作品タイトル不明
第45話 モブ、「なんでもない」と笑う手の震えに気づいてしまう
カーテンの隙間から、白い光が差していた。
目は覚めてたけど、起き上がる気にならなかった。
昨日の放課後のことが、まだ頭に残ってる。
ゴミ捨て場で柊に告白された。
迷うことなく、断った。
その瞬間、橘の顔が浮かんだからだ。
そのあと、昇降口で橘が待ってた。いつも通りに帰った。
当然、告白されたことなんて何も言えなかった。
ていうか、意識しすぎて何を話したのかも曖昧だ。
好きなのか——いや、だからってどうにもならないだろ。
俺はモブ、あっちは学園アイドル。
偽彼氏の役割がなくなったら——。
そんな事を考えてたら、枕元のスマホが震えた。
手を伸ばす。画面の光が眩しい。
橘。
『今日楽しみだね!! 12時に駅でいい??』
……ああ。約束してたな。
断る理由がない。ていうか断れるわけがない。
『おう』
送って、布団を蹴った。
◇
改札の前で待ってたら、向こうから橘が手を振って走ってきた。
白っぽいコートに、チェックのマフラー。
私服だと相変わらず雰囲気が違う。
「悠真くん! ごめんね待った?」
「今来たとこだ」
「嘘だー、悠真くんいつも早いもん」
まあ、十分くらい早く着いてたけど。
それを言うと面倒なことになるから黙っとく。
「ねえ、こっちこっち!」
橘が先に歩き出した。マフラーの端が揺れてる。
俺はポケットに手を突っ込んだまま、その後ろをついていった。
駅の南口を出て、少し歩いたところにある小さな店だった。
窓に手書きで『パスタ&カフェ』って書いてある。
「ここ! ネットで見つけたの!」
「狭いな」
「狭い方がおいしそうじゃん!」
どういう理屈だよ。
中に入ると、カウンターが四席、テーブルが二つ。
テーブル席に向かい合って座ったら、思ったより膝が近い。
「ねえねえ、どれにする?」
橘がメニューを広げて、こっちに向けてきた。
「カルボナーラ」
「早っ! もうちょっと悩んでよ!」
「悩む要素ない」
「あるよ! ミートソースもおいしそうだし、明太クリームも気になるし——あ、キノコのも……」
「じゃあ好きなの頼めよ」
「悩んでるから聞いてるの!」
聞かれても困る。
「……ミートソースでいいんじゃないか。肉入ってるし」
「天才! それにする!」
天才は言い過ぎだろ。
なんで俺がこいつのメニュー選んでんだ。
水を持ってきた店員に、二つ注文した。
橘がマフラーを外して、膝の上に置いた。
テーブルの向こうで、にこにこしている。
「なに笑ってんだよ」
「だって休みの日にごはん食べに来るの楽しくない?」
「……まあ」
「『まあ』じゃないよ! 楽しいでしょ?」
「うるさいな」
橘がむっとした。
「悠真くんっていつもそう! 素直に言えばいいのに」
「何を」
「楽しいって!」
パスタが来た。ナイスタイミング。
助かった。
橘がフォークでミートソースを巻きながら、何か話している。みけに新しい服を作りたいとか、宮田に編み物教えてもらうとか。
俺は相槌を打ちながら、嬉しそうに話す橘を見ていた。
——ふっと、昨日のことが頭に浮かんだ。
告白を断った瞬間、こいつの顔が浮かんだこと。
なんとなく視線が、テーブルの上に落ちる。
水のグラスが目につく。
手が伸びて、水を一口飲んだ。
「……悠真くん?」
「なに」
「聞いてた? みけの——」
「服だろ」
「あ、聞いてた!」
まぁ、一応な。
「ねえ、一口ちょうだい?」
橘がフォークをこっちの皿に向けてきた。
「自分のを食え」
「ケチ! はい、代わりにこれあげる!」
ミートソースが乗ったフォークが目の前に突き出された。
「……いらない」
「おいしいのに! ほら!」
俗に言うあーんだろ、これ。
たまには自覚してくれねぇかな……。
橘はキラキラした目で俺が食べるのを待ってる。
どうせ、引かないだろうな、こいつは。
仕方なく口に入れた。甘めのミートソースだった。
「おいしいでしょ?」
橘が嬉しそうに笑ってる。
俺にはそんな余裕はない。昨日の夜に考えたことが、また頭をちらつく。
水を飲んで、落ち着こう。
「悠真くんさ、今日やたら水飲まない?」
「……喉渇いてんだよ。パスタがちょっとしょっぱいからな」
「えー、しょっぱい? おいしいじゃん」
橘が自分のフォークで俺のカルボナーラの端をつついた。そのまま、自分の口に運ぶ。
「あ、ほんとだ。ちょっとしょっぱいかも」
人の皿に勝手に手を出すな。
ていうか、それさっき俺が口つけたフォークだろ。
