作品タイトル不明
第42話 モブ、「……なにそれ」の声がやけに小さくて帰り道ずっと考える
廊下の窓から風が入ってきた。
先週より冷たい。カーディガンの前を合わせて、弁当袋を持ち直した。
「寒い寒い寒い!」
橘が両腕を抱えて小走りに寄ってきた。D組から来たばかりなのに、もう震えている。
「寒いなら屋上やめればいいだろ」
「やだ! 屋上がいいの!」
「なんでそんなこだわるんだよ」
「だって屋上の方が空いてるし、風が気持ちいいし——」
「今さむいって言っただろ」
「さむいのと気持ちいいのは両立するの!」
しないだろ。
矢野がのそっと俺の横についた。
「食堂でよくね」
「食堂は混むもん!」
「混んでるけどあったかいだろ」
「あったかいのより空いてる方がいい!」
宮田が橘の後ろを歩きながらぼそっと言った。
「あんたが一番寒がりなのに」
「寒がりじゃないし! ちょっと体感温度が低いだけ!」
「同じだろ」
橘がむっとした顔でこっちを振り向いた。
「悠真くんは屋上がいいよね?」
「どっちでもいい」
「それ『屋上でいい』ってことでしょ! 決まり!」
矢野が俺の方をちらっと見た。
何も言わなかった。まあ、いつものことだ。
そのまま屋上へ向かって歩き出す。
B組の前を過ぎたあたりで、向こうから人が歩いてくるのが見えた。
小柄で、背筋がいい。ショートボブ。封筒を胸の前で持っている。
柊だ。
「おう、柊。委員会か?」
柊が足を止めた。
「……はい。連絡事項を、渡しに」
「大変だな」
「……お疲れさまです」
柊が小さく頭を下げた。一瞬、何か言いかけた気がしたが、そのまま廊下の向こうに歩いていった。
封筒を両手で抱えている背中が、すぐに角を曲がった。
相変わらずまじめなやつだな。
「行くか、屋上」
前を向いて歩き出した。矢野が横にいる。後ろから橘と宮田がついてくる。
裏階段を上がって、屋上のドアを押した。
◇
風が冷たい。
いつもの場所、フェンス沿いに座った。日なたに入ると少しましだ。
矢野はもうポテチの袋を開けている。
「はい、おにぎり!」
橘がラップに包んだおにぎりを二つ出して、一つを差し出してきた。
「今日は鮭!」
「おう、さんきゅ」
受け取ってラップを剥がした。
代わりにタッパーを差し出す。
「ほら」
「わ、何これ! ……肉じゃが!?」
「肉じゃがじゃねえ。筑前煮の残り」
「おいしそう! やったー!」
橘が蓋を開けて顔を近づけた。
宮田が自然な動作で矢野のポテチに手を伸ばす。
矢野がため息をついて、袋を二人の間に置いた。
いつもの光景だ。
おにぎりをかじった。鮭、うまい。
橘がタッパーから筑前煮をつまんで口に入れた。
「おいしい! れんこん好き!」
それ前も言ってたぞ。
「あ、こんにゃくも入ってる!」
「入ってるだろ普通に」
「普通に嬉しいの!」
橘が筑前煮をもう一切れ食べて、自分のおにぎりのラップを剥がした。
矢野が聞いた。
「持久走いつだっけ」
「来週の木曜」
「だるい」
「だよね!」
橘が勢いよく頷いた。
「ほんとやだよね持久走! ね、悠真くん」
「おう」
「一緒に走ってくれるよね?」
「走らない」
「えー!」
「ペースが違うっつってるだろ」
「じゃあ私のペースに合わせてよ!」
「毎回同じこと言うな」
宮田がポテチをぱりっとかじって言った。
「水野は折れるでしょ、どうせ」
「折れない」
「折れるね」
矢野がぼそっと断定した。
「お前らもう黙れ」
橘がにかっと笑った。
「やった! 怒ってないってことは認めたってこと!」
