軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第3話 モブ、屋上まで追いかけられて偽彼氏続行を押し切られる

逃げた。

昼休みのチャイムと同時に弁当を掴み、早歩きで教室を飛び出した。

向かう先は屋上。俺と矢野の昼飯の定位置だ。

「お前、急ぎすぎてウケんな」

矢野はポテチ片手についてきている。

「うるせえ。教室にいたらまた来るんだよ、あいつ」

昨日、橘は「明日もまた来るね」と笑顔で宣言して教室を去った。

あいつの「また来る」は天気予報みたいなもんだ。

晴れって言ったら晴れる。

「屋上なら見つからない。裏階段知らないと来られないし」

「それ、フラグって言うんだけど」

「フラグじゃねえ」

屋上のフェンス際に腰を下ろす。

4月の風が心地いい。空は青い。静かでとても良い。

俺と矢野とポテチと弁当。これが正しい昼休みの姿だ。

弁当の蓋を開ける。今日は昨日の残りで作った肉じゃが弁当。

箸を割って、いただきま——

がちゃっ。

屋上のドアが開いた。

「見つけたー!」

橘が、息一つ乱さず屋上に踏み込んできた。

「……嘘だろ」

思わず箸を取り落とす。

「いやいやいやいや、なんでわかんだよ!」

「B組の友達に聞いたの。裏階段上がるとこにいるよって教えてくれた!」

「ネットワークで追跡してくんな!!」

橘は俺の絶叫を華麗にスルーして、ずんずんとこちらに歩いてくる。

足が止まらない。全然止まらない。

「わ、水野くんのお弁当、すっごいおいしそう!」

「今そこじゃないだろ!」

「肉じゃがだ! 自分で作ったの?」

「話聞け!」

矢野はポテチをバリバリ食いながら、完全に観客モードでこちらを眺めている。

助ける気、一ミリもない。

「ねえ、隣座っていい?」

「選択権あるのか、それ」

「ないよ!」

即答で選択権を消された。

橘はすとんと俺の隣に座る。弁当箱ひとつ分の隙間もない。

なんで広い屋上でこの距離感なんだよ。

肉じゃがを半分ほど食べたところで、橘が急に居住まいを正した。

さっきまでの弾けるテンションが嘘みたいに、まっすぐこっちを見てくる。

「あのね、水野くん。お願いがあるの」

「……嫌な予感しかしないんだけど」

「もうちょっとだけ、彼氏役を続けてほしいの」

「やっぱりか!!」

わかってた。

わかってたけど、直球で言われるとダメージが違う。

「無理だって! そもそもこの前のは緊急事態だっただろ!」

「うん。でもね」

橘はスマホを取り出して、画面をこっちに向けた。

「お兄ちゃん」という名前からのメッセージが並んでいる。

『紗月、彼氏というのは本当か』

『相手の名前を言え』

『逃げるな。話を聞く』

「……怖すぎるんだが」

「でしょ? お兄ちゃん、もう完全に本気モードなの」

橘が困ったように眉を下げた。

「お兄ちゃんはね、私が一人でいるのが心配なの。ちゃんとした人が隣にいれば、少しは落ち着く……と思うんだけど」

「『と思う』って。確信ないのかよ」

「……たぶん、大丈夫!」

「たぶん!?」

「あと、もう彼氏がいるって言っちゃったし。嘘でしたって今さら言えないでしょ?」

「言えよ! 嘘でしたって言うのが一番丸く収まるだろ!」

「ダメだよ。嘘でしたって言ったら、お兄ちゃんもっとひどくなるもん!」

橘は大真面目な顔で言った。

確かに、あのメッセージの主に「嘘でした」を突きつけたら——「なぜ嘘をついた」からの「もっと厳しく監視する」の流れが容易に想像できる。

でも、だからって。

「なんで俺なんだよ。他に頼める人いるだろ」

「だって水野くんしかいないもん。もう『この人が彼氏です!』って言っちゃったんだよ? 今さら別の人にお願いするのも変じゃん」

「そもそも頼むこと自体が変だっつの!」

「細かいことは気にしない!」

出た、必殺のゴリ押し。

「細かくねえ! 俺の人生がかかってんだぞ!」

「大丈夫だよ。水野くんならきっとうまくいく!」

「根拠は!?」

「勘!」

「勘て!!」

橘は一切引かない。俺が何を言っても正面突破してくる。

だが——俺が黙り込んでいると、橘の表情がわずかに変わった。

「……そんなに、嫌?」

声が少しだけ小さくなった。

さっきまでの勢いが引いて、少し寂しそうな顔をしている。

こいつ、押すのは得意なのに、引かれるのには慣れてないのか。

「……嫌とは言ってない」

「じゃあいいじゃん!」

「いやだからその理屈はおかし——」

「お願い。ちゃんと終わったらお礼するから。何でもするから!」

橘が両手を合わせて懇願してくる。

目がまっすぐすぎる。冗談で言ってる目じゃない。

この目を向けられると断れない自分が恨めしい。

矢野がポテチの袋をくしゃっと丸めて、ぼそっと言った。

「お前、もう負けてるな」

「負けてねえ!」

「いや、負けてる」

