作品タイトル不明
第41話 ひより、「普通の人だよ」と笑って胸が痛くなる
目覚ましが鳴る前に目が覚めた。
六時。いつも通り。
顔を洗って、制服に着替えた。先月からカーディガンを一枚足している。
弟の部屋のドアを叩いた。
「颯太、起きて」
「……んー」
「遅刻するよ」
返事がない。
ため息をついて、ドアを開ける。
颯太のベッドの布団を引っ張った。
「……起きるって」
ぼそぼそ言いながら布団から足を出した。
前より起きるのが早くなったかな。
キッチンに降りると、こはるが髪ゴムを持って待っていた。
「お姉ちゃん、結んで」
「いいよ。座って」
椅子に座らせて、後ろに立つ。こはるの髪を左右に分けて、三つ編みにしていく。
左側がやっぱり緩くなる。何回か巻き直した。
「ちょっと引っ張るよ」
「うん」
結び終わった。こはるが両手で触って確かめている。
「ありがとう、お姉ちゃん!」
「どういたしまして」
「あ、水筒はもう入れたよ」
「えらい」
お母さんがやかんを火にかけていた。
「ひより、お茶できたよ」
「うん」
やかんからお茶を注いだ。湯気が手に当たる。
お弁当は鶏の照り焼きとほうれん草のおひたし。
袋に入れて、カバンにしまった。
食卓について、ご飯を食べた。お味噌汁が温かい。
こはるがお母さんと何か話している。
颯太がのそのそ降りてきた。
目が半分閉じたまま、椅子に座る。
「おはよ」
「……はよ」
箸の動きが遅い。相変わらず寝起きが悪い。
「颯太、今日プリント——」
「入れた。昨日のうちに入れた」
「ほんとに?」
「ほんとだって。姉ちゃんうるさ」
お母さんが笑った。
「ひより、いつもありがとね」
「別に、いつものことだし」
食べ終わって、お皿を洗った。
洗面台で歯を磨いた。鏡で前髪を直す。少し跳ねていたのを押さえた。
カーディガンのボタンが曲がっていないか確かめる。
リビングに戻り、カバンを持って靴を履く。
玄関の鏡で全体をもう一回チェックする。
よし。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい、気をつけてね」
ドアを閉めた。外の空気が冷たい。
吐く息はまだ白くならないけれど、指先がかじかむ。
◇
正門をくぐって、昇降口で上履きに替えた。
西階段を上がる。こっちの方が空いている。朝の東階段は混むから。
——ほんとにそれだけ?
それだけ。
踊り場の窓から、銀杏が見えた。先月よりだいぶ黄色い。
先週、三階に書類を届けた帰りに先輩がいた。
お礼を言っただけ。文化祭の時の。ずっと言えていなかったから。
——普通じゃないです、は余計だったかな。
お礼だけでよかったのに。
あの後、背中の方で橘先輩の声がしたけど、振り返らなかった。
振り返りたくなかった、のかもしれない。
……違う。そうする理由がなかっただけ。
そんなとりとめのないことを考えてたら教室についた。
カバンを机に置いて、いつも通り、朝の支度をする。
◇
チャイムが鳴った。机の中から封筒を出す。
担任の先生から預かった書類を職員室に届けないと。
「あれ、どこか行くの?」
奈々が不思議そうな顔でこちらを見る。
「うん、先生から頼まれちゃって。ちょっと職員室行ってくるね」
「いってらっしゃーい」
奈々に手を振られて教室を出た。
階段を降りようとしたとき、上から足音が聞こえた。
「おう、また会ったな」
先輩だった。
心臓が跳ねた。一瞬だけ。
「あ、先輩。お疲れさまです。ちょっと職員室に届け物で」
先輩が封筒をちらっと見た。
「まぁ、ほどほどにな。あんま無理すんなよ」
先輩はそのまま下に降りていった。上履きが階段を鳴らす音が遠ざかる。
私も階段を降りた。
なぜか足が軽い。さっきよりずっと。
——きっと気のせいだ。
一階の職員室で封筒を渡して、廊下に出た。
その途中で、掲示板が目に入った。
あの日、私はここにいて、頼まれた掲示物を貼ってた。
先輩が自販機の方に歩いていったのが見えたのを思い出す。
声をかけたかった。
——でも、かける理由がなかった。
階段を上がって、教室に戻った。
