作品タイトル不明
329.【sideルーナ】白い髪飾り
「……ここ、は……?」
気が付くと、ルーナは見知らぬ場所に立っていた。
目の前には氷原を思わせる、障害物ひとつない白亜の地平が続いている。
空には、東雲のように淡く揺らめく空が見え、さらに見上げれば虚空のような夜空が広がっていた。
――ここは、幽世。
風も、音も、鼓動すらも遠のいていく静寂の中で、ただ己の存在だけが浮かび上がっていた。
「突然、連れてきてしまってすまない」
背後から、懐かしい声が 耳に届いた(・・・・・) 。
ルーナはゆっくりと振り返る。
そこに居たのは、白に染まりきった女性。
衣、髪、肌、瞳――その全てが光に溶けるほど純白で、まるで雪明かりが人の形を取ったかのようだった。
触れれば消えてしまいそうな儚さと、世界そのものを包み込むような温かさが同居している。
「…………」
ルーナの唇が震える。
けれど声にならない。
胸の奥に積もった想いが、言葉よりも先に溢れてしまっている。
「久しぶり――」
白亜の麗人が柔らかく微笑む。
しかしその眼差しには、どこかためらいが宿っていた。
そして、少し間を置いてから改めて言う。
「 初めまして(・・・・・) 、ルーナ」
その言葉に、ルーナは小さく首を振った。
「……『初めまして』では、ありませんよ」
ルーナが目を潤ませながら、ようやく言葉を紡いだ。
その言葉を聴いた白亜の麗人が目を見開く。
「…………ルゥ子」
ルーナの頬を涙が伝う。
彼女は迷うことなく駆け出した。
「ティターニア!」
呼びかけと同時に、ルーナはその胸へと飛び込む。
顔を埋め、堰を切ったように涙を溢れさせた。
「ごめんなさい……! 本当に、ごめんなさい……!」
嗚咽まじりの声が、白亜の世界に滲む。
「私……ティターニアのことを……忘れてしまっていました……! あんなに大切だったのに……絶対に忘れてはいけなかったのに……!」
震える手が、ティターニアの衣の裾を掴む。
「思い出した時、胸が締めつけられて……私……申し訳なくて……」
言葉にならない嗚咽が混じり、声が途切れる。
ティターニアは静かにその頭を撫でた。
「いいのよ、ルゥ子」
慈しむような声だった。
「忘れたことを、責めるつもりはない。だって、貴女はこうしてここまでやってきてくれたのだから」
彼女の指先がルーナの髪を梳くたび、白い光が淡く揺らめく。
「世界の時間を巻き戻したとき、ウチは自分の死を覚悟した。もう貴女と言葉を交わすこともできないだろうと思っていた。なのに、今こうして貴女の声が聞けている。こうしてルゥ子と触れ合えている。――それだけで、もう、泣きたくなるほど嬉しい」
ティターニアの声が震える。
「――ありがとう、ルゥ子。もう一度、ウチに逢いに来てくれて」
ティターニアの腕がわずかに強くなる。
二人の影が重なり、白の世界に光が差す。
夜空には、無数の星々が煌めいていた。
それは祝福の雨のように、柔らかい光が二人の上へと舞い落ちていく。
◇
涙が落ち着き、ようやく互いの呼吸が整ったところで、ティターニアは穏やかにルーナの背へと視線を向けた。
「……貴女は、いつもルゥ子の傍に居てくれたね。正直、こんなに律儀にウチの願いを聞き届けてくれるとは思ってなかった」
声に促されるように、ルーナも後ろを振り返る。
そこには、いつも寄り添ってくれていた 妖精(ピクシー) が在った。
ルーナはその意図をすぐに察し、小さく呟く。
「――【 妖精顕現(フェアリア) 】」
静かな呟きと共に、周囲の空気が震えた。
ピクシーの周囲に、無数の微光が集まっていく。
それは風のように流れ、花弁のように舞い、やがて一つの形を描いた。
光が収束したとき――そこには、白亜の少女が立っていた。
その見た目は、ティターニアの子どもであることがすぐに分かるほど似ていた。
ピクシーが自分の身体を確かめるように、手足を見つめる。
「……これ、が……わたし……?」
初めて身体を得たピクシーは、驚きと感動を入り混ぜたような声を漏らした。
ティターニアも、その光景に息を呑む。
「いつの間に妖精顕現まで……」
「ふふふっ。忘れたのですか? これはティターニアが私に教えてくれたんじゃないですか」
