軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第15話 モブ、学園アイドルのエプロン姿に心拍を乱されながら包丁の握り方を教える

橘家の門扉の前に、俺は立っていた。

……なんで俺、日曜の昼に橘の家に突っ立ってんだ。

土曜に駅前で新調した黒のハーフジップシャツにチノパン。

朝、母さんに一瞬目を止められたが、「気分転換」で押し通した。

さすがに、前に着てた無地のパーカーでこの門の前に立つ勇気はなかった。

体育祭明けからのLINEの応酬が頭をよぎる。

『そんなの聞いてないぞ。お前の家に行く理由ないだろ』

『えー? 料理教えてくれるって言ったじゃん!』

橘兄に命令されたからだけどな。

『お母さんも来るの楽しみにしてるって!』

会ったことない相手に楽しみにされるの、どんな気持ちだと思う?

こっちは胃が痛むんだよ。

結局、俺は折れた。

まぁ、料理教える約束はしたからな。

門の先、玄関前に明るい茶色の髪が立っていた。

外にまで出て待ってやがる。

「来た来たー。水野くん!」

こっちを見つけた瞬間、手をぶんぶん振ってくる。

「おう」

「早く早くー。楽しみにしてたんだから!」

楽しみにしてたの、料理か俺か、せめてはっきりしてくれ。

玄関を上がり、案内されたリビングは当然のように広かった。

前に玄関だけ見て怖気づいた自分に言っておきたい。奥はもっとだぞ。

……広さの話を始めたら俺が負ける。

「あら、水野くん。こんにちは」

ソファから立ち上がった女性が、こちらを見て小さく笑った。

アイボリーのカーディガンを羽織って、ゆるくまとめた髪。上品すぎて気おくれする。

「……こんにちは。お邪魔します、お母さん」

「お母さん」呼びは三度目のはずなのに、慣れない。慣れるはずもないが。

「お母さん、水野くん来たよ! 今日、料理教えてもらうの!」

橘が隣で全力宣言する。

その宣言はいらんだろ、プレッシャーかかるからやめろ……。

「ええ、聞いてるわ」

「水野くん、うちでは紗月からよく名前を聞くのよ。面白いわよね」

……面白い、って、どういう意味の「面白い」だよ。

反応に困る。

っていうか、家で俺の話してんの、こいつ。

「お母さん、そういうの言わないでよー!」

「あら、本当のことじゃない」

橘が拗ねた顔で俺を見る。こっちに助けを求めるな。

「水野くん、ゆっくりしてってね。料理、楽しみにしてるわね」

橘母はそう言って、ソファの脇のバッグを取った。

「お母さん、出かけるの?」

「ええ、ちょっとね。紗月、お客さん来てるんだから、ちゃんとおもてなしして」

「はーい。完成したら写真送るね!」

橘母は軽くうなずいて、玄関のほうへ消えていった。

「今日はお願いね、頼りにしてる!」

いつもの笑顔、いつものテンション。

だからその笑顔やめろって……。

「キッチン、こっち!」

連れていかれた先は、真ん中に島みたいな調理台がある空間だった。

アイランドキッチンというやつだ。テレビの料理番組でしか見たことがない。

「じゃーん」

橘が得意げにエプロンを広げた。白地に淡いベージュの線。

「これ、お母さんに買ってもらったの!」

「へえ」

「へえ、って。もっとなんかあるでしょ!」

橘がむっとした顔で、そのエプロンを体に当てた。

「どう?」

……どう、と言われてもな。

「……まあ、似合ってんじゃねえの」

「ふふ、ありがと!」

橘の笑い方が、なんか距離が近くみえる。

自分の可愛さを自覚しろよな……。

こっちの心臓が落ち着く時間をくれ。

橘がエプロンをつけて、手にしていたヘアゴムを口にくわえた。

両手を後ろに回して、髪をまとめていく。

女子が髪を結ぶところを、こんな至近距離で見るの、初めてじゃねえか?

