軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第5話 モブ、初デートで「逃げねえから」と口走る

眠れない。

布団に包まって1時間。

天井の模様を数えるのも、羊を数えるのも、全部試した。ダメだ。

明日の10時。駅前。私服。

橘との「打ち合わせ」が、あと9時間後に迫っている。

打ち合わせだ。打ち合わせ。兄対策の作戦会議。それだけだ。

——なのに心臓がうるさい。

俺はスマホを手に取った。

明日の天気でも調べて落ち着こう。

晴れ。最高気温22度。風は穏やか。

デート日和——じゃなくて、打ち合わせ日和だ。

天気を閉じた。

それで終わりのはずだった。

なのに指が勝手に検索欄を開いて、「駅前 カフェ おすすめ」と打ち込んでいる。

星4.2、雰囲気◎、ランチセットあり。

星4.5、窓際席が広い、スイーツが人気。

星3.8、コスパは良いが土曜は混む——

……。

時計を見たら、1時半だった。

なんで俺は金曜の深夜に、駅前のカフェの口コミを比較してんだ。

頼まれてもないのに。

「……下調べだ。あいつに任せると無駄に歩かされそうだしな。偽彼氏の自己防衛だ」

誰もいない部屋で、また言い訳した。

説得力は、昨日から一ミリも上がっていない。

土曜の朝。目覚ましより20分早く目が覚めた。

鏡の前に立つ。クマがひどい。

当たり前だ、3時まで寝付けなかった。

モブはモブらしく目立たない服でいいのに、「たぶん着ないけど」と一人で言い訳しながら引っ張り出した白いシャツを、今まさに着ている自分が恨めしい。

デニムに合わせて、普段よりは十秒だけ長く鏡を見て寝癖を直して——。

「打ち合わせだ」

三回目の念仏を唱えて、俺は家を出た。

駅前に着くと、橘はもう待っていた。

白いブラウスにプリーツスカート。

カーディガンを肩にかけて、小さなバッグを片手に持っている。

いつもの制服姿とは全然違う。

——なんで学園のアイドルってやつは、私服になるとさらに眩しくなるんだ。

すれ違ったカップルの男の方が思いっきり二度見して、隣の彼女に脇腹を小突かれている。

足早に駅へ向かっていた男ですら、露骨に速度を落としていた。

……お前ら、わかりやすすぎるだろ。

いや、あの破壊力なら気持ちは痛いほどわかる。

俺だってちょっと足が止まったし。

……いや、止まったのはちょっとだけだ。絶対に見惚れてなんかいない。

「水野くん! おはよう!」

橘が手を振って駆け寄ってくる。

朝から元気だ。いつも通りだ。

俺だけが寝不足でフラフラしている。

「……よう」

「ちゃんと来てくれた!」

「言ったからには来るだろ、普通に」

「あ、水野くんも白じゃん。なんかカップルのお揃いみたいだね!」

橘が無邪気に指差してくる。

言われてみれば、俺のシャツと橘のブラウス、見事に色が被っている。

「ぐっ……偶然だ! 帰って着替えてくる!」

「細かいことは気にしない! それより水野くん、その服似合ってるよ。なんだかんだ言って、ちゃんと気合入れて選んでくれたんだね〜」

「気合なんて入れるわけないだろ。……別に選んだわけじゃない、一番上にあったのを適当に着ただけだ」

橘は俺の顔をじっと覗き込んだ。

「寝てないでしょ? 目の下すごいよ」

「……うるさい」

「緊張した?」

「してない」

嘘だ。

3時まで『窓際席が最高』とかいうレビューを熟読していたなんて、死んでも言えない。

「じゃあ行こっか。今日の打ち合わせ、項目いっぱいあるからね!」

「お前の言う項目って、最後に書いてあった『楽しむ』とかいうやつも含まれてるんだよな」

「当然。一番大事な項目だよ!」

「お前の中で一番大事なのがそれかよ!」

橘は聞いちゃいない。もう歩き出している。

俺は渋々その後を追った。

駅前のショッピングモール。

土曜の午前中だから、人はそれなりにいる。

「じゃあまず、写真ね!」

橘がスマホを構えて、ぐいっと寄ってきた。

「近い! 距離感!!」

「カップルっぽい写真でしょ? 離れてたら意味ないじゃん」

「もうちょっと段階ってもんがあるだろ!」

「細かいことは気にしない!」

出た。こいつの必殺技。

「はい、笑って!」

「笑えるか!」

「じゃあ普通の顔で。はい、いくよ〜!」

パシャ。

橘が画面を確認して、ぷっと噴き出した。

「水野くん、めっちゃ硬い顔してる」

「当たり前だろ……」

「もう一枚いこ。今度はもうちょっとリラックスしてね?」

「リラックスできる状況じゃねえんだよ!」

「じゃあこうしよ」

橘がピースサインで俺の横に並んだ。

距離がゼロ。肩が触れている。

……だめだ。顔が近い。シャンプーのいい匂いがする。

モブの許容量を軽く超えている。

抵抗する間におかしくなりそうだ……もういい。

パシャ。

「あ、いい感じ〜。ほら見て!」

画面の中で、橘は最高の笑顔だった。

俺は——まあ、さっきよりはマシな顔をしていた。

「お兄ちゃんに見せたら安心するかな」

……これ完全にデートの写真だろ。

兄を安心させるどころか火に油だろ。

「次、カフェね。お昼にしよ〜!」

橘に引っ張られるまま、モール内のカフェエリアへ向かう。

「ねえ、どこがいいかな?」

「どこでもいいだろ」

言いながら、俺の目は無意識に右奥へ向いていた。

昨夜、星4.5をつけたレビュアーが「窓際席が最高」と書いていたあの店の方向だ。

「あ、あっちに良さそうなの発見。行ってみよ!」

橘が指差したのは——その店だった。

偶然だ。偶然に決まっている。

もし橘が「水野くん、ここ知ってた?」と聞いてきたら、俺は終わる。

星4.5のレビューを夜中に読み漁っていた男の尊厳は、粉々に砕け散る。

「ここ、なんか雰囲気いいね!」

橘は何も気づいていない。助かった。

窓際の席に座り、メニューを開く。

橘はパンケーキを即決し、俺はコーヒーとサンドイッチを注文した。

料理を待つ間、橘が向かいの席から身を乗り出してくる。

「ねえ、水野くんってこういうお店よく来る?」

「来ない。モブはフードコートで十分だ」

「じゃあ今日は特別だね!」

「……特別じゃない。打ち合わせだ」

「うんうん、打ち合わせね!」

橘は俺の否定など全く聞いていない様子で笑った。

やがて運ばれてきたパンケーキを、橘はさっそく幸せそうな顔で頬張った。

——ただの打ち合わせの昼飯だぞ。なんでそんな顔ができるんだ。

内心呆れつつも、目の前で美味そうに食べる姿を眺めていると、不思議と居心地の悪さは消えていた。

……嫌じゃない。

この空間にいるのが、嫌じゃない。

そう思った自分がやばくて、俺は慌ててコーヒーを飲んだ。

熱い!