◇
四時間目のチャイムが鳴った。
飲み物を買いに自販機に行く。
ボタンの前で、指が止まった。麦茶。先輩がいつも持っていたやつ。
装飾班の時、いつも横に置いてた。
なんで覚えてるんだろう。
少し考えて、結局、ほうじ茶を買った。
教室に戻って、奈々とお弁当を広げる。
「テスト範囲、数学どこまでだっけ」
「二次関数のところまで」
「えー、やだなー。ひよりは余裕でしょ?」
「余裕じゃないよ。やることやってるだけ」
「それを余裕って言うんだよ」
奈々が卵焼きをつまみながら笑った。
「ひよりっていつもおかずから食べるよね」
「そう?」
「うん。おかず、ご飯、おかず、ご飯って順番に。きっちりしてるなあ」
「普通でしょ」
「私ぜんぶばらばらだよ。あ、ねえねえ——」
奈々と一緒にお弁当を食べる。
いつもの昼休みだった。
◇
六時間目のチャイムが鳴った。
帰り支度をする。
教科書をカバンに入れて、筆箱をしまって、机の中を確認した。
この後は何もない。いつも通りの放課後。
装飾班があった頃は、奈々に『行ってくるね』と声をかけて三階に行っていた。ガーランドを作って、画鋲を刺して、先輩がすぐ近くにいて。
もう全部終わったことだ。
奈々が日直の日誌を書いている。
「先に降りてるね」
「うん、すぐ行く」
東階段を降りて、昇降口に出た。
靴を替えて、出口の近くの壁際に寄った。奈々を待つ。
帰宅ラッシュで人が多い。みんな正門に向かっていく。
西階段の方から、声がした。
顔が上がった。勝手に。
先輩と橘先輩が出てきた。橘先輩が何か話している。
先輩が、そっちを向いた。
先輩の顔が柔らかかった。
装飾班の時は、あんな顔をしなかった。面倒くさそうで、でも手は止まらなくて、ぼそっと「おう」って言うだけで。
でも橘先輩の隣では違う。あの夜と、同じだ。
胸が、痛い。
知ってる。この痛み。
二人が目の前を通り過ぎていった。橘先輩の髪が揺れている。
壁際にいる私には気づかない。
カバンの紐を握ったまま、動けなかった。背中が壁に張りついている。
「お待たせ」
奈々の声がした。
「——どうしたの?」
「……ううん。何でもない」
何でもない。何でもないはずだ。
壁から離れた。正門を出た。
奈々と並んで歩く。日が短い。
もう薄暗くて、街灯がぽつぽつ点き始めていた。
「寒くなったよね。もうカーディガンないと無理じゃない?」
「うん。朝とか冷えるよね」
「ひよりは冬でもマフラーとかしなさそう」
「するよ、寒かったら」
「えー、意外」
奈々がちょっと笑った。
「てかテスト、ほんとやだ。古典がわかんない」
「助動詞?」
「全部わかんない」
「全部は嘘でしょ」
「ほぼ全部」
「放課後、一緒にやる?」
「いいの? ひよりに教えてもらえるなら百人力だわ」
「大げさだよ」
話が途切れた。足音だけが並んでいる。
落ち葉を踏む音。どこかの家の夕飯の匂い。
「そういえばさ」
奈々がぽつりと言った。
「橘先輩の彼氏って、どんな人だった?」
足が、止まりそうになった。
前を向いたまま。奈々の方を見られない。
「……普通の人だよ」
がんばって口角を上げた。いつもの顔を作った。
嘘なのはわかってた。
普通の人じゃない。普通の人なら足が軽くならない。
自販機の前で指が止まらない。
胸が、痛くならない。
「そっか」
奈々はそれだけ言って、テストの話に戻った。
普通の人だよ、と自分の声が耳の中で繰り返している。
奈々の話に頷いていたけど、何の話だったか、よく聞こえていなかった。
◇
帰って、ご飯を食べて、お風呂に入った。
自分の部屋に戻って、ドアを閉めた。
机の前に座る。教科書を出して、シャーペンを持った。
わかるはずなのに、手が動かない。
奈々に嘘をついた。友達に。笑って。
「普通の人だよ」って。
もう近づかない。
明日からは、近づかない。
そうしないと、また嘘をつくことになる。奈々に。自分に。
窓の外は真っ暗で、何も見えない。階下から颯太がテレビを見ている音がかすかに聞こえる。
シャーペンを持ち直した。ノートに向き直った。
もう近づかない。そう決めた。