作品タイトル不明
第35話 モブ、フォークダンスで学園アイドルの手を握り返してしまう
振り回される暇もなかった。
文化祭二日目。一般公開日の二日目。
朝から装飾班の巡回に出て、一階のゲートの飾りが風で外れていたのを直して、二階のガーランドを一本張り直して、三階の壁飾りのテープを補修して——気がついたら昼を過ぎていた。
D組の前を通るたびに、行列が伸びているのだけは見えた。
昨日より明らかに長い。最後尾が隣のクラスどころか、その先まで来ている。
メイド喫茶、どんだけ人気なんだよ。
ポケットのスマホが何回か震えたが、返す余裕がなかった。
昼過ぎにようやく見たら、橘からのLINEが溜まっていた。
『今日もおにぎり持ってきたよ!!』
『悠真くん忙しいの??』
『お昼どこにいるー??』
『もしかして食べてない??』
『ちゃんと食べなきゃダメだよ!!』
……お前は俺の母親か。
『さっき購買で食った 悪い』
返した直後に既読がついた。
『もー!! おにぎり余っちゃったじゃん!!』
知らんがな。
ふと顔を上げたら、閉会放送が流れていた。
『本日の文化祭プログラムは全て終了しました。各クラスは片付けを開始してください。後夜祭は十六時よりグラウンドにて行います』
……あっという間だった。
二日間がまるごと早送りされたような気分だ。
長谷川からグループLINEが来た。
『装飾班は明日朝に撤去作業あるから今日はもう上がりで! お疲れ! 後夜祭楽しんでこい!』
柊と沖から『お疲れさまでした』のスタンプが続く。
俺もスタンプを返して、スマホをしまった。
……後夜祭か。
昨日見たポスターが頭をよぎった。
フォークダンス。キャンプファイヤー。
あの時の橘の、勝ち誇った顔。
……勝てねえんだよな、あいつには。
◇
グラウンドに出ると、空気が変わっていた。
中央にキャンプファイヤーの櫓が組まれている。まだ火はついていない。周りにはパイプ椅子が並べられて、準備をしている最中だった。
軽音部がギターを弾いている。
クラスTシャツのままのやつ、コスプレの名残が残ってるやつ、制服に戻ったやつ。
バラバラな格好でみんな、ぞろぞろとグラウンドに集まってきている。
「おう、悠真」
矢野だった。制服に戻っている。
エプロンを取ったら普段の矢野だ。
「焼きそば、売り切れたか?」
「余裕で。二日目は午前で終わった」
「すごいな」
「たぶん今年うちのクラスが一番売れてる。打ち上げのカラオケ代出るかもしれん」
矢野がグラウンドの中央を見た。
「お前、フォークダンス出るんだろ」
「……出るとは言ってない」
「橘がLINEで自慢してたぞ。宮田経由で回ってきた」
あいつ……!
ステージでは軽音部がまだ演奏している。
目の前で音が鳴っているのに、何も頭に入ってこない。
いつの間にかステージが終わっていて、マイクを持った実行委員が出てきた。
「それでは最後のプログラム、フォークダンスです! 踊りたいペアはグラウンド中央へどうぞ!」
キャンプファイヤーに火がついた。
オレンジの光がグラウンドに広がる。ざわめきが少し静まった。
矢野がぼそっと言った。
「知ってるか?」
「何を」
「最後に一緒に踊った相手と結ばれるってやつ」
は??
なんだそれ。知らんぞ。
知ってたらあんな軽く流してないんだが……。
まさか、橘は知ってたのか?
いきなりぶっこまれた俺は、ぐるぐる色々な考えが回る。
元凶の矢野はこっちを見ていない。
火の方を向いたまま、ポケットに手を突っ込んでいる。
……。
いつも思うあの口実が、とっさに出てこなかった。
なぜか、浮かびすら、しなかった。
矢野はそれ以上何も言わなかった。
「悠真くん!」
聞き慣れた声がした。
振り向いたら、制服姿の橘が駆けてきた。
息を弾ませている。
「行くよ!」
「いや——」
腕を引かれた。
「ちょ、橘——」
「ほら早く! もう始まってるじゃん!」
周囲のざわめきが聞こえた。
「あれ橘さんじゃん」
「えっ、誰あの人。彼氏?」
「水野くんだよ、二年の」
「マジで?」
マジじゃないんだけど——いや、マジなのか?