ホットコーヒーなの忘れてた……。

「見てみて〜。お揃いのキーホルダーあるよ!」

雑貨屋で橘がキーホルダーの棚に張り付いている。

「いや、これは必要か?」

「お揃いのキーホルダーとか見てみたいの!」

「『見てみたい』であって『買う』とは書いてなかったよな?」

「これとか可愛くない?」

聞いてない。ほんっとうに聞いてない。

小さな猫のキーホルダー。

二つで一組になっていて、並べると尻尾がハートの形になるやつだ。

「偽彼氏にお揃いのキーホルダーは過剰装備だろ」

「いいじゃん。形から入るの大事だよ〜!」

「形が本物すぎるんだよ!」

「決まりだね! じゃあ水野くんはどっちの猫がいい?」

「選ぶ前提で話を進めるな!」

……結局、猫のキーホルダーを二つ買った。

橘が「わー!」と子供みたいに喜んでいるのを見て、まあ安いし、別にいいか……と思ってしまった自分が一番怖い。

「はい、水野くんの分!」

橘が片方を差し出した。

「……どうも」

偽彼氏の過剰装備だ。

カバンの一番下にでも適当に押し込んでおけばいい。

——はずなのに。気がつけば俺の手は、カバンを素通りしてズボンのポケットにそれを滑り込ませていた。しかも傷つけないよう、そっと。

……なんで俺、こんな扱い方してんだよ。

橘がぐいっと顔を覗き込んできた。

「ねえ、なんでカバンじゃなくてポケットなの?」

「……カバン開けるのが面倒だったから、とりあえず突っ込んだだけだ」

「ふーん? ……もしかして、大事にしてくれようとした?」

無自覚に図星を突かれて、呼吸が止まりかけた。

「違っ……! だから面倒だっただけだっての!」

「へぇ〜?」

にやにやしている。最悪だ。

「にやにやすんな」

「してないよ?」

してる。絶対してる。

モール内を歩く。写真、カフェ、キーホルダー。

橘の「打ち合わせ項目」はほぼ消化した。

残るは最後の項目——『楽しむ!!!!』。

……楽しんでいる。

認めたくないが、俺はたぶん、今日を楽しんでいる。

橘が隣でキーホルダーを鳴らしながら歩いている。鼻歌混じりに。

打ち合わせの空気じゃない。これは完全に——

「紗月」

男の声が、背後から飛んできた。

頭の中が、一瞬で真っ白になった。

低い。重い。聞き覚えのない声。

でも、橘の反応で誰だかすぐにわかった。

橘の足がピタリと止まった。

肩が強張る。さっきまでの笑顔が一瞬で消えた。

「お、お兄ちゃん……!?」

振り返ると、長身の男が立っていた。

ラフなシャツにスラックス。

私服だが、体格のせいで空気の占有率が違う。

肩幅が広い。腕が太い。そして目が——まっすぐこちらを射抜いている。

これが、橘の兄。

LINEで『逃げるな』と送ってくる人物。

胃が一瞬で縮み上がった。

「こんなところで何をしている」

声は荒げていない。なのに、周囲の空気が一段重くなった。

「デートだよ! 彼氏と!」

橘が強気に返す。が、声がいつもより半音高い。

兄の視線が、橘から俺に移った。

一瞬、俺の手元に目が留まった——気がした。

「お前が——彼氏か」

品定めの目だ。目の奥が冷たい。笑いも怒りもない、ただ淡々と俺を見てくる。

怖い。シンプルに怖い。

「あ……えっと、お兄さ——」

兄の目が、わずかに細くなった。

一言も発してないのに、「その呼び方は違う」と全身で伝わってくる。

「……橘さん。はじめまして、水野悠真です」