矢野の冷静すぎる断定。容赦がない。

俺は深く息を吐いた。

「……わかったよ」

言っちまった。これで俺の平穏なモブライフは完全に終わった。

「ただし、条件が——」

「やった!」

俺の葛藤なんか知る由もなく、橘は花が咲いたような笑顔を見せた。

「ありがとう!! 水野くん、ほんっと最高!!」

「——っ」

屈託のない無防備な笑顔に、一瞬だけ心臓が変な音を立てた。

いや、深い意味はない。こいつはただ自分の要求が通って喜んでるだけだ。

「持ち上げ方が軽い! そして人の話を最後まで聞け!!」

俺が慌てて声を張り上げると、橘はぴょんぴょんと飛び跳ねて喜んでいる。

条件なんか聞く気ゼロだ。こいつの耳には都合のいい音しか届かないのか。

こうして、俺の偽彼氏役は正式に成立してしまった。

「じゃあ、連絡先交換しよ!」

橘の切り替えは恐ろしく速い。余韻なんか一秒もない。

「は?」

「だって彼氏なのに連絡先知らないの変でしょ?」

「偽の、だろ!」

「細かいことは気にしない! はい、スマホ出して」

橘はビシッと俺の目の前に両手を差し出した。

有無を言わせない、圧倒的な圧力。

「出さないって」

「だーしーて!」

じりじりと顔を近づけてくる。近い。ただでさえ逃げ場がない距離なのに、さらにパーソナルスペースを削ってくる。

これ、俺が折れるまで絶対に引かないやつだ。

俺は深いため息をつき、渋々ポケットからスマホを取り出した。

「ほら。……出すだけだぞ。別に教えるって決めたわけじゃ——」

ひょいっ。

「あ——おい!」

あっさりと奪われた。俺のスマホが橘の手の中にある。

だが、画面は生体認証でしっかりロックされている。

俺が解除しない限り開かない。残念だったな。

「はい、水野くんこっち向いて!」

「は? うぉっ!?」

ずいっ、と目の前に俺のスマホが突きつけられた。

画面の上の鍵マークが、俺の顔を認識してカチャッと開く。

「よし、開いた!」

「顔認証を物理で突破すんな!」

橘は俺のツッコミを華麗にスルーし、手元にスマホを戻して慣れた手つきで画面をタップし始めた。

「何勝手に操作してんだ!」

「えへへ」

「えへへ、じゃねえよ!」

「はい、できた!」

5秒。たった5秒で連絡先交換が完了した。

返されたスマホを見ると、通知が来ている。

『よろしくね!』

続けて、やたらとテンションの高いウサギのスタンプが送られてきた。

「……俺とお前の温度差、えぐくないか?」

「そう? このウサギ可愛いでしょ?」

「スタンプの評価は聞いてねえよ!」

矢野が空になったポテチの袋の中を覗き込みながら、ニヤッと笑った。

「意識し始めたら負けだからな?」

「してねえよ!」

冷めかけた肉じゃがに再び箸を伸ばし、ようやく一息ついたところで。

「あ、そうだ。もう一つ」

「まだあんのかよ……」

「水野くん、私のこと『橘さん』って呼んでるでしょ? あれ、やめてよ」

「……は?」

「だって、彼氏が『橘さん』って呼んでたら不自然じゃん。バレちゃうよ? せめて『橘』にして」

確かに——偽とはいえ彼氏が「さん付け」は不自然だ。

そんなところから嘘がバレるのは勘弁してほしい。

「……わかった。橘、な」

「うん!」

橘がにっこり笑った。

たった二文字減っただけだ。「さん」が消えただけ。

なのに、なんか距離が変わった気がする。

気のせいだ。絶対に気のせいだ。

「じゃあ、午後も頑張ろうね。また連絡する!」

橘は手を振って、軽い足取りで屋上を去っていった。

嵐のような昼休みだった。

弁当の肉じゃがは半分以上残っている。

「……俺、何を引き受けたんだ」

「偽彼氏」

矢野の即答。

「まあ頑張れよ」

矢野はそれだけ言って、のそっと立ち上がった。

こいつは最初から最後まで、一貫して他人事だった。

その夜。

風呂上がりにスマホを見ると、橘からLINEの通知が来ていた。

『今日はありがとう〜。助かった〜!』

『明日の昼も屋上行っていい? お弁当持ってく!』

『楽しみにしてるね!』

3連投。

既読をつけるかどうか、10秒ほど親指が止まった。

結局、返事を打った。

『……勝手にしろ』

送信した瞬間、既読がついた。

『やった、決まりね!』

『おやすみ、水野くん。明日ね!』

俺はスマホを裏返して机に置いた。

偽彼氏、正式成立。連絡先交換済み。呼称変更済み。

昨日までの静かなモブライフは、もう影も形もない。

——なのに「勝手にしろ」って返してる俺は、一体何なんだ。

「水野くんってば……『勝手にしろ』、か」

画面の文字からお昼の嫌そうな顔が目に浮かんで、自然とふふっと笑いがこぼれる。

あんなに嫌がってたのに、結局引き受けてくれた。本当にいい人だ。

いつもなら暇を持て余すだけの退屈な夜なのに、今日は違う。

明日も堂々と一緒にお昼が食べられるのが……なんだか、すごく楽しみだ。