「どういう理屈だよ」
——風が吹き抜けた。屋上の端から端を通り過ぎていく、十一月の風だ。
矢野がポテチの袋を押さえた。
おにぎりの残りを口に放り込んだ。
ふと横を見ると、橘が自分のおにぎりを持ったまま、前を見ていた。
ラップを半分剥がした状態で、数口かじった跡がある。
口に運ぶ途中で手が止まっているみたいだった。
「橘」
「あ、うん。何?」
橘がこっちを向いた。
「……いや、タッパー食い終わったか?」
「あ、まだ! おいしいからゆっくり食べてるの!」
橘がタッパーに箸を伸ばした。
筑前煮を一切れつまんで口に入れる。
「おいしい!」
おいしいのは聞いた。
矢野がスマホの画面を見ている。
宮田はポテチを食べ終わって、手をハンカチで拭いていた。
橘がおにぎりをかじった。
もう一口——行くかと思ったら、手が止まった。
おにぎりを持ったまま、フェンスの向こうの空を見ている。
風の音だけが通り過ぎていく。
矢野がポテチの袋をくしゃっと丸めた。
宮田が矢野に何か言った。「昨日の何々見た?」みたいなやつだ。矢野が「ああ」と返す。
橘はまだ空を見ている。
……なんか、変だな。
予鈴のチャイムが鳴った。
矢野が立ち上がった。
「行くか」
「おう」
矢野はもう先に階段の方へ向かっている。
宮田が荷物をまとめて立った。
橘の方を一瞬見て——何も言わずに、その背中を追って歩き出した。
橘がハッとしたように、タッパーの蓋を閉めた。
無言で差し出されたそれを受け取る。
食べかけのおにぎりにラップを被せ直していたが、袋にしまう手がいつもより遅い。
俺は急いでいなかったから、橘が立つのを待ってた。
……待ってた、のか?
いや、急ぐ理由がなかっただけだ。
橘が立ち上がった。カバンを肩にかけて、歩き出す。
その後ろ姿を黙って追いかけ、裏階段を降りた。
廊下に戻ると暖かい。白い光が、やけにまぶしく感じた。
矢野はもうB組に戻ったみたいだ。宮田がD組の方に歩いていく背中が見えた。
橘が、D組の方に足を向けた。
「……おい」
橘が振り返った。
「何?」
——何だよ。
何が言いたいんだ、俺は。
「……いや、別に」
口が開いたのに、続きが出てこなかった。
橘がこっちを見ている。
「……なにそれ」
声が、いつもより小さく聞こえた。
橘がD組の方に歩いていった。
少しだけ、その背中を見て、俺もB組に戻った。
◇
矢野と正門を出た。
ガチャの新しいのがどうとか、塗料のいいのが入ったとか、矢野が喋っていた。
コンビニで矢野がポテチの新味を手に取った。
昼も食ってただろと突っ込むと、「味が違う」と返された。
レジに並ぶ矢野を横目に、俺は何も買わなかった。
道中、何を話したかあまり覚えていない。
気づけば駅前の交差点で、「じゃ」と矢野が手を上げていた。
あいつは右に曲がって行った。
一人で歩いた。
街灯がぽつぽつ点き始めている。どこかの家から夕飯の匂いがした。
橘、今日なんか違った。途中からぼーっとしてたし、おにぎり全部食ってなかった。
あの、『なにそれ』が、まだ耳に残ってる。
……俺のせいか?
なんか、したか?
いつもと違うことを、した覚えはない、はずだ。
ポケットに手を突っ込んだまま、歩いた。
吐いた息が白くなるかならないかの境目だった。
……わかんねえ。
◇
悠真くんはいつも通りだった。「橘」って呼んでくれて、こっち向いてくれた。
いつもなら、それで大丈夫なのに。
——あの子の顔が、頭から離れない。なんで。