作品タイトル不明
第10話 モブ、アイドルの誕生日に手作りケーキを焼いて気の抜けた笑顔を食らう
五月十七日、土曜日。
俺は自宅のキッチンで、オーブンの中のスポンジケーキを睨んでいた。
……なんで俺、ケーキ焼いてんだ。
いや、経緯はわかっている。
わかっているけど、わかりたくない。
事の発端は三日前の昼休みだ。
「ねえ水野くん、今度の土曜って暇?」
「まあ……特に予定は——」
「やった! じゃあうちに来て!」
「は?」
「私の誕生日、五月十七日なの! お母さんも水野くんに会いたいって言ってたし、ちょうどいいじゃん!」
ちょうどよくない。
何一つちょうどよくない。
「いや待て、なんで俺がお前の家に——」
「玲奈も来るから大丈夫だよ!」
「何が大丈夫なんだよ!」
「決まりだね! 十一時に来てね。楽しみにしてる!」
そして橘は返事を聞かずに階段を駆け下りていった。
いつものことだ。いつものことだけど、慣れない。
——で、なぜかケーキを焼いている。
手ぶらで行くわけにはいかない。わかる。
菓子折りでよかった。わかってる。
百歩譲って、ケーキを買うのでもいい。
なぜ焼いた。
オーブンのタイマーが鳴った。
竹串を刺す。生地がついてこない。焼き上がりは上々。
粗熱を取って、クリームを塗って、苺を丁寧に並べて——
って、なんで俺こんな真剣にやってんだ。
偽彼氏の口実の範囲内だ。手土産だ……ただの手土産。
——口実が苦しいのは気のせいだ。
◇
坂がきつい。
橘家は高台の住宅街にある。
駅から十分以上歩いて、さらに坂を上る。
ケーキの箱が傾かないように気を張ってるせいか、緊張する。
別の理由もあるかもしれないが……。
そして坂を上りきった先に現れた一軒家を見て、足が止まった。
……でかい。
門扉がある。庭がある。
二階建て——いや、一部が三階になってないか。
俺んちのマンションの部屋が三つくらい入りそうだ。
いやいや。
橘ってもしかしてお嬢様だったりするのか……?
普段のあのテンションからは想像つかないが。
インターホンに手を伸ばす。
……指が震えてる。
モブが、学園のアイドルの家の前で、手作りケーキを抱えて突っ立っている。
マジでこんなイベントが俺の人生にあるなんて思わなかったが……。
覚悟を決めてインターホンを押す。
ピンポン。
押した。もう後戻りできない。
少しして、玄関のドアが勢いよく開いた。
「水野くん! 来てくれた!」
橘が飛び出してきた。淡いピンクのカットソーに、ふわっとしたスカート。
モールのときの私服とは全然違う。家の中の橘はなんかこう……ゆるい。
なんて思ってたら橘がその勢いのまま俺のところにくる。
だから! 近い!!
