軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第31話 ひより、「なんで覚えてるんだろう」の答えが出ない

目覚ましが鳴る前に目が覚めた。

六時。いつも通り。

顔を洗って、部屋に戻り、昨日のうちから用意していた制服に着替える。

そのまま流れで、弟の部屋のドアを叩いた。

「颯太、起きて」

返事がない。中二の弟は、すぐには起きない。

仕方がないので部屋に入り、ベッドにいる弟を揺さぶる。

「颯太」

「……んー」

「ご飯できてるよ」

布団がずれる音がした。

目も少し開いてきたので、多分起きるはず。

弟は起きたと判断して、キッチンに戻る。

お母さんが弁当箱におかずを詰めている。

颯太の分と、私の分。

卵焼きとミニトマトとほうれん草のおひたし。

ミニトマトが二個多いのは私の方だ。颯太は野菜が嫌いだから。

「ひより、お皿出してくれる?」

「うん」

食器棚から皿を四枚。ついでに箸も並べて、ご飯をよそった。

お味噌汁はお母さんがもうよそっている。

一通り並べ終わったところで、後ろから声がした。

「お姉ちゃん、結んで」

振り向くと、こはるが髪ゴムを持って立っていた。

小五の妹は、まだ自分で三つ編みができない。

何回か教えたけど、左側がどうしても緩くなるらしい。

「いいよ。座って」

椅子に座らせて、後ろに立つ。

こはるの髪は細くて柔らかい。左右に分けて、毛束を交差させていく。

「ちょっと引っ張るよ」

「うん」

結び終わった。こはるが両手で触って確かめる。

「ありがとう、お姉ちゃん!」

「どういたしまして。水筒にお茶入れた?」

「……まだ」

「忘れないように先に入れておきなよ」

こはるがキッチンの方に走っていった。スリッパがぱたぱた鳴る。

颯太がのそのそ降りてきた。目が半分閉じたまま、椅子に座る。

「おはよ」

「……はよ」

ご飯を食べ始めた。箸の動きが遅い。

寝起きの颯太はだいたいこうだ。話しかけても返事が一拍遅れる。

「颯太、今日プリント提出でしょ」

「わかってるって」

「カバンに入ってる?」

「……入ってる」

「昨日からリビングにあったけど」

箸が止まった。

「……あとで入れる」

「今入れなよ」

「姉ちゃんうるさ」

ぼそっと言いながら立ち上がって、リビングに行った。

戻ってきた手にプリントが一枚。何も言わずにカバンに突っ込んでいた。

お母さんが笑った。

「ひより、いつもありがとね」

「別に、いつものことだし」

先に準備が終わっていたお父さんが玄関から「いってきます」と声だけ飛ばしてきた。

「いってらっしゃーい」

こはるだけが大きい声で返す。

食べ終わったお皿を流しに運んで、さっと洗った。

お弁当をカバンに入れて、玄関で靴を履く。

「行ってきます」

「行ってらっしゃい、気をつけてね」

お母さんの声を背中で聞いて、ドアを閉めた。

外は曇りだった。傘はいらないと思う。たぶん。

教室にはまだ半分くらいしか来ていなかった。

私は自分の席に鞄を置いて、みんなの席にプリントを置いていく。

昨日の帰り際、担任の先生から預かった文化祭の注意事項。

朝のうちに配っておけば、みんな受け取れる。

プリントを配り終わると、クラスもガヤガヤしてきた。

席に着く。

「おはよ~、ひより。今日も朝からお仕事?」

「おはよ、奈々。うん、昨日頼まれたやつ」

奈々が席に着いた。あきれた顔でこっちを見る。

「頼まれごと引き受けすぎじゃない?」

「でも、誰かがやるの待つより早いでしょ?」

奈々と仲良くなってから、このやり取りは何度も繰り返している。

私の返しもいつも同じで、結局堂々巡りだ。

「そういう問題かな~」

「そういう問題。ほら、そろそろ先生来るよ」

予鈴のチャイムが鳴って、いつも通りの朝が始まった。

四時間目が終わって、奈々とお弁当を広げた。

「ひよりのお弁当っていつもおいしそう」

「そう? お母さんが作ってるだけだよ」

奈々がうんうんと頷きながらお弁当をつまんでいる。

文化祭の話、週末のテレビの話、隣のクラスの誰々がどうとか。

奈々は話題がころころ変わる。

「ねぇ、装飾班ってどうなの? 最近忙しそうだよね」

「来週で終わるよ。放課後だけだし」

「クラスの出し物もあるのに。シフトとかどうするの?」

「大丈夫、両方回せるから」

「ひよりはいっつもそう言うよね」

奈々が卵焼きをつまみながら笑った。

「偉いなぁ」

「偉くないよ、別に」

言葉にしながら、放課後の装飾班の作業を思い出す。

……今日も、あるんだった。

「ひより?」

「……ん?」

「ぼーっとしてた」

「してないよ。ご飯食べてただけ」

奈々は「ふーん」と言って、次のおかずに箸を伸ばした。

五時間目が終わって、奈々に「行ってくるね」と声をかけて教室を出た。

廊下には先週から飾り付けが増えていて、普段の学校とは少し違って見える。

紙花のガーランドが天井近くに張られて、壁に色とりどりの飾りが並んでいる。

一緒に飾り付けた、あの先輩。

夏休み前の会合で、先輩は面倒くさそうにしていた。

