軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第36話 モブ、「楽しかった?」と聞かれて「普通」としか言えない

昨日の橘の声が、まだ頭のどこかに残っている気がする。

ジャージに着替えて家を出た。文化祭の翌日。

片付けの特別登校日だ。

十月の朝は少し冷える。空だけはやたら青い。

いつもの空き教室に着くと、長谷川がすでにスマホを見ながら立っていた。

「おう水野、おはよう。柊と沖ももう来てるぞ」

柊が道具箱の横に立っていた。ジャージ姿で、いつも通り背筋がいい。

沖もうなずいている。

「んじゃ片付けようか。水野と柊は三階、俺と沖は門からやるから」

「了解」

「はい」

柊が静かにうなずいた。

三階の廊下に出た。

先週張ったガーランドが、まだそのまま残っている。

これ全部外すのか。

ため息が出た。

脚立を壁際に立てて、端から外していく。

「柊、下で受け取ってくれ」

「はい」

脚立に登って、画鋲を抜く。

ガーランドの端を外して、下に渡す。

柊の手が受け取った。

……あれ?

少し距離がある気がする。

いや、気のせいか?

「……すみません」

何がだよ。

疲れてんのか? 昨日忙しかったしな。

次のガーランドに手を伸ばした。

画鋲を抜いて、紙花の連なりを下ろす。

作業は淡々と進んだ。

三階の半分くらいまで来たとき、廊下の向こうから声がした。

「がんばってー!」

橘だ。

宮田と並んで歩きながら、手を振ってる。

「おう」

右手を軽く上げた。

橘はにこっと笑って、そのまま階段の方に消えていった。

あいつはいつも通りだな……。

脚立の上からぼんやりそっちを見ていたら、下で柊が、外したガーランドをまとめて待っていた。

「先輩、次お願いします」

「おう、悪い」

作業を続けた。

三階の端まで全部外し終わったのは、昼前だった。

外したガーランドと飾りを段ボール箱に詰めて、道具箱と脚立を用具室に戻す。

長谷川からグループLINEが来た。

『撤去完了! 解散! お疲れ!』

柊がスマホをしまって、こちらを向いた。

「お疲れさまでした」

柊は小さく頭を下げた。

それだけ言って、廊下の向こうに歩いていった。

……いつもなら、もう一言くらいあった気がする。明日の作業のこととか。

いや、装飾班はもう解散だ。明日の作業なんてない。

聞くことがないから聞かなかっただけだろう。

まあいいか。

昇降口に向かった。

靴を履き替えて外に出ようとしたら、昇降口のベンチに橘が座っていた。

スマホを見ている。

「おつかれー!」

橘がぱっと立ち上がった。

ジャージにパーカーを羽織っている。

ちょっとだけいつもと雰囲気が違う。

「待ってたのか?」

「D組の片付け終わったから! ちょうどよかった」

「一人で帰れよ」

「えー、せっかくなのに」

せっかくって何だよ。

正門を出た。並んで歩く。

並木道の銀杏がちょっとだけ色づいている。

いつもの放課後と違って、やたら明るい。

「ねえねえ、射的のぬいぐるみ覚えてる?」

「あの猫か」

「めっちゃかわいいの。昨日枕元に置いて寝た」

「……好きにしろよ」

「名前つけようかなって思って」

「モモの次かよ」

「覚えてるんだ!」

「忘れるわけないだろ。挨拶させられたんだぞ」

「えへへ。じゃあ今度また挨拶してよ?」

「しねえよ」

「えー! モモにはしてくれたのに!」

「あれは不意打ちだったんだよ」

「じゃあ不意打ちならいいんだ?」

「よくない」

「つまんない」

橘が頬を膨らませた。が、すぐ元に戻った。

「あ、フォークダンスの話!」

「急に変えるな」

「悠真くん、意外と踊れるんだね」

「意外とって何だよ」

「だって、ぜったい棒立ちだと思ってたもん」

「棒立ちだったろ最初」

「でも途中からちゃんと動いてたじゃん! びっくりした」

動いてたっていうか、橘に合わせてただけだ。

「あ、そういえば悠真くん今日頑張ってたね! さっき声かけたとき、脚立に登ってたじゃん」

「ああ、ガーランド全部外すの大変だった……」

「きれいだったのになあ。廊下」

「元に戻しただけだろ」

「そうだけどさ」

橘が少しだけ声を落とした。

「なんか、ちょっと寂しくない?」

「そうか?」

「文化祭、終わっちゃったんだなって」

昨日もこんなこと言ってたな。……よっぽど楽しかったんだな、こいつ。

「……まぁ、終わったもんはしょうがないだろ」

「そうだけどー」

橘がポケットに手を突っ込んだ。

パーカーの裾がふわっと揺れる。

「悠真くんってさ」

「何?」

「楽しかった、とか、ないの?」

「……別に、普通だろ」

「ふーん。普通、かぁ」

橘が前を向いたまま、ぽつりと言った。

しばらく会話もなく歩いた。

足音だけが並木道に響いている。

「私は楽しかったよ。すっごく」

何か返さなきゃいけないのに、何も出てこない。

足だけが勝手に動いている。

いつもの角に着いた。

「じゃあね、悠真くん」

橘は少しだけ笑っている。

「……ああ」

橘が坂の方に歩いていく。

パーカーの背中が遠ざかっていく。

俺は反対側に歩き出した。

さっきの声が、消えない。

「……普通、じゃねえよ」

坂を上ってる。風がちょっと冷たい。

変なこと聞いちゃったかな。悠真くん、あのあと黙っちゃったし。

でも、あの「普通」、いつものと、ちょっとだけ声が違った気がする。

——明日も一緒に帰れるかな。