軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第49話 モブ、アイドルの「おはよ」がいつもより小さくて動揺する

朝、机の上で数学のノートを見返していた。

土日で一通りやったけど、正直、範囲が広すぎる。矢野の家から持って帰ってきたのが金曜の夜。そこから二日間、机に向かっては寝落ちして、起きてはまたページをめくっての繰り返しだった。

二次関数の応用がまだ怪しい。放課後にもう一回やるか。

カバンにノートを戻した。制服に着替えて、家を出た。

冬の朝の空気が冷たい。息が白い。

昇降口の手前で、笑い声が聞こえた。

女子と並んで歩いてるショートボブが見えた。

柊か。

楽しそうに何か話してるのが遠目でわかる。元気そうだ。

——よかった、と思った。それ以上は、うまく言葉にならなかった。

教室に向かった。

席に座って、スマホを開く。

日曜の夜に橘から来たLINE。

『悠真くん明日おにぎり持ってくね! 梅と昆布!!』

ビックリマーク三つ。いつも通りだ。

『俺は卵焼き持ってく』

そう返したのが昨日の夜。既読はすぐについた。

スマホをポケットに戻した。教室はまだ半分くらいしか埋まってない。矢野はまだ来てなかった。

窓の外を見る。グラウンドが白い。霜が降りたんだろう。

矢野が来た。

カバンを机に放り投げて、椅子に座る。

「眠い」

「知ってる」

「……で、テスト勉強したのか」

「一応」

「じゃあ見せろ」

「やれよ自分で」

いつものやり取りをしていたら、廊下からパタパタと足音が聞こえた。

教室の入口に、橘が立っていた。

チェックのマフラーが首元に巻いてある。

「ゆ、悠真くん……おは、よ」

……なんだ?

いつもの勢いがない気がする。

「……おはよう」

返しながら、なんか引っかかった。

顔が赤い。寒さのせいか?

でもいつもはこうなるまで赤くならないだろ。

「あ、あの、今日おにぎり、梅と昆布——持ってきたから!」

声が大きくなった。急に。

さっきまで小さかったのに、今度は大きすぎる。

「……おう。ありがとな」

「う、うん!」

橘がそのまま教室のドアの前で立ち止まってる。

いつもなら席まで来るのに。今日はドアの前から動かない。

「……橘?」

「な、何?」

「いや——風邪でもひいたか?」

「ひいてないよ! 元気だよ!」

……本当かよ。

「そ、それじゃ、お昼ね! 屋上!」

手を振って、廊下に消えた。

足音がパタパタと遠ざかっていく。いつもより速い。

矢野は頬杖をついて、こっちを見てた。

……なんだ今のは。

昼休み、いつもと同じ屋上。

十二月で風が冷たい。

けど、壁際はまだマシだ。

いつもの位置に座る。

橘が俺の隣に座った。向かいに矢野と宮田。

「はい、おにぎり……どうぞ」

橘がラップに包まれたおにぎりを差し出してきた。

受け取るとき、ちょっと指先が触れた。

「ひゃっ」

橘が手を引っ込めた。

おにぎりが宙で一瞬浮いて、俺が反射で受け止めた。

「……あぶねえだろ」

「な、なんでもない! 手がかじかんでて!」

指がかじかんでるだけの反応には見えなかったけどな……。

「まぁ、ありがとな」

タッパーを出した。蓋を開ける。卵焼き。

「あ、卵焼き……」

橘がタッパーを見てる。

いつもなら喜んですぐに箸を伸ばしてくるのに、じっと見てるだけだ。

「食べていいぞ?」

「う、うん」

俺はもらった梅おにぎりをかじった。酸っぱいけどうまい。

いつもより、静かだ。橘の反応が薄いせいか?

橘が黙ってると、屋上が広く感じる。

向かい側では、矢野がポテチの袋を開けていた。

矢野が袋の口を宮田の方に傾けて、宮田が黙って二枚取った。

矢野もそのまま食べ始める。

……矢野のやつ、自分から出してんのか。無駄に連携してんな……。

橘が箸を伸ばして卵焼きを取って、口に入れた。

なぜか、橘は食べながら、俺の方を向いてる。

ぼーっと、こっちを見てる。

目が合った。

橘の視線が、弾かれたみたいに横に飛んだ。

「紗月、水野のこと見すぎ」

宮田がいつもの調子で言った。

「み、見てない!」

橘の声が裏返った。

「見てたけど」

「見てないもん! フェンスの、あの、鳥を——」

フェンス?

