軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第33話 モブ、メイド服の学園アイドルの「来てくれて、ありがとね」で心臓が持たなくなる

「午前は巡回だ。水野と柊は各階を回って、気になるところがあればその場で直してくれ」

文化祭の朝、装飾班の集まりで長谷川にそう言われた。

巡回用のチェックリストを受け取って、柊と二人で一階から順に上がっていく。

各階のガーランドや飾りを端から確認して、テープが浮いているところを貼り直す。

校内はもう人だらけだった。

廊下にコスプレしたやつが立ってたり、教室の前に手書きの看板が出てたりする。

保護者らしき大人もちらほらいる。

二階を回っている途中で、すれ違った女子二人の声が耳に入った。

「ねえ、D組のメイド喫茶行った?」

「まだ。けど、めっちゃ並んでるって聞いたよ」

「でも行くでしょ! 橘さんのメイド服、やばいらしいよ」

……やばいってなんだよ。

いやいや、それより仕事だ、仕事。

三階に上がった。

D組の前を通りかかると、教室の入口から廊下に沿って列ができていた。

十人以上は並んでいる。

「……すごい行列ですね」

柊が足を止めた。

「橘先輩が話題になってるって聞きました」

「……らしいな」

列の向こうから、楽しそうな声が聞こえてくる。

中は見えない。

いや、だから今は仕事中だ!

極力意識しないようにして素通りした。

少し遅れて、柊の足音がついてきた。

全階のチェックが終わったのは昼前だった。

特別教室棟の制作部屋に戻って長谷川に報告する。

「問題なし? じゃあ午後は自由にしてていいぞ。何かあったらLINEするから」

ようやくフリーだ。

2-Bに顔出して、焼きそばでも食うか。

そう思って振り返ると、柊がぺこりと小さく頭を下げた。

「それじゃあ先輩、私はこれで」

「おう、お疲れ。柊はこの後、友達と回るのか?」

「……はい。約束してるので」

それ以上は何も言わず、柊は制作部屋を出て行った。

背筋を伸ばして歩いていく小さな後ろ姿を見送ってから、俺も廊下に出た。

渡り廊下を抜けて、本館の東階段を上がる。

三階のB組に行こうとする途中、D組が目に入る。

行列はさっきより少し伸びていた。

最後尾が隣のクラスの前あたりまで来ている。

……なんでこんな人気なんだよ。

通り過ぎようとした、そのとき。

前から、見覚えのある影が歩いてきた。

スーツの巨体が、廊下を歩いている。

周囲の高校生が道を空けていくのが見える。

そりゃそうだ。場違いにもほどがある。

胸元に「家族見学」のカードをぶら下げて、真顔で行列の最後尾に向かっている。

……ていうか、橘兄だ。

春に教室に乗り込んできたときと全く同じ圧だ。

よりにもよってこのタイミングでかよ!?

よし、逃げよう。

今なら間に合う。

俺は反射的に踵を返した——

「お前か」

遅かった。

橘兄が俺を捉えていた。

いやいやいや、なんで一瞬で見つけんだよ!

「た……橘さん、なんでここに?」

「家族見学日だろう。当然だ」

いや、それはわかるけど。

相変わらず外見は兄妹に見えねぇからな……。

「紗月の彼氏なら、来て当然だろう。並ぶぞ」

語彙が足りなくないっすか?

ていうか……並ぶ?

この行列に?

このスーツの巨体と、二人で?

何かの罰ゲームかな?

「いや、俺はちょっと自分のクラスに——」

「並ぶぞ」

二回目。

選択肢が消えた。

こういうところは兄妹だよな。

と現実逃避してる間に身体は勝手に並んでた。

……地獄だ。

スーツの巨体と、制服の高校生。

周りの目が痛い。痛すぎる……!

「ねえ、あの人……もしかして春にB組に乗り込んできたっていう……」

「うわ、水野と一緒にいるし、マジで橘さんのヤバいお兄さんじゃん……」

「圧すごっ……」

聞こえてるぞ!

頼むからこれ以上俺のトラウマをえぐらないでくれ!

行列は少しずつ進んでいく。

橘兄は腕を組んだまま、真顔で前を見ている。

重苦しすぎるぞこの空気……。

……待てよ。

ただでさえ過保護なこの兄貴が、メイド服で接客している橘の姿を見たら、一体どうなるんだ?

絶対に面倒なことになる気がする。

しかも「彼氏」として横に並んでいる俺に、その火の粉が降りかかってくるんじゃ?

