作品タイトル不明
第50話 モブ、学園アイドルの兄に「あいつが好きなんです」と口走る
参考書を買った帰りだった。
駅の南口から商店街に入ったところで、橘が急にメロンパンの話を始めた。
「小麦堂のメロンパン、やっぱ気になるんだよね!」
「お前、前もそれ言って結局あんぱん買ってたろ」
「今日こそメロンパンにする!」
「……好きにしろ」
十二月。息が白い。風が冷たくて、コートのポケットに手を突っ込んだまま歩いてる。
橘が半歩前にいる。チェックのマフラーに顔を埋めたり出したりしながら、参考書がどうとか、テスト範囲がどうとか、ずっと話してる。
月曜のことが、まだ頭の隅にある。
あの別れ際の小さい声。引っ込めた手。
あれからずっと、何も聞けてない。
今日は、普通だった。
駅前で待ってたら向こうから走ってきて、「お待たせ!」ってマフラーの上からにこにこして。
参考書を選んでるときも隣にくっついて「これどう?」「こっちの方がわかりやすそうじゃない?」って、いつも通りのテンションで。
でも、さっき。
本屋を出たとき、橘の肩が俺の腕にぶつかった。
そのまま体が寄ってきて——一瞬止まって、ぱっと離れた。
「ねえ悠真くん、たい焼きも食べたいね!」
声が一段跳ねてる。
……さっきの、なんだったんだよ。
聞けない。聞いたら——なんて返ってくるか、怖い。
参考書なんて一人でも買える。わかってる。
橘の後ろ姿を見てた。マフラーの端が風で揺れてる。
「悠真くん、遅いよ!」
振り返った橘が笑ってる。いつもの顔。
「……おう」
橘はもう前を向いてた。
◇
小麦堂を出たところで、視界の端に引っかかるものがあった。
駅のロータリー側。人混みの中に、やたら背の高い男が立っている。
コートのシルエット。肩幅が広くて、立ってるだけで道を塞いでるみたいだ。
足が止まった。
橘が隣でメロンパンの袋を持ったまま「あ——」と言いかけて、止まる。
「お兄ちゃん!?」
橘兄が、こっちを向いていた。
私服だ。けど、この人はスーツだろうがパーカーだろうが、立ってるだけで空気の密度が変わる。
背筋に冷たいものが走る。
橘兄がちらっと妹を見た。
「紗月、こいつ借りるぞ」
「え——借りるって、なんで!?」
答えない。視線が俺に来た。
「来い」
それだけ言って、歩き始める。
またこのパターンかよ。教室の取り調べが頭をよぎった。あのときも同じだった。問答無用。
「……わりぃ橘、行ってくる」
俺はそう言い残して、橘兄の背中を追う。
「ちょ——お兄ちゃん! 悠真くん!」
橘の声が背中で聞こえた。
橘兄が肩越しに言った。
「先に帰ってろ」
「え、でも——」
橘の声が遠くなる。振り返れなかった。
橘兄の歩幅が大きくて、ついていくだけで精一杯だ。
◇
桜ヶ丘駅から電車に乗った。
隣に座ってる橘兄は、何も言わない。
窓の外を見ている。
腕を組んで、ぴくりとも動かない。
俺は背筋を伸ばしたまま、膝の上の参考書の袋を握ってた。手汗がやばい。
どこに連れていかれるんだ。何を言われるんだ。
何も、聞けなかった。
二駅先の青葉台で降りた。
改札を出て、住宅街を歩く。知らない街だった。
橘兄の背中だけが、前にある。
◇
マンションの三階。
鍵を開ける音がして、橘兄が中に入った。
「……お邪魔します」
声が自然と小さくなった。
靴を脱いで上がると、すぐにリビングだった。
物が少ない。生活感がほとんどない。
ただ、キッチンだけが違った。
台所のカウンターに、やたら道具が並んでる。
ボウルに泡立て器、木べらにゴムべら、あと形がよくわからない器具が棚いっぱいにある。