口にゴムをくわえたまま、指で毛先を揃えて、するっと束ねる。

エプロン姿が加わると、体育祭のときとはまた違う種類の、やばさがある。

「料理だから、邪魔だしね」

橘がこっちを見て、目が合った。

とっさに目をそらす。

「で、今日、何作るんだよ」

「卵焼きと、味噌汁と、ご飯!」

「基本三点セットかよ」

「だってこれから覚えるんだもん!」

正論だ。反論できない。

よし、今日は料理教室だ。先生役だ。橘兄の命令だ。

自分に三回言い聞かせたら、大体のことはやれる。

「まず野菜」

冷蔵庫を開けさせる。橘が嬉しそうに野菜室を引っ張り出した。

「えーと、たまねぎ……と、じゃがいも!」

橘が二つ、手に取って並べた。

右が玉ねぎ、左が玉ねぎだった。

「……お前、それ、両方とも玉ねぎだ」

「え」

「色違うだろ」

「似てるじゃん!」

「似てねえよ!」

橘が野菜室をもう一度覗き込む。

数秒考えて、やっと茶色い皮のほうを持ち出した。

「……これが、じゃがいも?」

「それがじゃがいもだ」

橘がそこで、ちょっと手元に視線を落とした。

「……私、ほんとに何もできないかも」

眉尻が下がって、いつもの勢いが顔から消えていた。

「まあ、覚えりゃいい話だろ」

俺は短く返した。

長く慰める役は、柄じゃない。

「……そっか」

そう言うと、橘はもう一回じゃがいもを握り直した。

「うん! 覚える!」

切り替えの速さも、こいつの通常運転だ。

野菜が出そろったところで、次は包丁だった。

「じゃあ、じゃがいも切るから」

「おう」

橘が流しの横から包丁を取った。

柄を、手のひら全体でぎゅっと握り込んでいる。

親指まで一緒に巻き込んで、握りこぶしの形になっていた。

「おい。それ、握り方」

「え、ダメ?」

橘が慌てて持ち直した。

けど、あまり変わってないな……。

「お前、包丁握ったことあるのか」

「あるよ……たぶん」

「たぶんってなんだよ」

「家庭科で、少し……」

橘兄が言ってた「紗月に料理を教えてやれ」の意味が、今、完全に理解できた。

基礎から教えろってことね……。

「どうやって握るの……わからないから、実演して」

目が素直に「教えて」になっている。

……そういう顔するの、反則だろ。

「貸せ」

包丁を受け取って、まな板の前に立つ。

「指はこう。猫の手な。親指と人差し指で柄を挟んで、残り三本で握る」

実演する。じゃがいもを半分に切ってみせた。

「ほら」

「う、うん」

「やってみろ」

橘が俺の横に立って、包丁を受け取る。

握る。

まだ、違うな。

仕方ないか……。一瞬、息を吸って、吐く。

「……ちょっと、手、借りるぞ」

橘の後ろに回って、包丁を握る橘の右手に、自分の右手を上から重ねた。

指の位置を修正する。

「親指はここ、人差し指はここ。残りはこう」

体温を直接感じるが、今は無心だ……!

左手で橘の左手を取って、じゃがいもの上に軽く添えさせる。

「こっちが猫の手。指、曲げろ。指先、出すな」

「……うん」

声が小さい。いつものテンションがない。

……やめろ、今、そのトーンは。

「一回だけな。いくぞ」

包丁をゆっくり下ろして、じゃがいもを一枚だけ切った。

切れた瞬間に、俺は右手を離した。

「……はい、あとは自分でやれ」

一歩、後ろに下がる。

心拍がやばい。

料理指導だ。料理指導中だ……!

