軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第2話 モブ、学園アイドルに教室まで会いに来られる

昨日のことは夢だった。

そう思いたい。切実に思いたい。

だが現実は、朝から俺に牙を剥いてきた。

教室に入った瞬間、空気が違った。

いつもなら誰も気にしない俺の登校。

教室のドアを開けても、せいぜい矢野が「おせーよ」と声をかけてくる程度の、何も起きない朝のはずだった。

なのに今日は、クラス中の視線が一斉にこっちを向いた。

男子は無言の圧。女子はヒソヒソ。

なんだこれ。俺、なんかしたか?

「お前……やったな」

隣の席の矢野が、ニヤニヤしながら声をかけてきた。

ポテチの袋を片手に、もう片方でスマホをいじっている。

いつもと変わらない体勢なのに、口元だけが完全にニヤついている。

「何を?」

「お前が、橘と、付き合ってる、って噂」

「はぁ!?」

俺は思わず叫んだ。

瞬間、クラス中の視線がさらに鋭くなる。

慌てて声を落とす。

「誰がそんなデマ流してんだよ……!」

「デマも何も、昨日お前ら商店街の裏を二人で全力疾走してたろ。見てたやつがいたんだよ」

「見てた!?」

「『腕掴まれて走ってる男がうちのクラスの水野っぽい』ってさ。あとは勝手に拡散」

矢野はポテチを一枚つまんで、バリッと噛んだ。

「お前の平穏なモブライフ、終わったな」

「終わらせんな!」

「いや、昨日終わったろ。自分から声かけに行った時点で」

矢野の目が、一瞬だけ真っ直ぐこっちを見た。

「巻き込まれたとか言うなよ? お前、自分から突っ込んでいったじゃん」

昨夜のLINEと同じ言葉だ。

画面越しでも痛かったが、面と向かって言われると倍刺さる。

「あれは……あの状況で見過ごすわけにいかなかっただろ」

「うん。だからそれ、巻き込まれたんじゃなくて、お前が選んだんだよ」

矢野はそれだけ言って、スマホに視線を戻した。

……反論できない自分が恨めしい。

確かに俺は、自分の足で踏み出した。

でもそれと「付き合ってる」はイコールじゃねえだろ!

午前中の授業は地獄だった。

後ろの席から刺すような視線。

右斜め前の女子はノートの端に何か書いて隣に回している。

回覧板かよ。

「……なんか、殺意感じるんだけど」

「そりゃそうだろ。学園のアイドルが取られたんだぞ? 男子全員、お前の敵だ」

矢野は教科書を立てて、その陰でスマホをいじっている。

「取ってねえよ……」

「だよなー。どっちかというと取られる側だもんな、お前は」

「うるせえ……!」

周囲の視線と矢野の煽りのダブルパンチに耐えながら、なんとか四時限目の終了チャイムまで生き延びた。

昼休み。

席で弁当を広げようとした、その瞬間だった。

教室のドアが、がらっと開いた。

ざわつきがぴたりと止まる。クラス中の視線が入り口に集中した。

「うそ……なんで?」

誰かのつぶやきに、俺は心の底から同意した。

そこに立っていたのは、橘だった。

同じ学年のリボン。

そして、この学校で知らない人間がいない顔。

「水野くん!」

橘は一歩踏み込むと、まっすぐ俺のほうに歩いてきた。

迷いなんか一ミリもない足取りで。

いやいやいや、なんでこのタイミングで来るんだよ!

「ちょっといいかな?」

橘はそう言いながら、俺の机の前まで来た。

近い。普通に近い。

クラスが完全に静まり返っている。

男子は石になっている。女子は目を見開いている。

矢野だけがポテチを食っている。

「な、なんでここに!?」

「探すのに時間かかっちゃった! クラスわかんなかったんだもん」

「そこじゃなくて! 来ること自体の話をしてるんだけど!」

「え? なんで? お礼言いに来ただけだよ?」

首をかしげる橘。本気でわかっていない顔をしている。

お前が来るだけでこの教室が大事件になるってこと、マジで理解してないのか。

「昨日はほんとにありがとう! すっごい助かった!」

ニコッと笑う橘。

――わざわざ、そのために来たのか。

不意打ちの笑顔に一瞬だけ思考が止まる。

——いや、見とれてる場合か。周りの目がやばい。

しかも、その声のボリュームは教室の隅まで余裕で届いている。

「た、橘さん! 声……声のボリューム!」

「え、普通だよ?」

「普通じゃない!!」

クラスがざわつく。

「マジだったの?」「昨日って何があったの?」「橘さんがわざわざ来るとか……」

ヒソヒソのはずの声が、全方向から押し寄せてくる。

噂が確信に変わっていく音がする。もう手遅れだ。

「あ、そうだ。明日の昼休みって空いてる?」

「は?」

「昨日のお礼! 何かおごりたいんだけど」

「おご——いや、いいって! お礼とか全然いいから!」

「えー、でもほんとに助かったんだもん。ね、いいでしょ?」

橘が少し身を乗り出してきた。

近い。顔が近い。教室中が見てる中で顔が近い。

「だ、大丈夫だから! マジで!」

「そう? じゃあまた考えとくね!」

橘はあっさり引いた——と思った。

そのまま教室を出るかと思いきや、付け加えた。

「あ、でも明日もまた来るから!」

橘はそう言って、花が咲くような笑顔を向けた。

「っ……」

無防備な笑顔に、頭が真っ白になる。

——何で俺、笑顔ひとつで言葉が出てこなくなるんだ。

「い、いや、ちょ——」

「じゃあね——バイバイ!」

ワンテンポ遅れた俺の制止は、完全に宙を切った。

橘は小さく手を振って、振り返りもせずに教室を出ていった。

嵐のような滞在時間は、ほんの数十秒。

けれど、俺の平穏を完全に破壊するには十分すぎる時間だった。

残された教室は、一瞬の沈黙のあと爆発した。

「マジで付き合ってんじゃん……」

「橘さんがあんな笑顔で……」

四方八方から怨嗟の声が湧き上がる。

血走った目をした男子たちが立ち上がり、ゾンビのような足取りでじりじりと俺の席を包囲し始めた。

俺は思わず机に突っ伏した。

「……モブに戻してくれ」

「無理だな」

じわじわと狭まる包囲網の中で、矢野だけが平然とポテチを口に運んでいる。

こいつ、親友のピンチを完全に特等席のエンタメとして楽しんでやがる。

「お前はもう『橘紗月の彼氏』だ。少なくともこのクラスでは」

「確定すんな! 何も確定してないだろ!」

「じゃあなんで最後に即答で追い返さなかったんだよ。あの『明日も来る』って笑った瞬間、思いっきりフリーズしてたくせに」

周囲の圧が一段階強まる。

逃げ場が塞がれていく中で、矢野は容赦なく急所を突いてきた。

「っ……」

言い返せなかった。

教室に来られるのは困る。騒ぎになるのも勘弁だ。

でも、あの屈託のない笑顔を真正面から浴びて、瞬時に拒絶できるほどの耐性なんて、俺にはなかった。

「知ーらね。まあ頑張れよ」

矢野が空になったポテチの袋をくしゃっと丸めた。

それが、開始の合図だった。

「水野おおおお! ちょっと面貸せやあああ!!」

男子たちが、一斉に俺へと殺到してくる。

揉みくちゃにされながらも、俺の頭の片隅には、先ほどの笑顔がこびりついて離れなかった。

明日もあいつは来る。

橘は「また来る」と言ったら絶対に来る。

まだ一日しか知らないのに、なぜかそう確信していた。