「ああ」

それだけだった。頷きすらない。

「お兄ちゃん、今日はたまたまでしょ? 用がないなら——」

「用はある」

兄が一歩近づいた。俺に向かって。

「近いうちに、改めて話をさせてもらう」

通告だった。兄はそれだけ言うと、背を向けた。

大きな背中が、ゆっくりと人混みへ向かって歩き出す。

足はすくんでいる。どう見てもモブの手に負える相手じゃない。

黙って背中を見送れば、逃げてやり過ごせる。

ふと隣を見ると、橘が自分のスカートの裾をぎゅっと握りしめていた。

見捨てられるんじゃないか——そう怯える目で、俺を見上げている。

あの橘が、何も言えずに立ち尽くしている。

いつもの強気な言葉も出てこない。

——ここで黙って見送ったら。

俺は安全圏にこもって、こいつを一人にして逃げることになる。

「……逃げねえから」

ぽつりとこぼした呟きに、橘がビクッと肩を揺らした。

「お前が俺を強引に引っ張り回したんだろ。……勝手に逃げたりしねえよ」

橘の目が、これ以上ないくらいに丸くなる。

と、次の瞬間。

ピタリと、去りゆく兄の足が止まった。

ゆっくりと振り返る。

——いや聞こえてたんかい!?

今の完全にこっちだけのボリュームだっただろ!

どんだけ地獄耳なんだよ!

兄が俺を見つめている。無表情。

俺の心臓が、先ほどの十倍の速度で跳ねた。

永遠にも思える数秒間。

「……覚えておく」

それだけ言って、今度こそ背を向けた。

大きな背中が人混みに消えていく。

俺は大きく息を吐いた。膝が少し笑ってる。

——なんで俺、あんなこと言ったんだ……!?

言った直後に盛大な後悔が押し寄せてくる。

「……水野くん」

橘の声がした。

見ると、橘が少しだけ俯き加減でこちらを見ていた。

いつもの底抜けに明るい笑顔じゃない。

どこかホッとしたような、柔らかい表情だった。

「あ、いや! 今のは——逃げないってのは偽彼氏として、その、途中で投げ出さないっていうか——」

「ありがとう」

いつも強引な彼女からは想像もつかないくらい、真っ直ぐな声だった。

返す言葉が、出てこなかった。

帰り道。

橘とは改札で別れた。

「じゃあね、水野くん。今日はほんとにありがとう!」

声はいつも通りだった。笑顔もいつも通りだった。

手を振って、人波の中に消えていった。

それなのに、帰り道の頭の中では、さっきの「ありがとう」ばかりがしつこくループしている。

……最悪だ。

ただの厄介事のはずなのに、完全にペースを崩されている。

電車の座席に沈み込んで、スマホを開いた。

矢野からLINEが来ている。

ニヤけた犬のスタンプが一つ。

その下に一言。

『で、初デート(仮)の成果はどうよ?』

デートじゃねえ。

……と打ちかけて、消した。

今日の出来事を全部説明するのは無理だ。

矢野に送ったら一生いじられる。

結局送ったのは「疲れた」の二文字だった。

3秒で既読。

『楽しかったんだな』

断定で来た。疑問形ですらない。

……だぁーっ! 返せるか、こんなもん!!

素直に否定できるならとっくにしてるし、かといって肯定なんてした日には、どんな顔で学校に行けばいいのか分からなくなるだろが!

俺は既読無視を決め込み、スマホの画面を乱暴にオフにした。

ズボンのポケットにねじ込むと、一緒に入っていた猫のキーホルダーがカチャリと鳴る。

——俺の平和な高校生活、完全に終わったじゃねえか……!