近くのフェンスを見たけど、鳥はいなかった。

やっぱ、俺のこと見てたよな……?

宮田がこっちをちらっと見て、すぐ視線を戻した。

口元が、少しだけ緩んでる。

なんだよ、その顔。

橘がふぅ、と小さく息を吐いて、おにぎりの残りを口に入れた。

「……ねえ悠真くん、おにぎり食べた?」

声が、さっきよりちょっとだけ普通に戻ってる。

「食べた。うまかった」

「ほんと!? よかったぁ」

笑った。いつもの橘の顔。

——と思ったけど、目がまだちょっと泳いでた。

……つうか、さっきからなんか落ち着かねえ。

六限のチャイムが鳴った。

帰り支度をしていたら、教室の入口に橘が立っていた。

マフラーに顔を半分埋めてる。

いつもは教室の中まで踏み込んでくるのに、入ってこない。

「え、えっと……帰ろ?」

声が小さい。俺に聞いてんのか。

「……おう」

朝も、昼も、今も。

橘が、今日ずっとおかしい。

四人で正門を出た。風が冷たい。

銀杏の葉はもう全部落ちていて、余計寒さを感じる。

橘が俺の隣を歩いてる。距離はいつもと同じくらいだと思う。

でも話しかけてこない。

矢野が最初に別れた。

駅前の角で「じゃな」と手を上げて、そのまま行った。

商店街を抜けて、十字路。

「じゃあね。紗月、水野も」

宮田が別れる直前、一瞬だけ橘の方を見た。

なんか気にしてる顔。

橘は「またね玲奈!」と手を振ったが、声がいつもより小さい気がする。

宮田が角を曲がって見えなくなった。

二人きりになった。

住宅街に入る。静かだ。足音しか聞こえない。

橘が隣にいる。少し後ろ。

いつもは横か、前にいたのに。

「……橘」

「え、な、何?」

「いや、別に」

何を聞こうとしたのか、自分でもわからない。

しばらく、無言で歩いた。

橘が何度か口を開きかけて、閉じる。

ふと横を見たら、目が合った。

橘がこっちを見てた。すぐ逸れる。

今日ずっとこれだ。

風が吹いた。コートの裾が揺れる。

袖に、何か触れた気がした。

思わず横を見る。

橘が慌ててポケットに手を入れていた。

なんで引っ込めたんだよ。

なんか、心臓がうるさい。

坂の下に着いた。街灯がぼんやり光ってる。

橘が立ち止まった。こっちを向いた。

マフラーから覗く目が、まっすぐ俺を見て——すぐに逸れた。

「じゃあ……またね」

声が、小さかった。

「……おう。またな」

橘が踵を返した。坂を上がっていく。

一度だけ、足が遅くなったのが見えた。

でもそのまま、坂の上に消えていく。

俺は、しばらくそこに立ってた。

白い息が流れていく。右腕が、やけに軽い。

部屋に戻って、コートを脱いだ。

机の前に座ったけど、ノートを開く気にならなかった。

橘の顔が頭から消えない。

……あの赤い顔。

手、引っ込めてたよな。

「またね」も、なんか小さかった。

今日の橘、なんだったんだ。

手のひらを見た。

昼に指が触れた感触が、まだ残ってる気がする。

袖のあたりを、気づいたら触ってた。

いつも橘が掴んでた場所だ。

もしかして——。

頭を振った。

ないだろ。橘だぞ。

学園のアイドルと、俺だぞ。

それなのに、なんであの顔が消えないんだよ。

……期待してんのか、俺。

……してるんだろうな。

最悪だ。

期待して、違ったら——隣には、いられなくなる。

ノートを引き寄せた。

朝に引っ掛かった二次関数。

数字を見てるはずなのに、袖に触れた感触が、ちらついて消えない。

……明日、どんな顔すりゃいいんだよ。

ベッドに寝転がって、みけを抱きしめた。

あったかい。

悠真くんの顔が、まだ残ってる。

帰り道。袖、掴もうとした。

手が、止まっちゃった。

右手を握る。開く。

まだ、震えてる。

——好き、なのかな。

……わかんない。

でも、悠真くんの顔を見ると、胸がばくばくして、体が全然動いてくれない。

みけの耳を撫でた。

明日、ちゃんと、おはよって言えるかな。