大きさも数も、家で使うにしては明らかに多い。
……なんだこれ。台所だけ別の家みたいだ。
「座ってろ」
橘兄がハンガーを差し出して、そのままキッチンに入った。
俺はコートを脱いで、ハンガーに掛けた。
ソファに座る。
参考書の袋を膝に乗せたまま動けない。
コンロの火がつく音。ケトルが鳴り始める。
橘兄がカップを二つ出して、コーヒーを淹れていた。
大きな手が、やけに丁寧に動いてる。
お湯を注ぐとき、細かく湯の量を調整してた。
なんか、見慣れない動き方だ。
ガタイに対して手だけ別の人みたいだった。
カップが目の前に置かれた。
「……ありがとうございます」
橘兄が向かいに座った。自分のカップに口をつける。
俺はその様子を見ながら、固まっていた。
兄と二人っきりの空間、しかも何を聞かれるかわからない。
そんな状況でいつも通り過ごすのは無理だろ……。
静かすぎて、冷蔵庫の低い音だけが聞こえる。
橘兄がカップを置いた。
その瞬間、体が勝手に強張った。
「——紗月のどこが好きなんだ」
——え。
心臓が跳ねた。
予想外の質問すぎて、思わず、目をそらしそうになる。
けど、目をそらしたら、逃げたと思われそうで、必死に目線を保つ。
ていうか、いきなり何を聞かれた?橘を?どこ?好き?
喉がカラカラになった。
ごくりと、唾を飲み込んだ。
頭の中がぐるぐるする。答えが出てこない。
心臓だけが、ばかみたいに速い。
橘兄は、そのまま、待っている。
どこって——なんだよ。どこ、とかじゃ——
ふと——あいつの顔が、浮かんだ。
笑ってる顔。
なのに、広いダイニングに、一人。
いつもより明るすぎた、あの声。
「……あいつ、寂しそうなんです」
口が勝手に動いた。
「普段、うるさいくらいなのに——」
何言ってんだ俺。この人の前で。
「……なのに、明るくて——けど、気になって」
でも、止まらない。
「……ほっとけ、ないんです」
そう、言った。
そうだ、ほっとけない。
偽物で、モブの、俺だけど。
——あ。
「……あいつが、好きなんです」
最後の一言だけ、はっきり聞こえた。自分の声なのに。
耳が熱い。指先が冷たい。
何の音も聞こえない。
自分の心臓の音だけが、やけに大きい。
何秒経ったかわからない。
橘兄がコーヒーカップに口をつけた。
静かに、テーブルに戻した。
「水野」
思わず、息が止まる。
顔を上げた。
名前で——呼ばれた?
「……任せた」
それだけだった。
声は低くて静かで、表情はほとんど変わらない。
……俺で、いいのかよ。
そう思った。思ったのに、目の奥が熱くなった。
泣くとかじゃない。
でも、何かがこみ上げてくる。
「——ただし」
橘兄の目が、少しだけ細くなった。
「次はうちの親父だ。俺より厄介だぞ」
……親父。
そこまで考えが回らなかった。
「……はい」
俺の声を聞いて、橘兄が立ち上がった。
……終わったのか?
顔が熱い。手が震えてる。変な汗もかいてる。
深呼吸した。——全然、落ち着かない。
橘兄はそんな俺の様子を気にもせず、キッチンに向かって、冷蔵庫を開けた。
小さな箱を取り出して、テーブルに置いた。
そのまま蓋を開ける。
ケーキだった。
白いクリームに、いちごが乗ってる。
「食え」
フォークが箱の横に置かれた。
また、いきなりですね……。
「……これ、どこのですか」
「俺が作った」
——はい?
目の前の人物とお菓子作りが結びつかずに一瞬、フリーズする。
自然とキッチンの道具の山が、目に入る。
あのボウルも、泡立て器も、あの形のわからない器具も——全部、お菓子作りの道具か……?
