軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第43話 ひより、「来ないで」が声にならない

声を聞いた。

でも、大丈夫。

東階段で教室に入った。

西階段は使わなかった。

先輩と、すれ違わなかった。

昼休み、委員の仕事で三階に上がった。

担任の先生から二年の学年教員室に届ける封筒を渡された時、他の子に任せることもできた。

でも、私がやると言ってしまった。

廊下の向こうから、複数の足音が聞こえた。

先輩が、いた。

隣に、橘先輩。

後ろに矢野先輩と宮田先輩。

四人が笑いながら廊下を歩いてくる。

どこかに行くところだったのかもしれない。

「おう、柊。委員会か?」

封筒を持つ指に力が入った。紙がへこんだ。

「……はい。連絡事項を、渡しに」

「大変だな」

「……お疲れさまです」

頭を下げた。目線が落ちる。

先輩の上履きが見えた。

先輩の上履きの隣に、橘先輩の上履きがあった。

歩くリズムが、同じだった。

すれ違う。

横を四人が通り過ぎていく。

動いた空気に、知らない柔軟剤の匂いが混じっていた。

早足で学年教員室に入り、先生に封筒を届けた。

大丈夫、普段、通り。

教室に戻って、席に座る。

次の授業の教科書を出し、シャーペンを持った。

芯を二回ノックした。

手が、震えていた。

シャーペンの先が紙の上で小さく揺れている。

芯が折れた。

左手で右手首を強く押さえた。止まらない。

指先が冷たい。

教室は暖房が入っているのに。

息が浅い。

胸の上の方でしか吸えていない。

自分から近づいたわけじゃない。

頼まれごとの途中で会っただけ。

会いたかった、わけじゃない。

午後の授業中、先生の声はずっと遠くで響いていた。

ノートは白紙のままだった。

終わりのホームルームの号令で、ようやく息を吐いた。

鞄のファスナーを閉め、教科書を全部しまった。

「ごめん、今日先に帰るね」

奈々に手を振って、教室を出た。

東階段を降りる。

階段の窓から差す光はもう傾いていた。

一階に降り、昇降口に入る。

下駄箱を開け、上履きを入れる。

ローファーを出して、しゃがみ込んだ。

声が、聞こえた。

後ろ。避けていた西階段の方から。

内容は聞き取れない。遠い。

でも声の高さ、笑い方の癖、喋るリズム——。

間違えようがなかった。

手が止まった。

しゃがんだまま、靴を持ったまま。

笑い声が、少しだけ大きくなった。

肩が回りかけた。首が、声の方に——。

来ないで。

喉の奥で止まった。声にならなかった。

唇が動いたかもわからない。

振り返らない。振り返ってはいけない。

靴を下ろした。

右足の靴を履く。次は左足。

大丈夫。手は動く。手順は正しい。

立ち上がった。出口はすぐそこにある。

足が動かない。

声はまだ聞こえている。背中の向こう。

笑っているかもしれない。

下駄箱の扉が閉まる音がした。

誰かが横を通り過ぎていった。

鞄の持ち手を、指が白くなるまで握り込んだ。

右足に体重をかける。動いた。

外に出た。冷たい空気が顔に当たった。

歩いた。

いつもより速く歩いていたかもしれない。わからない。

「ひより、待って」

奈々が後ろから追いついてきた。少し息が弾んでいる。

「奈々……」

「一緒にかえろ?」

「……うん」

並んで歩いた。奈々がクラスの話をしている。

テスト範囲がまた変わったとか、隣の席の子が消しゴムをなくしたとか。

それに相槌を打つ。

声は普通に出ている。

大丈夫、いつもの声が出ている。

帰り道の並木から葉が落ちていた。

どこかの家から夕飯の匂いがする。

カーディガンの前を片手で合わせた。鼻先が冷たい。

「ひより、最近なんか……大丈夫?」

奈々の声がいつもより小さかった。

顔を奈々の方に向けた。

「大丈夫だよ」

口角を上げた。笑った。いつもの角度。

「……そっか」

奈々はそれ以上聞かなかった。

嘘じゃない。近づいていないから。

奈々が隣にいる。

並んで歩く足音が二つ、重なったりずれたりしている。

別れ道で「じゃあね」と手を振った。

奈々が「じゃあね」と返した。

自分の部屋に戻って、ドアを閉めた。

夕飯の時、お母さんにも心配された。

奈々と、同じように答えた。

机の前に座る。問題集を開いて、シャーペンを持った。

階下でテレビの音がしている。颯太だろう。

指先の震えは、もう止まっていた。

今日は、声を、聞いただけ。

顔は、見ていない。

近づいても、いない。

ルールは、守れた。

これで、大丈夫。明日も、大丈夫。