「いらっしゃい! 上がって上がって!」
「お、おう……お邪魔します……」
案内されて玄関に足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。
広い。天井が高い。
靴を脱ぐスペースだけで俺の部屋の半分くらいある。
靴を揃える。
もうちょっとちゃんと揃えよう。
——よし。完璧に揃えた。靴の揃え方だけなら満点だぞ俺。
「あれ、それ何?」
橘がケーキの箱を見つめている。
「……ケーキ。手土産」
「え、手作り!?」
「……まあ」
「すごい! 水野くんケーキも作れるの!?」
「スポンジ焼いてクリーム塗っただけだ。大した——」
「見せて見せて!」
橘が箱を覗き込もうとする。
「まだ開けんな! クリーム崩れるだろ!」
「えー、早く見たい!」
「あとで。落ち着け」
「水野くんのほうが落ち着いてないじゃん」
うるさい。その通りだよ。
と、廊下の奥から声がした。
「あら」
その声の方向を向くと、女性が立っていた。
セミロングの髪をゆるくまとめた、上品な雰囲気の人。
橘の面影がある。
というか、橘が二十年後にこうなるんじゃないかというくらい似ている。
たぶん——橘の母親だ。
「水野くんね。紗月から聞いてるわよ」
穏やかな微笑み。声は柔らかい。
兄の無表情とは真逆だ。
でも。
なんだろう。
穏やかなのに、な、なんか怖いな……。
「き、今日はお邪魔します……」
「ゆっくりしていってね。——あら、手作り? 紗月のために?」
母親の目がケーキの箱に止まって、それから俺を見た。
「は、はい。大したものじゃないですけど……」
「まあ、素敵ね」
にこりと笑って、それだけだった。
それだけなのに、「紗月のために?」が変に引っかかる。
手土産だっての……。
「お母さん、そろそろ時間じゃない?」
「ああ、そうね。——それじゃあ水野くん、紗月をよろしくね」
母親は微笑んだまま玄関を通り過ぎ、靴を履いて出かけていった。
今日は外出の予定があったらしい。
少しの会話だったけど、全部見透かされてる気がする。
いやいや、そんなわけないだろ。
……ないよな?
「ね? お母さん優しかったでしょ?」
「……優しかったけど。なんか全部バレてる気がする」
「えー、だって水野くんわかりやすいもん」
「……は?」
「お母さんじゃなくても、わかるよ? 水野くん、ちゃんとしてくれてるなーって」
ちゃんとしてるって何だ。手土産を持ってきただけだぞ。
わからない。わからないのに、返す言葉が出てこない。
この天然で急所を突いてくるところ、完全に母親譲りだろ……。
「さ、上行こう! 玲奈もう来てるよ!」
「え、宮田さんもう来てんのか」
「うん! 朝から!」
橘に引っ張られるようにして階段を上る。
二階の廊下を進んで、一番奥のドア。
橘が立ち止まって振り返った。
「ここ、私の部屋ね!」
……。
わかってた。わかってたけど!
いざドアの前に立つと、急に現実の重みが押し寄せてくる。
俺はこれから、女子の部屋に入る。
人生で初めて女子の部屋に足を踏み入れる。
しかもその相手が、よりによって学園のアイドル橘紗月。
どういう人生だよ。
先月まで接点ゼロだった女子の部屋だぞ。
「どうしたの? 入って入って!」
「……ちょっと待て。心の準備が」
「大丈夫だよ! 散らかってないから!」
「そういう問題じゃねえんだよ……!」
橘がドアを開けた。
——白を基調とした、広い部屋。
勉強机。本棚。ベッド。ぬいぐるみ。
ベッドがある。当たり前だ。人の部屋にはベッドがある。
わかってる。わかってるんだけど、一瞬目が止まった。
やめろ。何も考えるな。
視線を逸らす。
窓際にテーブルと椅子。パステルカラーのクッション。棚の上に小さなぬいぐるみ。
なんというか……橘の空気がそのまま形になったような場所だ。
つまり完全に俺がいるべき空間じゃない。
どこを見ていいかわからない。
目のやり場に困るとはまさにこのことだ。
テーブルの横で、宮田があぐらをかいていた。
缶ジュースを片手に、こっちを見上げてくる。
「遅いじゃん、水野」
「お、お邪魔します……」
「緊張しすぎでしょ。顔赤いよ」
「……自覚はある」
