軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第13話 モブ、「ねえ、料理、本当に教えてくれる?」にドキッとする

タクシーの後部座席で、俺は三十人分の親戚データを暗記しようとしていた。

きっかけは月曜の昼休み。

橘が「日曜、親戚の集まりがあるの。水野くんも来てくれない?」と言い出した。

もちろん、最初は全力で断った。

親戚三十人の前に偽の彼氏として出ていくとか無理だろ!

次の日もその次の日も断った。

けど最後に「お願い! 一人だと質問攻めで死んじゃう!」と泣きつかれて……折れた。

そして、LINEで「親戚対策シート」が送りつけられてきた。

今スマホに映っているのはそのシートだ。

叔母A(母方):ファッション好き。服を褒めると機嫌が良い。

叔父B(母方):野球好き。困ったら昨日の試合の話。

従姉C:大学三年。写真見せてと言ってくる確率95%。

なんだこの情報量。

「水野くん、ちゃんと覚えた?」

隣の橘が覗き込んでくる。

淡いブルーのワンピースに白いカーディガン。

首元に、見慣れない細いネックレスが揺れている。

普段の制服とのギャップが反則だろ。

見慣れているはずの顔が、なぜか全然見慣れない。

俺はユニクロで一番マシだったシャツにチノパンだ。

昨日の夜、三十分迷ってこれだった。格差がひどい。

「覚えたっていうか、これ暗記するの無理だろ。三十人だぞ」

「大丈夫! わからなかったら私がフォローするから!」

「お前のフォロー、前科がありすぎて信用できないんだけど」

「ひどい!」

……この状況を、昨日の夜に矢野にボヤいたら、「完全に本物の彼氏準備じゃねえか」と笑われた。

反論できなかったのが一番つらい。

タクシーを降りた先は、閑静な通り沿いの和食料亭だった。

暖簾をくぐると、畳の匂いと出汁の香りが漂ってくる。

やばい。完全に場違いだ。

俺、料亭なんて来たことないんだけど!

「お前の親戚、集まりの場所が料亭なのかよ」

「お母さんの方の親戚で毎年やるの。水野くんにも来てほしくて!」

来てほしくて、で呼ぶな!

こっちの心臓の都合も考えろ!!

靴を脱ぐ手が震えている。

情けない。

広い座敷に通されると、すでに十五人ほどが集まっていた。

「あら、紗月ちゃん!」

親戚のおばさんたちが一斉にこちらを向く。

うぁ、圧力がすごい。

帰りたくなってきた。

「こんにちは! 今日は彼氏の水野くんも一緒です!」

声が大きい!

なんで毎回全力で宣言するんだこいつ。

「は、初めまして。水野悠真です」

頭を下げた。顔を上げた瞬間、十五人全員と視線がばっちり合う。

やめてくれ。

「あら、水野くん。今日はありがとうね」

座敷の奥から、聞き覚えのある穏やかな声。

橘の母親だ。

「あ、お母さん、こんにちは」

「ゆっくりしていってね」

にっこり笑って、親戚の応対に戻っていった。

穏やかなのに、落ち着かない。

座布団に腰を下ろした瞬間、質問が飛んできた。

「水野くん、部活は何やってるの?」

「帰宅部です」

「あら、今の子は色々あるのね!」

ない。何もないから帰宅部なんだ。

「お勉強の方はどう?」

「平均よりちょっと……下、です」

「でも真面目そうだものねえ!」

真面目に見えて成績が低いのは、ただのスペック不足だ。

フォローが全部裏返しに刺さるぞ。

わざとか?

隣のおばさんが、前のめりになった。

「紗月ちゃんとはどうやって知り合ったの?」

「えっと……道で偶然」

「道で!? 運命的ねえ!」

運命じゃない。事故だ。

腕を掴まれて路地裏を全力疾走させられたのを、運命とは呼ばない。

「水野くんがね、助けてくれたの!」

橘が横からにこにこと補足した。

嘘じゃないけど省略しすぎじゃねえかな……。

料理が運ばれ始め、少し場が落ち着いてきた頃。

入り口の暖簾が揺れた。

「遅れた」

暖簾の向こうから現れたのは、スーツ姿の大柄な男。

橘兄だ!!

せっかく場所に慣れてきたのに、胃が急に痛くなってきた。

「お兄ちゃん!? 来るって言ってなかったじゃん!」

「仕事が終わった」

この親族ネットワーク、情報漏洩がひどすぎる。

「あら誠くん、いらっしゃい!」

親戚のおばさんたちは歓迎ムードだ。

けど俺の体は、教室で取り調べを受けたときのことを覚えている。

あの静かな圧。逃げ場のない視線。

橘兄が腰を下ろす。

そしてまっすぐ、俺を見た。

何も言わない。ただ見ている。

「来たか」

「……呼ばれたんで」

「断ることもできただろう」

返す言葉がなかった。

橘兄の目が一瞬だけ細くなった。

もしかして、笑ったのか?

そんなわけないか。

食事が一段落した頃。

橘兄が箸を置いた。

「腕相撲だ」

は?