「……うん、ありがと」

橘は、包丁を手に持ったまま、自分の右手を一回、じっと見た。

そのあと、不思議そうな顔をして、もう一回見た。

「……あれ?」

「なんだよ」

「ううん、なんでもない」

なんでもないって顔じゃなかった。

けど、聞くと、こっちが負ける気がする。

俺は冷蔵庫のほうを向いて、味噌を探すふりをした。

卵のパックを、橘が取り出した。

「卵焼きって、卵、いくつ使うの?」

「二個」

「りょうかい!」

橘が卵を一つ手に取って、ボウルの縁で、ぱんっと割った。

「うわー、殻、殻入った!」

ボウルを覗くと、白身と黄身の中に、立派に三日月形の殻が、二つ浮いていた。

「器用に入れるな、お前」

「わざとじゃないし!」

「貸せ」

ボウルを引き取って、もう一個卵を割る。

片手でコン、と縁に当てて、親指で殻を開く。

浮いてた殻を、別の殻で掬った。

箸を取って、二個分を、一気に溶く。

「……水野くん、手つきすごい」

橘が呟いた。

「慣れてるだけだ」

「慣れてるって、ずっとやってるってことでしょ?」

「中学からだな。親が共働きでいないこと多いし」

箸を動かす手は止めない。

「えー……えらい」

橘が、心の底から感心した声を出した。

やめろ、その声で「えらい」は効くんだよ。

そこで、俺は、一回、手を止めた。

まな板の上の半分だけ切ったじゃがいも、殻入り卵を救出したボウル。

一通り、見渡す。

「……お前、今日は無理だ」

「え」

「料理は、次回」

「え、えー? 今日作るって言ったのに!」

「お前が基礎なさすぎなんだよ。卵焼きまで行く前に、野菜と包丁で力尽きてる」

「そんなことないし!」

「あるだろ、今、現在進行形で!」

橘が唇を尖らせた。反論はできなさそうだった。

しばらくそのままでいて、橘はふっと顔を上げた。

「じゃあさ、また、教えてくれる?」

「……しゃーねえな」

断る選択肢が、最初からなかったことに、自分で少しだけ気づく。

「やった! じゃあ次はいつ?」

壁のカレンダーを見た。

「……来週の土曜」

「約束ね! 忘れないでよ!」

「忘れねえよ」

——返事、速すぎたな。

結局、卵焼きは作らなかった。

味噌汁だけ、俺が仕上げた。

橘が切ったじゃがいもと、俺が切った玉ねぎを、鍋に放り込んで、出汁を入れて、火を通す。

米も、なんとか炊けた。

テーブルに、向かい合って座る。

「いただきます」

橘が手を合わせる。俺も合わせた。

「あ、お母さんに写真送るね」

橘がスマホを構えた。

味噌汁と、ご飯と、なぜか俺まで写真に入れようとしている。

「おい、俺は写すな」

「手だけね。手だけだから大丈夫!」

結局、俺の左手がちょっと入った。

「おいしい!」

「ほぼ俺が作ったけどな」

「野菜は私が切ったもん。だから一緒だよ」

「一緒じゃねえよ」

しばらくすると、橘のスマホがぴこん、と鳴った。

「あ、お母さんから返信。『紗月が楽しそうで、お母さん嬉しいわ。水野くんにもよろしく伝えてね』だって」

橘はスマホの画面をしばらく見てから、こっちを見て、小さく「えへへ」と笑った。

嬉しそうで、何よりだ。

玄関で、橘がサンダルを引っかけた。

「送るね」

「いいって、別に」

「途中までだし、ほら、行こ!」

断る隙はなかった。もうわかってる。

外は、風が涼しかった。

坂を下り始める。

橘はポニーテールのままで、歩くたびに毛先が揺れた。

坂の途中に、街灯が一本立っていた。

そこで、橘が立ち止まる。

「今日、ありがとね!」

まっすぐ、こっちを見てきた。

「……来週の土曜、忘れんなよ」

「忘れないよ!」

橘が手を振った。

坂の上に戻りながら、何度も振り返っては、また手を振ってくる。

俺はそのたびに、軽く手を上げ返した。

やがて、橘の姿が見えなくなった。

坂を下りきる頃、ポケットのスマホが軽く震えた。

あいつからだろう。見ずに、そのまま歩き出した。

……来週の土曜。

頭の中で、そっと呟いた。

もう水野くん、帰っちゃったのに。

……なんか、ドキドキしてる。

自分の右手を、もう一回、見る。

上から重ねられた手。あったかかったな。

——次の土曜、楽しみ!