部屋に足を踏み入れる。
どこに足を置いていいかわからない。
立ったまま固まっていると、橘がクッションをポンと投げてきた。
「はい、座って!」
「あ、ああ……」
テーブルの前に座る。向かいに宮田。隣に橘。
女子二人に囲まれている。逃げ場が完全にない。
「——で、それ何。水野が持ってきたやつ」
宮田の視線がケーキの箱に向いた。
「ケーキ」
「もしかして、手作り?」
宮田の目つきが変わった。
「水野くんが作ってくれたの! すごくない!?」
橘が嬉しそうに箱を開けた。
中には苺のショートケーキ。
見た目はプロには程遠いが、クリームの塗りは丁寧にやったし、苺もバランスよく並べたつもりだ。
「……ちゃんとしてんじゃん」
宮田が覗き込んで、素直に感心した顔をした。
「大したもんじゃ——」
「あんた、これ朝から作ったの?」
「……まあ」
「ふーん」
宮田がにやりと笑った。
この「ふーん」、絶対に裏がある。
「水野くん、ありがとう!」
橘が花が咲くような笑顔でこっちを見た。
心臓が跳ねた。
……こいつの笑顔、何回食らっても耐性がつかないのはなんでだよ。
「……誕生日なんだから当然だろ。手土産みたいなもんだ」
「手土産でケーキ手作りする人いないと思うけど」
宮田、頼むから黙ってくれ。
「切ろう切ろう! お皿取ってくるね!」
橘がパタパタと部屋を出ていった。
……残されたのは、俺と宮田。
橘がいないだけで、空気の温度が二度くらい下がった気がする。
「……宮田さん、朝から来てたんだよな」
「さんづけやめなよ」
「え?」
「宮田でいい。紗月の彼氏なんだから、他人行儀すぎるでしょ」
「……宮田」
「うん」
さらっと距離を詰めてくるな。橘とは別の意味で油断できない。
宮田が缶ジュースを傾けながら、じっとこっちを見た。
何か言いたそうな顔だったが——ドアが開いた。
「お待たせ!」
紙皿とフォークを抱えた橘が戻ってきた。
ケーキを三等分に切り分ける。
橘が一口食べて、目を丸くした。
「おいしい……! 水野くん、これほんとにすごいよ!?」
「スポンジ焼いてクリーム塗っただけだっての」
「いやおいしいって! ね、玲奈!」
「……うん。普通にうまい」
宮田が認めた。
認めたあとで、じっと俺を見た。
「水野さ」
「何」
「彼女の誕生日に手作りケーキ持って家まで来るの、気合い入りすぎじゃない?」
「……手土産だって」
「手土産ね」
宮田が口元だけで笑った。信じてない顔だ。完全に。
「紗月、嬉しそうじゃん。朝からずっとソワソワしてたよ」
「し、してないよ!?」
「してた。水野が来るって何回確認した?」
「……二回くらい」
「五回」
橘が黙った。
「自覚ないの、ほんと」
宮田が呆れたように笑って、二切れ目に手を伸ばした。
俺は逃げるようにケーキを口に押し込んだ。
……自分で言うのもなんだが、クリームの甘さはちょうどいい。
ケーキを食べ終えると、橘が棚の上からうさぎのぬいぐるみを持ってきた。
「水野くん、この子モモっていうの」
「……なんで俺に紹介を」
「だってモモにも教えてあげないと! ほら、ご挨拶!」
目の前にうさぎを突き出された。
「……よろしく」
つい言った。橘がぱっと笑う。
学校では見ないような、気の抜けた笑い方だった。
「紗月がモモ紹介するの、あたしの次にあんたが二人目だからね」
宮田がさらっと追撃してきた。
……宮田、頼むからその情報量で殴るのやめてくれ。
そのあとは、三人でだらだらと過ごした。
橘がスマホで動画を見せてきたり、宮田がそれにツッコんだり、俺が巻き込まれたり。
女子の部屋にいるという人生初の異常事態のはずなのに、気がつけば二時間以上経っていた。
◇
帰り際、玄関で靴を履いていると、橘が後ろから声をかけてきた。
「今日ほんとにありがとう! ケーキ、すっごくおいしかった!」
「……おう」
「また来てね!」
……なんだよ、「また」って。
坂を下りる。ケーキの箱はもう空だ。手は軽い。
なのに、なんか変だ。胸のあたりがざわついてる。
手土産だった。ただの手土産。
菓子折りでよかったのに、なぜか焼いた。
——「また」って言われたからって、別にどうってことない。
……どうってことない、はずだろ。