「すみません、今なんて」

「腕相撲をしろ」

嘘だろ、聞き間違いじゃなかった。

「食事の席で腕相撲って」

「関係ない」

このごり押しに橘と同じ血を感じるが、ここで出さないでほしい。

しかも親戚のおばさんたちが「あら面白そう!」「やりなさいやりなさい!」と一斉に盛り上がり始めた。

止めてくれ!!

親戚の誰か一人くらい常識を持ってくれ!!!

「お兄ちゃん、やめてよ! ご飯の席だよ!?」

橘が抗議した。

初めてこいつを頼もしく思った、が。

「でも水野くん、頑張って!」

お前は結局どっちの味方だよ!

この兄妹、人の都合を無視するところが完全に一緒だな。

卓の上に、橘兄が右腕を置いた。

スーツの袖から覗く前腕は、俺の二回りは太い。

っていうかマジでやんのかよ。

勝てるイメージは全くないが……。

「……やります」

逃げたい。けど、逃げないと決めたのは俺だ。

手が組まれた。

俺の手が完全に包まれている。

「始め!」

圧がきた。

重い。歯を食いしばるが、腕がどんどん傾いていく。

卓が近づく。

諦めたら、この人にはバレる気がする。

「ぐっ……!」

腕が止まった。卓がもうそこだ。

戻せない。でも、まだ倒れてない。

視界の端で、橘が身を乗り出しているのが見えた。

口元を手で覆って、息を止めている。

親戚のおばさんたちのざわめきが、一段低くなった。

橘兄の腕は、びくともしていない。

俺だけが震えている。

ここでぱっと手を離したら、たぶんこの人は何も言わない。

何も言わずに、俺の評価を一段下げる。

歯を食いしばりなおす。

「ぐ、っ……!」

腕が、ほんの少しだけ戻った気がする。

橘兄の眉が、一瞬だけ動いた気がした。

でも、そこまでだった。

指先から力が抜けていく。腕が震える。

ゴン、と。

俺の手の甲が卓に当たった。

負けた。

完全に、圧倒的に、負けた。

俺は右腕を左手で押さえながら、荒い息をついていた。

橘兄は腕を軽く振っただけだった。

「帰宅部にしては持ったな」

何の基準だよ。

「だが、悪くないな」

……ちょっと嬉しくなった自分が嫌だ。

橘が拍手している。

親戚のおばさんたちも「頑張ったわねえ」と笑っている。

負けたのに、拍手を浴びている。

モブが親戚一同の前で腕相撲に完敗して拍手される人生、予定になかったんだけど。

食事が再開された。

橘兄は正面の席で黙々と料理を口に運んでいる。

俺も箸を動かした。

煮物、うまい。

これ家で作れねえかな……?

「お前」

橘兄の声。

「はい」

「料理はするか」

「あ、はい。親が共働きなんで、自分で作ります」

橘兄がちらりと俺の手元を見た。

「紗月は包丁もろくに握れん」

「お兄ちゃん!」

橘が顔を赤くしたが、兄は振り向かない。

「今度、紗月に教えてやれ」

「……教える、ですか」

「飯の作り方を。段取りも火加減も、基礎がなってない」

段取り。火加減。

料理をする人間の言葉だ。素人じゃない。

「お兄ちゃん、私だって料理くらいできるもん!」

「卵を割って殻が半分入った件は」

「あ、あれは事故!」

親戚のおばさんたちが笑っている。

橘が頬を膨らませて兄を睨んでいるが、効いていない。

帰りのタクシー。

橘は窓の外を見ながら笑っていた。

「今日、楽しかったね」

「楽しくはないだろ。腕相撲で負けたしな」

「でもお兄ちゃん、『悪くない』って言ったよ? あれ、お兄ちゃんの中ではすっごい褒め言葉だからね」

「あれで褒め言葉なのか」

「うん。普段は『足りない』しか言わないもん」

確かに、前は「足りないな」だった。

「悪くない」は一段上がったのか?

分からん……。

「ねえ、料理、本当に教えてくれる?」

橘が小さい声で聞いてきた。

その表情と距離の近さにドキッとした。

……いや、落ち着け。いつものことだろ。

「まぁ……お前の兄貴に命令されたからな。仕方ない」

「やったー、決まり! 楽しみにしてる!」

橘が笑った。嬉しそうに。

この兄妹、押し切り方が完全に同じだ。

橘を先に降ろして、タクシーに一人。

スマホを取り出して、矢野にLINE。

『橘兄に腕相撲で完敗した。あと橘に料理を教えろって言われた』

既読。五秒の沈黙。

『腕相撲は草』

『てか料理教えろって、婿入りコースだろそれ』

婿入りって何だよ。笑いごとじゃねえ。

もう一件、通知がきた。

橘からだ。

『今日はありがとう!! 料理、楽しみにしてるね!!』

びっくりマーク四つ。

返信を打とうとして、指が止まった。

何を返しても、また何かに巻き込まれる。

巻き込まれることが嫌じゃなくなっている自分が、一番やばい。