作品タイトル不明
第43話 ひより、「来ないで」が声にならない
声を聞いた。
でも、大丈夫。
東階段で教室に入った。
西階段は使わなかった。
先輩と、すれ違わなかった。
◇
昼休み、委員の仕事で三階に上がった。
担任の先生から二年の学年教員室に届ける封筒を渡された時、他の子に任せることもできた。
でも、私がやると言ってしまった。
廊下の向こうから、複数の足音が聞こえた。
先輩が、いた。
隣に、橘先輩。
後ろに矢野先輩と宮田先輩。
四人が笑いながら廊下を歩いてくる。
どこかに行くところだったのかもしれない。
「おう、柊。委員会か?」
封筒を持つ指に力が入った。紙がへこんだ。
「……はい。連絡事項を、渡しに」
「大変だな」
「……お疲れさまです」
頭を下げた。目線が落ちる。
先輩の上履きが見えた。
先輩の上履きの隣に、橘先輩の上履きがあった。
歩くリズムが、同じだった。
すれ違う。
横を四人が通り過ぎていく。
動いた空気に、知らない柔軟剤の匂いが混じっていた。
早足で学年教員室に入り、先生に封筒を届けた。
大丈夫、普段、通り。
教室に戻って、席に座る。
次の授業の教科書を出し、シャーペンを持った。
芯を二回ノックした。
手が、震えていた。
シャーペンの先が紙の上で小さく揺れている。
芯が折れた。
左手で右手首を強く押さえた。止まらない。
指先が冷たい。
教室は暖房が入っているのに。
息が浅い。
胸の上の方でしか吸えていない。
自分から近づいたわけじゃない。
頼まれごとの途中で会っただけ。
会いたかった、わけじゃない。
午後の授業中、先生の声はずっと遠くで響いていた。
ノートは白紙のままだった。
◇
終わりのホームルームの号令で、ようやく息を吐いた。
鞄のファスナーを閉め、教科書を全部しまった。
「ごめん、今日先に帰るね」
奈々に手を振って、教室を出た。
東階段を降りる。
階段の窓から差す光はもう傾いていた。
一階に降り、昇降口に入る。
下駄箱を開け、上履きを入れる。
ローファーを出して、しゃがみ込んだ。
声が、聞こえた。
後ろ。避けていた西階段の方から。
内容は聞き取れない。遠い。
でも声の高さ、笑い方の癖、喋るリズム——。
間違えようがなかった。
手が止まった。
しゃがんだまま、靴を持ったまま。
笑い声が、少しだけ大きくなった。
肩が回りかけた。首が、声の方に——。
来ないで。
喉の奥で止まった。声にならなかった。
唇が動いたかもわからない。
振り返らない。振り返ってはいけない。
靴を下ろした。
右足の靴を履く。次は左足。
大丈夫。手は動く。手順は正しい。
立ち上がった。出口はすぐそこにある。
足が動かない。
声はまだ聞こえている。背中の向こう。
笑っているかもしれない。
下駄箱の扉が閉まる音がした。
誰かが横を通り過ぎていった。
鞄の持ち手を、指が白くなるまで握り込んだ。
右足に体重をかける。動いた。
外に出た。冷たい空気が顔に当たった。
歩いた。
いつもより速く歩いていたかもしれない。わからない。
「ひより、待って」
奈々が後ろから追いついてきた。少し息が弾んでいる。
「奈々……」
「一緒にかえろ?」
「……うん」
並んで歩いた。奈々がクラスの話をしている。
テスト範囲がまた変わったとか、隣の席の子が消しゴムをなくしたとか。
それに相槌を打つ。
声は普通に出ている。
大丈夫、いつもの声が出ている。
帰り道の並木から葉が落ちていた。
どこかの家から夕飯の匂いがする。
カーディガンの前を片手で合わせた。鼻先が冷たい。
「ひより、最近なんか……大丈夫?」
奈々の声がいつもより小さかった。
顔を奈々の方に向けた。
「大丈夫だよ」
口角を上げた。笑った。いつもの角度。
「……そっか」
奈々はそれ以上聞かなかった。
嘘じゃない。近づいていないから。
奈々が隣にいる。
並んで歩く足音が二つ、重なったりずれたりしている。
別れ道で「じゃあね」と手を振った。
奈々が「じゃあね」と返した。
◇
自分の部屋に戻って、ドアを閉めた。
夕飯の時、お母さんにも心配された。
奈々と、同じように答えた。
机の前に座る。問題集を開いて、シャーペンを持った。
階下でテレビの音がしている。颯太だろう。
指先の震えは、もう止まっていた。
今日は、声を、聞いただけ。
顔は、見ていない。
近づいても、いない。
ルールは、守れた。
これで、大丈夫。明日も、大丈夫。