橘に伝えられんのかな……。
「……そうか」
矢野は、驚いてなかった。
ただ頷いただけ。
「……驚かないのか?」
矢野はあきれたように肩をすくめる。
「知ってた。それで?」
そうかな……そんなにわかりやすかったか?
俺はそれなりに覚悟を決めてこうなったんだが……。
まぁ、いいか。
「橘に……伝えようと思う」
矢野には知っておいてほしかった。
コイツになら、言える気がした。
「そうか」
……そうか、って。それだけかよ。
もうちょっとなんかないのか。
しばらく黙って歩いた。
自分で言ったくせに、足がちょっと重い。
「……悠真」
「なんだよ」
矢野はこっちを見ない。ポテチを口に放り込んで、前を向いたまま、少し間があった。
「……あのスーツに声かけた時のほうが、よっぽどヤバかっただろ」
——。
頭が真っ白になる。
路地裏。春の夕方。
スーツの男二人に、橘が挟まれてた。嫌そうな顔をしてた。
俺はそれを見て——勝手に足が前に出てた。
なんで動いてんだ俺、って思いながら、もう声かけてた。
知り合いでもないのに。
——目の前の並木道に、意識が戻る。
思わず吐いた息が、長く白かった。
「ダメだったらポテチ奢ってやるよ」
……コイツ。
「安すぎんだろ」
矢野の口の端が、ちょっと上がっていた。
俺もつられて、口が緩んだ。
それだけで、十分だった。
◇
カバンを置いて、机に向かう。
テスト勉強をしようとしたけど、シャーペンを持ったまま進まない。
スマホは、裏返しにして机に置いてある。
橘からLINE来てるかもしれない。
けど、今は見る気がしない。
矢野に言われて思い出した。あいつとの出会い。
春の夕方の路地裏。
あいつは嫌そうな顔をしていた。
それだけなのに、足は、勝手に動いていた。
確かにあの時ほどヤバいと思ったことはないかもな。
思わず苦笑いをする。
なんとなく、椅子に寄りかかって天井を見る。
あの時の俺は何も知らなかったな。
今は——名前も、声も、笑った顔も知ってる。
あの寂しそうな顔も。
全部知ってる。
……知ってるから、余計に怖いんだよ。
でも。
矢野の声が、まだ耳に残ってる。
あの時の俺は、名前しか知らない相手のために声をかけた。
……好きな相手に、言えないわけ——ないだろ。
明日、橘に、言おう。