指摘したらもっと面倒なことになる。
橘が水を飲んで、「たしかに喉渇く」と頷いた。
……助かった。
◇
店を出た。十一月の風が冷たい。
橘がマフラーに顔を埋めた。
「さむーい」
「だろうな」
「パスタおいしかったね!」
「まあ」
「また来たいな!」
「……勝手にしろ」
「やった! 一緒に来てくれるってことでしょ!」
そんなこと一言も言ってないが。
まぁ誘われたらそのとき考えるか。
駅が見えてきたあたりで、橘がふと声のトーンを落とした。
「ねえ、悠真くん」
「なに」
「今日、ちょっとだけ変だったよ?」
一瞬、足が止まった。
「……何が」
「わかんない。なんとなく」
橘は首をかしげただけで、それ以上は何もなかった。
すぐに、もう別の話をしている。
——変、か。
……そうかもな。
◇
日曜は、結局一日中部屋でぼんやり過ごしてしまった。
そして月曜日。
今日も、何もなかった。——はずだ。
六限のチャイムが鳴って、ノートを閉じた。
カバンに教科書を押し込んでいるところに、廊下から声がした。
「悠真くん!」
顔を上げたら、教室のドアに橘が立っていた。
「帰ろ?」
「おう」
カバンを肩にかけて、廊下に出た。
西階段を降りる。橘が半歩前を歩いている。
制服の背中。髪が弾むように揺れてる。
階段の窓から、曇り空が見えた。
昇降口。
下駄箱の前で上履きを脱いだ。
外靴を取り出して、履こうとしたときだ。
「先輩」
声がした。この前から頭に残る、あの声。
顔を上げた。
柊だった。下駄箱の並びの端に、一人で立っていた。
背筋がまっすぐで、ショートボブが昇降口の薄い光に揺れている。
制服にカーディガン。カバンの持ち手を両手でぎゅっと握りしめていた。
俺を、待っていたのか。
——金曜のゴミ捨て場が、頭の中でフラッシュした。
「……先日は、ありがとうございました」
声は落ち着いていた。
何か言わなきゃいけない。口が開いた。
言葉が出てこない。橘がすぐ横にいるのに、俺は何もできなかった。
「先輩に会えて、よかったです」
小さい声だった。でも、真っ直ぐに届いた。
柊が腰から頭を下げた。
上げた。俺の顔は見なかった。隣にいるはずの橘のことも、一切見なかった。
踵を返して、正門の方に歩いていった。
歩幅は普通だった。背筋はまっすぐだった。
振り返らなかった。
——動けなかった。
靴を片手に持ったまま、あの背中を見てた。
あいつ、金曜に告白して、断られて。それで今日、いつ来るかもわからない俺を待って、あんなまっすぐ立ってた。
会えてよかったって——そう言い切って、振り返らずに歩いていった。
年下だぞ。俺より、よっぽど——。
ふと視線を感じて、横を見た。
橘がいた。
俺を見ていた。
いつもの笑顔はない。何か違う。でも、それが何なのか、俺には分からない。
じっと、目が合ったままだった。
何かが喉につっかえたみたいに、上手く息が吸えなかった。
「……行くか」
なんとかそれだけ絞り出して、俺は靴を履いた。
◇
正門を出て、コートのポケットに手を突っ込んだ。並木道を歩く。銀杏が散っている。風が冷たい。
今日の橘は、やけに近い。
いつもなら半歩前を歩いて、こっちを振り返りながら楽しそうに喋るのに。
今はすぐ横を、ただ黙って歩いている。
たまに肩がぶつかっても、お互いに何も言わない。
一度だけ、橘が何か言いかけて、やめた。
俺は昇降口での橘の顔が頭から離れず、結局何も言えなかった。
空が暗くなり始めている。街灯がぽつぽつ点いていた。
このいつもと違う空気のまま、いつもの別れ道の角に着いた。
橘が足を止め、こっちを向いた。
「じゃあ——」
言いかけた言葉が途切れると同時に、手が、掴まれた。
橘の手が、俺の右手をきつく握っていた。
橘の目が、自分の手を見ていた。
自分が何をしたのか、本人が一番わかっていないような顔だった。
ふっと、指が離れた。
「……なんでもない。じゃあね、悠真くん」
橘が笑った。
無理に作ったような笑顔で、声にいつもの勢いがなかった。
坂の方に、歩いていく。
俺は立ったまま、その背中を見ていた。
手のひらに、橘の指の微かな震えと、熱が残ってる。
◇
部屋のドアを閉めた。
コートも脱がないまま、ベッドの端に座った。
柊の背中が、まだ残ってる。
橘のあの時の顔と、手の熱が、まだ残ってる。
——答え、もうわかってんだろ、俺。
◇
手、掴んじゃった。……なんでだろう。
悠真くんの顔。あの子が歩いていった後の、あの顔。
——見たことない顔だった。