……なんで俺、橘兄とメイド喫茶の行列に並んでんだ。

焼きそば食うだけの予定だったのに。

重苦しい沈黙と、周りからの好奇の視線に耐え、とうとう順番が来た。

D組の教室に入ると、普段の机と椅子がきれいに配置し直されて、白いクロスが敷いてあった。

壁にはレースの飾りが掛かっていて、黒板にはチョークで描かれたメニューボード。

奥のテーブルに案内される。

橘兄が椅子に座った。俺もその向かいに座る。

……なんだこの状況。

意味わかんねぇ……。

教室の端では、メイド服を着た女子が飲み物を運んでいる。

そしてどこからか、いつもの声が聞こえてくる。

「お帰りなさいませ、ご主人様!」

……橘の声だ。

思わず目線を向けそうになるが、必死に耐える。

見るな。まだ見るな……!

心の準備ができてないぞ……!

橘兄は真顔でメニューを開いている。

感情の起伏あんのかこの人……。

かといって、周りを見渡せばメイド姿の橘が視界に入ってしまう危険がある。

完全に視線のやり場を失った俺は、下を向き、テーブルのクロスのしわを数えることに集中した。

足音が近づいてきた。

「お帰りなさいま——」

声が止まった。

顔を上げた。

——白いエプロンに、フリルのついたヘッドドレス。

黒いワンピースの裾がふわりと揺れている。

橘が、メイド服で、俺の目の前に立っていた。

…………。

脳が、処理を拒否した。

「……お兄ちゃんと、悠真くん……!? なんで二人で!?」

橘の声が裏返った。

お盆を胸の前に抱えたまま、目を白黒させている。

「家族見学日だ。当然だろう」

橘兄が真顔で答えた。

「えっ、えっ、聞いてないよ!? 来るなら言ってよ!」

「言う必要がない」

「あるよ! 心の準備とか!」

それはこっちの台詞だ。マジで。

橘がこっちを見た。

「悠真くん……! なんでお兄ちゃんと一緒にいるの!?」

「連れ込まれたんだよ! 橘さんに行列で捕まって、有無を言わさず——」

「……あ、そっか。お兄ちゃんが無理やり……」

橘が少しだけ申し訳なさそうに目を伏せた。

と思ったら、すぐにパッと顔を上げて、えへへっと笑う。

「でも、本気で逃げようと思えば逃げられたでしょ?」

「え?」

「お兄ちゃんに捕まっても、ここまでちゃんと一緒に並んでくれたんだね?」

少し上目遣いで、メイド服のまま嬉しそうに笑う。

……反則だろ、その組み合わせと理屈。

「……逃げる隙がなかっただけだ」

「ふふっ、そういうことにしておくね」

橘が上機嫌で微笑んだ。

「注文を頼む」

橘兄が、メニューを閉じて静かに言った。

この兄、空気をぶった切るのだけは天才だな……。

「あ、えっと……は、はい! ご注文をどうぞ!」

橘が慌ててお盆を構え直した。

接客モードに戻ろうとしているが、声が上ずっている。

「ワッフルと、コーヒー」

「わ、ワッフルとコーヒーですね! 悠真くんは?」

「……紅茶」

「紅茶ね! 少々お待ちくださいませ!」

ぱたぱたとカウンターに戻っていった。

メイド服の裾が揺れている。

思わず後ろ姿を追う。

いや、あれは誰でも見ちまうだろ……!

橘が去った後、再び重い沈黙が落ちた。

橘兄が腕を組んだまま、じっと俺を見ている。

「……橘さん、なんですか」

「お前、顔が赤いぞ」

は!?

「赤くないです」

「赤い」

断定しないでくれますかね!?

しばらくして、橘がお盆を持って戻ってきた。

ワッフルと飲み物をテーブルに並べ、注文票をそっとテーブルの端に置いた。

「お待たせしました!」

橘がエプロンの裾をちょっと引っ張って、小さくお辞儀した。

……なんだその仕草。どこで覚えたんだ。

似合っては、いるけれど。

「ね、悠真くん」

「……何」

「どう?」

橘が、両手を少し広げてくるりと回った。

メイド服のスカートがふわっと広がる。

やめてくんねぇかな?

その姿でそれするの。

しかも兄の前で何をどう答えろと?

