軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第46話 モブ、「いつもこのくらいだよ?」に心臓が持たない

息が白い。

グラウンドに立つと、十一月の風が体操着を通り抜けていった。

今日は持久走本番。

ここ二週間の体育、ずっとこれだ。

それが、ようやく終わる。

憂鬱ではあるが、これで終わりだと思えば、気も楽だ。

矢野がジャージのポケットに両手を突っ込んで、だるそうに立ってる。

「眠い」

「お前はいつもだろ」

「眠くない日がない」

知ってるよ。

スピーカーから号令が聞こえる。2-Dの列はグラウンドの向こう側だ。

ぼんやりそっちを見ていたら——

「悠真くん! 一緒に走ろうね!」

橘の声。声の方を振り向く。

白い体操着に、ポニーテール。

ジャージの上を腰に巻いて、明るめの茶色の髪が低い日差しの中で光ってる。

頬が赤い。寒さのせいだろう。

白い息。笑ってる。

胸の奥が、一拍跳ねた。

いやいやいや、ちょっと意識しただけでこれかよ。

心臓が持たねぇぞ……。

「クラス違うだろ」

矢野が横から平坦な声で言った。

「コースは同じだもん!」

「男女で距離違うけどな」

「途中で会えるじゃん! ね、悠真くん!」

目をまっすぐ向けられた。

少しだけ目をそらす。

「……勝手にしろ」

「やった!」

宮田が後ろから歩いてきて、腕を組んだまま俺たちを見ていた。

「走る前からうるさいね、あんたたち」

「うるさくないもん!」

宮田の目が一瞬、俺の方に来た。橘じゃなくて、俺。

なんだよ……。今日は、なんもしてないぞ。

橘がまだ何か言おうとしたところで、スピーカーから女子の集合がかかった。

「行ってくるね!」と手を振って、2-Dの列に戻っていく。

ポニーテールが揺れてる。うなじが見えてた。

列に戻っていく背中を、なぜかずっと追ってた。

男子スタートのホイッスルが鳴った。

走り出す。

グラウンドを出て並木道に入ると、裸の銀杏が並んでいた。

足元で黄色い落ち葉がシャクシャク鳴る。

体が温まってきた。耳の先だけ冷たい。

周囲のスニーカーがアスファルトを叩く音だけが続く。

前方に女子の集団が見えた。だんだん近づいてくる。

その中に、ポニーテールの茶色。

橘が振り返って俺に気づくと、集団から横にずれてきた。

「あ、やっときた!」

横に並んだ。橘の呼吸が俺より速い。

口が少し開いてて、「はっ、はっ」と苦しそうな息が漏れてる。

男子のペースに無理して合わせているくせに、走りながらこっちを見て、嬉しそうに笑った。

——汗が、こめかみから顎のラインを伝ってる。

頬に髪が一筋貼りついて、睫毛が——長い。

こんなに長かったか。汗で光ってた。

目が、離れない。

風が向きを変えた瞬間、匂いがした。シャンプーだと思う。

冷たい空気に混じって甘い。走ってるのに鼻の奥に残る。

なんで今更こんな匂いするんだ。ずっと隣にいたのに。

自覚したせいなのか?

走りに集中しろ、俺……!

「悠真くん、一緒に……走れた、ね」

だから、やめろその笑顔。

「……しゃべるとバテるぞ」

短く返して、少しだけ歩幅を狭める。

隣の足音とリズムが重なった。

そのまま、しばらく二人で並走していた。

「女子はこっちだから……また後でね!」

橘が少しずつ違うコースにずれていく。

横にいた足音が、離れる。

「がんばって!」

声が後ろから聞こえた。

隣が空になった。体温も、匂いも、消えた。

冷たい風だけが腕に当たる。

そのまま、しばらく走る。

物足りないと感じるのは気のせいか?