橘兄はじっとこちらを見てる。
とりあえずフォークで一口切って、口に入れた。
え、めっちゃうまい……。
クリームが軽くて、スポンジがふわっとしてて、いちごのすっぱさがちょうどいい。
店で出てくるやつと変わらない味じゃないかこれ……。
「……うまいです」
「当然だ」
二口目に手を伸ばしたところで、橘兄がエプロンを二枚持ってきた。
一枚を俺に投げた。
「手、洗え」
「……え」
「菓子作り教えてやる」
唐突すぎるだろ!
ていうか、さっきまでの空気、どこ行ったんだ……。
さっきの一言がまだ消化しきれてないのに、この人もうエプロン付けてボウル出してる。
「……何作るんですか」
「マフィン。基礎だ」
だから何の基礎だよ!?
こっちの動揺なんか構わず、橘兄は手を動かしてる。
バターを量ってる橘兄の手つきが、さっきのコーヒーと同じだった。
あの大きい手で、なんでこんなに正確に動けるんだ。
「ぼーっとしてるな。粉を量れ」
「は、はい」
エプロンを付けて、言われた通りに手を動かした。
薄力粉。ベーキングパウダー。砂糖。
バターの甘い匂いがキッチンに広がってる。
橘兄の指示は短いが、次々に飛んでくる。
指示に追いつくのに必死だ。
そうやってキッチンで作業をしてるうちに少し落ち着いてきた。
なんだかんだ、料理してるといつも通りだから、かもな。
作業をしてしばらくすると、生地ができた。
型に流し込んで、オーブンに入れる。
「水野、焼きは俺がやる。帰れ」
だから色々急なんですよ。
気持ちが落ち着いたから助かったけど。
もしかしてわざとか……?
いや、そんなわけないか。
エプロンを外して返した。
橘兄が小さな箱をもう一つ出してきた。
さっきのケーキ?
「持ってけ」
「……いいんですか?」
「いらないか」
「……いただきます」
箱を受け取った。
◇
コートを羽織って、マンションを出た。
見慣れない住宅街を歩いてる。
日が傾いてきて、空がオレンジと紫の間くらいの色をしてた。
右手にケーキの箱、左手に参考書の袋。
冷たい空気の中で、指先が箱の角に触れてる。
あの声が、まだ頭の中に残ってる。
名前、呼ばれた……な。
首の後ろがじわっと熱い。
歩いてるのに、足が一瞬止まりそうになる。
——言っちまった。初めて、口に出した。
——それが怖くないかっていったら、嘘になる。
青葉台の駅に着いて、電車に乗った。
座席に座って、膝にケーキの箱と参考書の袋を乗せて、ようやくスマホを出した。
画面に、通知がずらっと並んでた。
全部、橘からだった。
『お兄ちゃんと何してたの!? 大丈夫だった!? 怒られた!?』
『悠真くん返事して!! 生きてる!?』
『ねえ大丈夫!? お兄ちゃん怖くなかった!?』
ビックリマーク多すぎだろ。
すぐ桜ヶ丘に着いたので、スマホを一旦しまう。
改札を出て、近くにあったベンチに座る。
荷物を置いてから、LINEを返す。
『大丈夫だった。怒られてない』
送ったら既読がすぐについた。
『ほんとに!? お兄ちゃんなんか言ってた!?』
『……ケーキもらった』
『ケーキ!? ほんとに怒られてないの!?』
『怒られてない。ケーキ食えっていわれた』
『え!? お兄ちゃんのケーキ!?』
『ずるい!!』
『私にはくれたことないのに!!』
『お兄ちゃんお菓子屋さんなのに私には一回もくれないの!!』
『なんで悠真くんにはあげるの!!!』
怒涛の返信が来た。
思わず口元が勝手に緩む。
——怒るとこ、そこなのかよ。
ていうか、お菓子屋さん。
あの道具の山、仕事用だったのか。
メッセージを打つ。
『橘』
一文字打って、止まった。
いつも通りだ。いつも通りの呼び方。
——いつまで、これで済むんだろうな。
メッセージを消した。
ケーキの箱を、落とさないように手で持ち直した。
ベンチから立ち上がって歩き出す。
指が、箱の角を強く握った。
けど、右手のケーキの箱がまだ温かい気がして、止まれなかった。