知らん。今はそれどころじゃない。
キャンプファイヤーの前に引きずり出された。
何組かのペアがすでに踊っている。曲が流れている。たぶんワルツだ。
いや違う、もっと簡単なやつだ。フォークダンスだから。
「俺、踊り方わかんねえぞ」
「大丈夫! 手つないで回るだけだよ!」
大丈夫じゃない。全然大丈夫じゃない。
橘が俺の手を取った。
右手に橘の左手。
火の光が揺れている。
……こいつ、手ちっちゃいな。
音楽に合わせて、なんとなく足を動かした。
ぎこちない。俺だけがぎこちない。
橘は楽しそうにステップを踏んでいる。
「ほら、悠真くん、もっとこっち!」
「近い」
「フォークダンスなんだから近いの当たり前でしょ!」
こいつに理屈で勝てたことが一度もない。
ぐるぐる回っている。火の粉が空に飛んでいくのが見える。
周りにも何組か踊っているペアがいる。
みんな笑っている。
橘が笑っていた。
キャンプファイヤーの光が、こいつの顔を照らしている。
目が、離れなかった。
昨日のメイド服とは違う。ただの制服だ。
なのに、なんだこれ。
火の光が、橘の目の中で揺れていた。
こいつ、ほんとに楽しそうだ。
ジンクスが一瞬、頭の端をかすめた。
——かすめただけだ。
何も浮かばなかった。
ただ、橘の手を握っている。
何となく……握り返してた。
曲が変わった。
ゆっくりした曲になった。
橘のステップがゆるやかになる。
俺も、なんとなくそれに合わせた。
ぎこちなさが、少しだけ減っている。
曲が終わった。
拍手が聞こえた。周りから。
キャンプファイヤーの薪がぱちぱちと弾ける音だけが残る。
橘の手が、ふわっと離れた。
橘の声が、いつもより静かだった。
「……ねえ、悠真くん」
「何?」
「こんなに楽しくて、思い出に残る文化祭、初めてかも」
橘が、まっすぐこっちを見ていた。
返す言葉を探した。
何か気の利いたことを言いたかった。
いや、それ以前に、何でもいいから何か返したかった。
「……俺も、まぁ、悪くなかった」
それしか出なかった。
橘がぱっと笑った。
「やった! 悠真くんが『悪くなかった』って言ったら最高ってことだもんね!」
……なんでこいつ、俺の言いたいことが全部わかってんだよ。
ふと、視線がグラウンドの端に向いた。
キャンプファイヤーの光が届くか届かないかの場所に、実行委員の腕章をつけた小柄な姿が見えた。
……柊?
一瞬、目が合ったような気がした。
が、すぐにその姿は向きを変えて、暗がりの方へ歩いていった。
「悠真くん、帰ろ!」
橘の声で引き戻された。
「……ああ」
◇
校門を出た。
もう暗い。街灯がぽつぽつと並木道を照らしている。
橘と並んで歩いている。
さっきまで握っていた手は、もう離している。
なのに、指の感触が、まだ手のひらに残っている。
橘が何か喋っている。メイド喫茶の話、焼きそばの話、射的の話。全部混ざっている。いつもの橘だ。
「——ちょっと寂しいな」
「え?」
「文化祭、終わっちゃったなって」
橘が少しだけ声を落とした。
……こいつのこういう声に、まだ慣れない。
「また来年もあるだろ」
「そうだけどさ」
橘が、隣で笑った。
「来年も、一緒に回ってくれる?」
「……勝手にしろ」
「やった!」
橘がぱっと元気に戻った。
いつもの角で別れた。
橘が手を振って、坂の方に歩いていく。
俺は反対側に歩き出した。
さっきの橘の声が、頭から消えない。
昨日までなら、何か言い聞かせていたはずなのに。
今日は、それすらなかった。
◇
枕元に、耳の大きさが左右で違う猫のぬいぐるみを置いた。
メイド喫茶も、焼きそばも、射的も、お化け屋敷も。二日間、全部楽しかった。
——でも、一番覚えてるのは、手。
いつもは私が引っ張るだけなのに、今日は悠真くんも、ちゃんと握り返してくれてた。
文化祭、終わっちゃったな……。
◇
グラウンドの端で、私はゴミ袋を片手に立っていた。
キャンプファイヤーの火の向こうに、何組かが踊っている。
先輩がいた。隣は橘先輩。
他の人たちと同じように踊っているだけなのに、あの二人の周りだけ、少し空気が違って見えた。
先輩が笑っていた。装飾班では見たことのない顔だった。
橘先輩が何か言って、先輩がまた笑った。
声は、聞こえない。
胸が、痛い。
——わかっていた。ずっと。
足元のゴミ袋を持ち直した。
好きにならない。
彼女がいる人を、私は好きにならない。