「…………普通」

「えー! 普通はないでしょ!」

「普通だ」

「嘘だ! さっき顔赤かったくせに!」

「赤くなかった!」

「赤かった。俺が見た」

加勢しないでもらえますかね!

橘が嬉しそうに笑った。兄に援護射撃をもらって勝ち誇っている。

……最悪の共闘だ。

橘兄がワッフルをフォークで切って、一口食べた。

咀嚼。沈黙。

「……焼きが甘い」

「お兄ちゃん! お客さんなんだから黙って食べてよ!」

「事実だ。生地の配合も雑だな」

「うちのクラスの子が一生懸命作ったんだよ!?」

「だから言っている。手を抜くな」

……何なのこの人。

というか、高校の文化祭だぞ、そもそも。

橘が頬を膨らませたが、すぐに気を取り直した。

「あ、そうだ! お兄ちゃん、知ってる?」

橘が俺の方を見た。

「悠真くんね、実行委員の装飾班で廊下の飾り付けやったんだよ! ガーランドとかパネルとか、いっぱいやってたの!」

嬉しそうだ。すごく嬉しそうだ。

なんでお前が俺のことを自慢げに話してんだ。

「……言うなよ、そんなこと」

橘兄の目が、一瞬だけ俺に向いた。

何も言わない。ただ見ている。

見るだけで何も言われないのは、かなりプレッシャーかかるんですが……!

「あ、橘さーん! 三番テーブルお願い!」

教室の奥から、別のメイド服を着た女子の声が飛んできた。

「はーい、今行く! ちょっと待っててね、二人とも」

橘が小走りで奥の席へと向かっていく。

テーブルには、俺と橘兄だけが残された。

橘兄が残りのコーヒーを飲み干し、静かにカップを置いた。

テーブルの端に置かれた注文票を手に取り、席を立つ。

「橘さん?」

「帰る」

短い。相変わらず短い。

橘兄は、忙しそうに接客している橘のほうへ一度だけ視線を向けた。

「……楽しそうだな、紗月」

独り言のような低い声だった。

その横顔は、春に教室へ乗り込んできた時より、ほんの少しだけ柔らかく見えた気がした。

気のせいかもしれない。

橘兄がこちらに向き直った。

テーブル越しに見下ろしてくる視線が、重い。

周囲の喧騒に紛れるような、低い声が耳に届いた。

「——紗月に変なことをしたら、俺が出る」

それだけ言い残し、橘兄はカウンターに注文票と代金を置くと、足早に教室を出て行った。

大きな背中が廊下の人混みに消えていく。

俺は、冷や汗をかいたまま固まっていた。

……火の粉、やっぱり俺のところにピンポイントで飛んできたじゃねえか。

しばらくして、橘が小走りで戻ってきた。

「お待たせ! ……あれ、お兄ちゃんは?」

「……帰った。注文票持って」

「えっ!? もう、早いなぁ……」

橘が空いた席を見て、少しだけ眉を下げた。

でもすぐに、いつもの顔に戻る。

「お兄ちゃんさ、無理やり連れ込んだりして乱暴に見えるけど。ちゃんと並んで来てくれて、悠真くんの分も払ってくれて……言わないけど、ああいうとこ優しいんだよ」

……あの去り際の重すぎる圧を「優しい」で処理できる橘の感覚が恐ろしい。

お前の兄貴、明確に俺をロックオンしてたぞ。

「悠真くんも」

「……俺は連れ込まれただけだ」

「でも、ちゃんと紅茶飲んでくれたでしょ?」

橘がテーブルの空のカップを見て、嬉しそうに笑った。

「来てくれて、ありがとね」

メイド服のまま、少し首を傾けて笑う。

……だから。

その顔を、その格好で至近距離でやるなって。

さっきの兄貴とは別の意味で、心臓に悪い。

「……昼飯、焼きそば食いそびれた」

たまらず目をそらして、ぼやいた。

「えっ、ごめん! じゃあ後で一緒に食べに行く?」

「は?」

「B組の焼きそばでしょ? 私、もうすぐシフト終わるから一緒に回ろ!」

いつの間にか次の約束が成立しかけている。

ていうか、二人で文化祭を回るって、周りから見たら完全にデートじゃないか。

「……勝手にしろ」

「やった!」

橘がぱっと笑って、エプロンの裾をひるがえしてカウンターに戻っていった。

俺は残された空のカップを見下ろした。

来たんじゃない。橘兄に連れ込まれたんだ。

……その言い訳、もう自分でも苦しいなとは思っている。