作品タイトル不明
第49話 モブ、アイドルの「おはよ」がいつもより小さくて動揺する
朝、机の上で数学のノートを見返していた。
土日で一通りやったけど、正直、範囲が広すぎる。矢野の家から持って帰ってきたのが金曜の夜。そこから二日間、机に向かっては寝落ちして、起きてはまたページをめくっての繰り返しだった。
二次関数の応用がまだ怪しい。放課後にもう一回やるか。
カバンにノートを戻した。制服に着替えて、家を出た。
◇
冬の朝の空気が冷たい。息が白い。
昇降口の手前で、笑い声が聞こえた。
女子と並んで歩いてるショートボブが見えた。
柊か。
楽しそうに何か話してるのが遠目でわかる。元気そうだ。
——よかった、と思った。それ以上は、うまく言葉にならなかった。
教室に向かった。
席に座って、スマホを開く。
日曜の夜に橘から来たLINE。
『悠真くん明日おにぎり持ってくね! 梅と昆布!!』
ビックリマーク三つ。いつも通りだ。
『俺は卵焼き持ってく』
そう返したのが昨日の夜。既読はすぐについた。
スマホをポケットに戻した。教室はまだ半分くらいしか埋まってない。矢野はまだ来てなかった。
窓の外を見る。グラウンドが白い。霜が降りたんだろう。
矢野が来た。
カバンを机に放り投げて、椅子に座る。
「眠い」
「知ってる」
「……で、テスト勉強したのか」
「一応」
「じゃあ見せろ」
「やれよ自分で」
いつものやり取りをしていたら、廊下からパタパタと足音が聞こえた。
教室の入口に、橘が立っていた。
チェックのマフラーが首元に巻いてある。
「ゆ、悠真くん……おは、よ」
……なんだ?
いつもの勢いがない気がする。
「……おはよう」
返しながら、なんか引っかかった。
顔が赤い。寒さのせいか?
でもいつもはこうなるまで赤くならないだろ。
「あ、あの、今日おにぎり、梅と昆布——持ってきたから!」
声が大きくなった。急に。
さっきまで小さかったのに、今度は大きすぎる。
「……おう。ありがとな」
「う、うん!」
橘がそのまま教室のドアの前で立ち止まってる。
いつもなら席まで来るのに。今日はドアの前から動かない。
「……橘?」
「な、何?」
「いや——風邪でもひいたか?」
「ひいてないよ! 元気だよ!」
……本当かよ。
「そ、それじゃ、お昼ね! 屋上!」
手を振って、廊下に消えた。
足音がパタパタと遠ざかっていく。いつもより速い。
矢野は頬杖をついて、こっちを見てた。
……なんだ今のは。
◇
昼休み、いつもと同じ屋上。
十二月で風が冷たい。
けど、壁際はまだマシだ。
いつもの位置に座る。
橘が俺の隣に座った。向かいに矢野と宮田。
「はい、おにぎり……どうぞ」
橘がラップに包まれたおにぎりを差し出してきた。
受け取るとき、ちょっと指先が触れた。
「ひゃっ」
橘が手を引っ込めた。
おにぎりが宙で一瞬浮いて、俺が反射で受け止めた。
「……あぶねえだろ」
「な、なんでもない! 手がかじかんでて!」
指がかじかんでるだけの反応には見えなかったけどな……。
「まぁ、ありがとな」
タッパーを出した。蓋を開ける。卵焼き。
「あ、卵焼き……」
橘がタッパーを見てる。
いつもなら喜んですぐに箸を伸ばしてくるのに、じっと見てるだけだ。
「食べていいぞ?」
「う、うん」
俺はもらった梅おにぎりをかじった。酸っぱいけどうまい。
いつもより、静かだ。橘の反応が薄いせいか?
橘が黙ってると、屋上が広く感じる。
向かい側では、矢野がポテチの袋を開けていた。
矢野が袋の口を宮田の方に傾けて、宮田が黙って二枚取った。
矢野もそのまま食べ始める。
……矢野のやつ、自分から出してんのか。無駄に連携してんな……。
橘が箸を伸ばして卵焼きを取って、口に入れた。
なぜか、橘は食べながら、俺の方を向いてる。
ぼーっと、こっちを見てる。
目が合った。
橘の視線が、弾かれたみたいに横に飛んだ。
「紗月、水野のこと見すぎ」
宮田がいつもの調子で言った。
「み、見てない!」
橘の声が裏返った。
「見てたけど」
「見てないもん! フェンスの、あの、鳥を——」
フェンス?