たぶんクジか何かで決まったんだと思う。やりたくてやっている人には見えなかった。

それなのに、夏休みの作業日も休まなかった。九月に入ってからも毎回来ている。

不思議な人だと思った。

先週、先輩があの有名な橘先輩の彼氏だと奈々から聞いた。

周りはとっくに知っていたらしいけれど、私は知らなかった。

橘先輩の彼氏。一年の廊下でも名前は聞いたことがあった。

でも、目の前のあの先輩と結びつかなかった。

三階に着くと、長谷川先輩が手を上げた。

「おー柊、今日はD組の前の残りな。水野と二人で頼む。俺と沖は一階のゲートの仕上げやるから」

「はい」

先輩はもう脚立を廊下の壁際に運んでいた。

道具箱からテープと画鋲を出した。ガーランドの残りを張る作業。昨日の続き。

先輩が脚立の上、私が下で紐を持って、張りを調整する。

「次」

「はい」

テープを渡した。先輩が受け取って、壁に貼る。画鋲を刺す。

脚立を移動して、次の一本。

同じ作業の繰り返し。先輩はときどき「めんどくさ」とか「あと何本だよ」とか小さくぼやく。

でも手は止まらない。

橘先輩の彼氏。

目の前の先輩は、脚立の上で面倒くさそうにガーランドの端を画鋲で留めている。

……とてもじゃないけど、あの華やかな先輩の隣に立つ人には見えない。

画鋲を押し込む先輩の指先を、見ていた。薄い紙花を扱う手つきが、やけに丁寧だ。

夏休みの作業でハサミやのりを使っていた時も、そうだった。

——なんで私、そんなこと覚えてるんだろう。

別に、気にして見ていたわけじゃない。

同じ班でずっと作業しているから、嫌でも目に入った。ただそれだけ。

D組の前のガーランドが全部張り終わった。

飾りの位置を微調整して、テープの端を押さえ直す。

先輩が脚立を降りて、少し離れたところから全体を見た。

「……まあ、こんなもんか」

「……はい」

並んで見た。紙花の赤と黄色が、蛍光灯の下で揺れている。

ただの廊下だった場所が、少しだけ違う場所に見える。

長谷川先輩からグループLINEが来た。

『今日ここまでー お疲れ! 一階のゲートもだいたい終わった!』

沖くんから『お疲れさまです』のスタンプが続く。

先輩がスマホをポケットにしまった。

「終わりだな」

解散の合図だ。

でも、テープやハサミはまだ廊下の床に散らばっていた。

画鋲の箱は開いたままで、脚立も出しっぱなしだ。

私は迷わず道具箱に手を伸ばして、片付けを始めた。

昨日は先輩が「やっておくから帰っていい」と言ってくれたけれど、毎日それに甘えるわけにはいかない。

先輩はいつも面倒くさそうにしているし、これ以上引き止めるのも悪い。

自分のペースでさっさと片付けた方が早い。

ハサミを入れて、テープを重ねて、画鋲を箱に戻す。

脚立も私が片付けようと振り返ったときには、先輩がもうそれを畳み終えていた。

「……先輩、脚立、私がやりますよ」

「もう畳んだからいい。ほら、行くぞ」

畳んだ脚立を肩に担いで、用具室の方に歩いていく。

道具箱を持って後を追いかけた。用具室に脚立を入れて、道具箱を棚に戻した。

「ありがとうございました」

「おう。じゃあな、お疲れ」

用具室を出た先輩は、一度も振り返ることなく廊下の奥へ歩いていった。

階段を降りる足音が、やがて遠く消えていく。

その背中を見送ってから、私も昇降口へと向かった。

頼んでいない。

「手伝って」なんて今日も一言も言っていない。

それなのに、あの人は当たり前のように脚立を運んでいた。

この先輩の行動は、気まぐれじゃなかったんだ。

夏休みの作業日も、昨日も、今日も。

誰かに強制されたわけでもない。

「やりたい」と主張するわけでもない。

ずっと面倒くさそうな顔をしているのに、投げ出したことがない。

靴を履き替えて、校門を出る。外はまだ少し明るい。

やらなくても、誰にも怒られないのに。

私は違う。やらなければ回らないと分かっているから、やる。

誰もやらないなら、自分がやるしかない。だから、やる。

私にとっては、ただそれだけのことだ。

でも、あの先輩は違う。

あの面倒くさそうな態度の裏に、どんな理由があるというのだろう。

考えても、わからなかった。

帰って、ご飯を食べて、お風呂に入った。

自分の部屋に戻り、机の上に数学の問題集を開いてシャーペンを持つ。

一問目、二問目、三問目。いつも通りのペースで解いていく。

けれど、四問目でぴたりと手が止まった。

窓の外はすっかり暗く、虫の声がかすかに聞こえるだけだ。

何かが引っかかっている。

問題が難しいわけじゃない。四問目は二次関数の基本問題で、公式も手順も完全に頭に入っている。

当てはめるだけで、答えは出るはずなのに。

どうしても、ペンが進まない。

今日もいつも通りの一日だった。全部、私がやるべき手順通り。

シャーペンを持ち直し、もう一度問題と向き合う。

……集中できない。

手順通りにやれば答えは出るはずなのに、私の頭の中には、理由もなく脚立を担ぐあの後ろ姿がちらついていた。

何がそんなに引っかかっているのか、自分でもわからなかった。