作品タイトル不明
第36話 モブ、「楽しかった?」と聞かれて「普通」としか言えない
昨日の橘の声が、まだ頭のどこかに残っている気がする。
ジャージに着替えて家を出た。文化祭の翌日。
片付けの特別登校日だ。
十月の朝は少し冷える。空だけはやたら青い。
いつもの空き教室に着くと、長谷川がすでにスマホを見ながら立っていた。
「おう水野、おはよう。柊と沖ももう来てるぞ」
柊が道具箱の横に立っていた。ジャージ姿で、いつも通り背筋がいい。
沖もうなずいている。
「んじゃ片付けようか。水野と柊は三階、俺と沖は門からやるから」
「了解」
「はい」
柊が静かにうなずいた。
◇
三階の廊下に出た。
先週張ったガーランドが、まだそのまま残っている。
これ全部外すのか。
ため息が出た。
脚立を壁際に立てて、端から外していく。
「柊、下で受け取ってくれ」
「はい」
脚立に登って、画鋲を抜く。
ガーランドの端を外して、下に渡す。
柊の手が受け取った。
……あれ?
少し距離がある気がする。
いや、気のせいか?
「……すみません」
何がだよ。
疲れてんのか? 昨日忙しかったしな。
次のガーランドに手を伸ばした。
画鋲を抜いて、紙花の連なりを下ろす。
作業は淡々と進んだ。
三階の半分くらいまで来たとき、廊下の向こうから声がした。
「がんばってー!」
橘だ。
宮田と並んで歩きながら、手を振ってる。
「おう」
右手を軽く上げた。
橘はにこっと笑って、そのまま階段の方に消えていった。
あいつはいつも通りだな……。
脚立の上からぼんやりそっちを見ていたら、下で柊が、外したガーランドをまとめて待っていた。
「先輩、次お願いします」
「おう、悪い」
作業を続けた。
三階の端まで全部外し終わったのは、昼前だった。
外したガーランドと飾りを段ボール箱に詰めて、道具箱と脚立を用具室に戻す。
長谷川からグループLINEが来た。
『撤去完了! 解散! お疲れ!』
柊がスマホをしまって、こちらを向いた。
「お疲れさまでした」
柊は小さく頭を下げた。
それだけ言って、廊下の向こうに歩いていった。
……いつもなら、もう一言くらいあった気がする。明日の作業のこととか。
いや、装飾班はもう解散だ。明日の作業なんてない。
聞くことがないから聞かなかっただけだろう。
まあいいか。
昇降口に向かった。
◇
靴を履き替えて外に出ようとしたら、昇降口のベンチに橘が座っていた。
スマホを見ている。
「おつかれー!」
橘がぱっと立ち上がった。
ジャージにパーカーを羽織っている。
ちょっとだけいつもと雰囲気が違う。
「待ってたのか?」
「D組の片付け終わったから! ちょうどよかった」
「一人で帰れよ」
「えー、せっかくなのに」
せっかくって何だよ。
正門を出た。並んで歩く。
並木道の銀杏がちょっとだけ色づいている。
いつもの放課後と違って、やたら明るい。
「ねえねえ、射的のぬいぐるみ覚えてる?」
「あの猫か」
「めっちゃかわいいの。昨日枕元に置いて寝た」
「……好きにしろよ」
「名前つけようかなって思って」
「モモの次かよ」
「覚えてるんだ!」
「忘れるわけないだろ。挨拶させられたんだぞ」
「えへへ。じゃあ今度また挨拶してよ?」
「しねえよ」
「えー! モモにはしてくれたのに!」
「あれは不意打ちだったんだよ」
「じゃあ不意打ちならいいんだ?」
「よくない」
「つまんない」
橘が頬を膨らませた。が、すぐ元に戻った。
「あ、フォークダンスの話!」
「急に変えるな」
「悠真くん、意外と踊れるんだね」
「意外とって何だよ」
「だって、ぜったい棒立ちだと思ってたもん」
「棒立ちだったろ最初」
「でも途中からちゃんと動いてたじゃん! びっくりした」
動いてたっていうか、橘に合わせてただけだ。
「あ、そういえば悠真くん今日頑張ってたね! さっき声かけたとき、脚立に登ってたじゃん」
「ああ、ガーランド全部外すの大変だった……」
「きれいだったのになあ。廊下」
「元に戻しただけだろ」
「そうだけどさ」
橘が少しだけ声を落とした。
「なんか、ちょっと寂しくない?」
「そうか?」
「文化祭、終わっちゃったんだなって」
昨日もこんなこと言ってたな。……よっぽど楽しかったんだな、こいつ。
「……まぁ、終わったもんはしょうがないだろ」
「そうだけどー」
橘がポケットに手を突っ込んだ。
パーカーの裾がふわっと揺れる。
「悠真くんってさ」
「何?」
「楽しかった、とか、ないの?」
「……別に、普通だろ」
「ふーん。普通、かぁ」
橘が前を向いたまま、ぽつりと言った。
しばらく会話もなく歩いた。
足音だけが並木道に響いている。
「私は楽しかったよ。すっごく」
何か返さなきゃいけないのに、何も出てこない。
足だけが勝手に動いている。
いつもの角に着いた。
「じゃあね、悠真くん」
橘は少しだけ笑っている。
「……ああ」
橘が坂の方に歩いていく。
パーカーの背中が遠ざかっていく。
俺は反対側に歩き出した。
さっきの声が、消えない。
「……普通、じゃねえよ」
◇
坂を上ってる。風がちょっと冷たい。
変なこと聞いちゃったかな。悠真くん、あのあと黙っちゃったし。
でも、あの「普通」、いつものと、ちょっとだけ声が違った気がする。
——明日も一緒に帰れるかな。