近くのフェンスを見たけど、鳥はいなかった。
やっぱ、俺のこと見てたよな……?
宮田がこっちをちらっと見て、すぐ視線を戻した。
口元が、少しだけ緩んでる。
なんだよ、その顔。
橘がふぅ、と小さく息を吐いて、おにぎりの残りを口に入れた。
「……ねえ悠真くん、おにぎり食べた?」
声が、さっきよりちょっとだけ普通に戻ってる。
「食べた。うまかった」
「ほんと!? よかったぁ」
笑った。いつもの橘の顔。
——と思ったけど、目がまだちょっと泳いでた。
……つうか、さっきからなんか落ち着かねえ。
◇
六限のチャイムが鳴った。
帰り支度をしていたら、教室の入口に橘が立っていた。
マフラーに顔を半分埋めてる。
いつもは教室の中まで踏み込んでくるのに、入ってこない。
「え、えっと……帰ろ?」
声が小さい。俺に聞いてんのか。
「……おう」
朝も、昼も、今も。
橘が、今日ずっとおかしい。
◇
四人で正門を出た。風が冷たい。
銀杏の葉はもう全部落ちていて、余計寒さを感じる。
橘が俺の隣を歩いてる。距離はいつもと同じくらいだと思う。
でも話しかけてこない。
矢野が最初に別れた。
駅前の角で「じゃな」と手を上げて、そのまま行った。
商店街を抜けて、十字路。
「じゃあね。紗月、水野も」
宮田が別れる直前、一瞬だけ橘の方を見た。
なんか気にしてる顔。
橘は「またね玲奈!」と手を振ったが、声がいつもより小さい気がする。
宮田が角を曲がって見えなくなった。
二人きりになった。
住宅街に入る。静かだ。足音しか聞こえない。
橘が隣にいる。少し後ろ。
いつもは横か、前にいたのに。
「……橘」
「え、な、何?」
「いや、別に」
何を聞こうとしたのか、自分でもわからない。
しばらく、無言で歩いた。
橘が何度か口を開きかけて、閉じる。
ふと横を見たら、目が合った。
橘がこっちを見てた。すぐ逸れる。
今日ずっとこれだ。
風が吹いた。コートの裾が揺れる。
袖に、何か触れた気がした。
思わず横を見る。
橘が慌ててポケットに手を入れていた。
なんで引っ込めたんだよ。
なんか、心臓がうるさい。
◇
坂の下に着いた。街灯がぼんやり光ってる。
橘が立ち止まった。こっちを向いた。
マフラーから覗く目が、まっすぐ俺を見て——すぐに逸れた。
「じゃあ……またね」
声が、小さかった。
「……おう。またな」
橘が踵を返した。坂を上がっていく。
一度だけ、足が遅くなったのが見えた。
でもそのまま、坂の上に消えていく。
俺は、しばらくそこに立ってた。
白い息が流れていく。右腕が、やけに軽い。
◇
部屋に戻って、コートを脱いだ。
机の前に座ったけど、ノートを開く気にならなかった。
橘の顔が頭から消えない。
……あの赤い顔。
手、引っ込めてたよな。
「またね」も、なんか小さかった。
今日の橘、なんだったんだ。
手のひらを見た。
昼に指が触れた感触が、まだ残ってる気がする。
袖のあたりを、気づいたら触ってた。
いつも橘が掴んでた場所だ。
もしかして——。
頭を振った。
ないだろ。橘だぞ。
学園のアイドルと、俺だぞ。
それなのに、なんであの顔が消えないんだよ。
……期待してんのか、俺。
……してるんだろうな。
最悪だ。
期待して、違ったら——隣には、いられなくなる。
ノートを引き寄せた。
朝に引っ掛かった二次関数。
数字を見てるはずなのに、袖に触れた感触が、ちらついて消えない。
……明日、どんな顔すりゃいいんだよ。
◇
ベッドに寝転がって、みけを抱きしめた。
あったかい。
悠真くんの顔が、まだ残ってる。
帰り道。袖、掴もうとした。
手が、止まっちゃった。
右手を握る。開く。
まだ、震えてる。
——好き、なのかな。
……わかんない。
でも、悠真くんの顔を見ると、胸がばくばくして、体が全然動いてくれない。
みけの耳を撫でた。
明日、ちゃんと、おはよって言えるかな。