いや気のせいじゃないよな……。

気が付いたら、ゴールラインを駆け抜けてた。

膝に手をついて、息を整える。

汗が顎から垂れて、体操着が背中に張り付いてる。

視界の端で、先に走り終えた女子たちが集まっているのが見えた。

そこから抜け出すようにして、タッタッ、と軽い足音が近づいてきた。

地面に落ちた俺の影に、別の影がすっと重なる。

「お疲れ!」

顔を上げたら、橘の顔が目の前にあった。

覗き込んでる。走り終わった顔。頬がまだ赤い。

ポニーテールが少し崩れてる。

それでも大きな目がキラキラしていて、かわ——。

「っ——近い」

絞り出すように出た。

「え、いつもこのくらいだよ?」

橘がきょとんとして、首を傾げた。

ポニーテールが肩の前に垂れる。

いつもこのくらいだったか。

……本当かよ。

「はいはい、そこまで。お疲れ、紗月」

いつの間にか横に来ていた宮田が、橘の腕を引っ張った。

「あ、玲奈! お疲れ様!」

橘の意識が宮田に向いたところで、横から声が降ってきた。

「お前、折れてたな」

矢野の声。

タオルで首を拭きながら、こっちを見てる。

「折れてない」

「並んで走ってペース落ちてたけどな?」

矢野がタオルを肩にかけた。

「……気のせいだろ」

「ふーん」

ニヤニヤすんな。

目の前では、橘が宮田に絡まれてる。

宮田も橘を見ながらなんかニヤニヤしてる。

……こいつらはこいつらで、似たもの同士だな。

思わずため息が出た。

持久走本番の日は短縮日課。午後は自由解散だ。

矢野の席はもう空だった。

帰る準備をしているところで、教室のドアから声がした。

「悠真くん」

橘が立っていた。

持久走のポニーテールから、いつもの内巻きの髪型に戻ってる。

「帰ろ?」

あれ?

いつもはもっと——勢いよく言ってた気がする。

なんかあったか?

「おう」

心当たりもなかったので、とりあえずいつもの返事をして椅子を立つ。

橘は「早く早く!」と手招きしてる。

その肩越しに廊下へ目をやると、見慣れた二人の姿があった。

さっさと帰ったと思っていた矢野が、だるそうな顔で壁にもたれている。

そのジャージの袖を、宮田がしっかり掴んで逃がさないようにしていた。

いつの間にかいなくなっていた矢野だったが、どうやら宮田に捕まったらしい。

「ほら、行くよ二人とも!」

橘に急かされるようにして、俺たち四人は校舎を出た。

正門を出て、並木道を歩く。

さっき走ったのと同じ道だ。裸の銀杏。足元の黄色い落ち葉。

いつもの帰り道より、明るい。

いつもの四人で歩いてる。

橘が、俺のすぐ隣にいる。

距離が近い。

マフラーが風でふわっと広がって、俺のコートに触れそうになる。

橘がこっちを見て何か言った。

明日の話、週末の話。

聞いてる。聞いてるのに、それよりも——顔が近い。

風で橘の髪が俺の方に流れてきて、匂いが、またした。

思わず足が、少し横ずれる。

その分、橘が距離を詰めてくる。

橘の指先が、俺のコートの袖に触れた。

「紗月、近くない?」

宮田が後ろからぼそっと言った。

「いつも通りだよ?」

橘はきょとんとしてる。

本当にわかってないのか、こいつ。

矢野と宮田の目が合うのが見えた。

矢野の口角がちょっとだけ上がった。

……こいつら、何が面白いんだよ。

駅に着いて、矢野が「じゃな」と手を上げた。

商店街のアーケードを抜けると、また風が冷たくなった。

出口の十字路で宮田が分かれる。

「じゃあね、紗月。水野も」

宮田が俺の方を見た。何か確認するみたいな目。

今日の朝から何だってんだ……。

「またね玲奈!」

橘が大きく手を振っている。

宮田が見えなくなるまで振ってた。

二人っきりになった。

住宅街に入ると、静かになる。

俺たちの足音しか聞こえない気がする。

橘が隣にいる。それはわかってる。

いつもと同じ距離のはずなのに、二人になると余計に心臓がうるさい。

橘がたい焼きの話をしてる。どこの店がおいしいとか。

生返事で誤魔化す。

やけに声が近くで響く。

坂の下に着いた。いつもの別れる場所。

橘が立ち止まって、振り返った。

コートが翻って、マフラーの端が揺れる。

少し遅れてついてきた髪に、無意識に目がいく。

ただのいつもの動作のはずなのに。

「じゃあ——」

足が、止まった。

橘の唇が開いたまま、動かない。目がまっすぐ俺を見てる。

白い息が、途切れた。

一拍。

「——またね」

声が、さっきより小さかった。

「……おう。またな」

橘が大きく手を振る。いつもの振り方で、いつもみたいに笑う。

踵を返して、橘が坂を上がっていく。

途中で振り返ってまた振られた手に、うまく返せなかった。

門の中に橘の姿が消えるまで、ただ見送った。

俺はしばらく、その場から動けなかった。

白い息が流れていくのを、ただぼーっと見ていた。

歩き出す。

一人の帰り道。さっきまで橘がいた右側が、なんだか寒い。

ポケットの中でスマホが震えた。

『明日おにぎり持ってくね!! 鮭にするね!!』

ビックリマーク二つ。いつもの橘だ。

『おう』

送って、スマホを下ろす。

——橘が変わったのか。俺が変わったのか。

俺にはよくわからなかった。