ルーナは小さく微笑む。
――『ルゥ子、ウチが最後に与えられるのは、今の妖精顕現の感覚だ。それは今後間違いなくルゥ子の力になる。だから、ウチが顕現した今の感覚を忘れないでくれ。――たとえ今日の記憶が無くなったとしても』
それは、世界の時間が巻き戻る少し前――オリヴァーの協力を得てティターニアが顕現した際、彼女がルーナに残した言葉だった。
忘却の彼方にあったその感覚を、ルーナは今、確かに思い出していた。
「……そう。ウチはきちんとルゥ子に何かを残せていたのね」
ティターニアが嬉しそうに笑みを浮かべながら、歩を進める。
彼女は歩み寄り、白亜の少女――ピクシーと向き合った。
優しく、その肩に手を添える。
「ピクシー、これまで、ずっとルゥ子を守ってくれてありがとう。貴女がいてくれたおかげで、彼女は孤独にならずに済んだ。本当に、感謝している」
ピクシーは少しだけ目を伏せ、けれどすぐに笑った。
「……感謝の言葉なんて、いらない。――わたし、……楽しかったから。……女王様、言ってたよね? 『わたしの感じるままに、自由に行動してもらって構わない』って……」
ピクシーが自分の心の内を見せるように静かに話し続ける。
「……わたしは、今までルーナと一緒にいろんなものを視てきた。……季節の移ろいも、人の笑顔も、涙も、良いものも、悪いものも、全部。……女王様がわたしを生んでくれなければ、こんな機会はなかった。……だから……女王様には感謝してる」
ピクシーが一度、言葉を止めると、満面の笑みを浮かべた。
「わたしを、生んでくれてありがとう、女王様。……ううん――お母さん」
その言葉を聞いたティターニアは、はっとしたように目を見開いた。
そして――静かに瞳を潤ませる。
「……そんなふうに、言ってもらえる日が来るなんて、思ってもみなかった……」
幽世の空が、静かに揺らいだ。
まるでこの世界そのものが、二人の言葉に涙しているかのように。
ティターニアの身体から、微かな光の粒が舞い始めていた。
「……ティターニア?」
ルーナが息を呑む。
ティターニアは静かに微笑みながら、自らの手を見つめた。
「……どうやら、そろそろ限界みたい」
その声は穏やかで、死を恐れる気配などどこにもなかった。
「ねえ、ルゥ子。――妖精の最期を、知っている?」
唐突な問いかけに、ルーナは寂しげに視線を落とす。
「……はい。死してなお、精霊の瞳という魔石が残り……人々の役に立つと、聞いています」
ティターニアは嬉しそうに目を細める。
「正解」
そう言うと、ティターニアはそっとルーナに近づき、彼女の頭へと手を伸ばした。
その指先が、ルーナの髪飾りに触れる。
「妖精はね、消えたあとも精霊の瞳として、誰かの明かりになるの。――だから、これでいいの」
囁きながら、自らを構築していた魔力をゆっくりと髪飾りへと流し込む。
淡い光が滴り、髪飾りの色が少しずつ白みを帯びていった。
最後には、白亜色へと変わる。
ティターニアはその光を見つめながら、懐かしむように微笑んだ。
「……邪神に敗れて、仲間や友を一人ずつ見送って……傍観者でいると決めたウチは、数百年もの間、ずっと孤独だった。でもね、そんなウチを救ってくれたのが――ルゥ子、貴女だったのよ」
ルーナの頬を涙が伝う。
「ティターニア……」
「ウチは本当に感謝している。忘れないで。――ウチは、これからもずっと貴女を見守っている」
ティターニアの声が、風のようにやさしく震えた。
ルーナは涙をこらえながら、必死に頷く。
「……はい」
ティターニアは次に、ピクシーの方へ顔を向けた。
「ピクシー、貴女はもうウチの願いに縛られる必要はない。これからは、自分のために――好きなように生きなさい」
ピクシーは目を瞬かせ、そして晴れやかに笑う。
「……わかった。……思いっきり、自分の生を謳歌する」
その言葉に、ティターニアは満足げに頷いた。
だが次の瞬間、ふと何かを思い出したように小さく息を洩らす。
「……あぁ、そうだ。果たしていない約束があったね」
「約束……?」
ルーナが首を傾げる。
ティターニアは少し照れたように微笑んだ。
「ウチがどうして、貴女のことを『ルゥ子』と呼んでいたのか、その理由をまだ話していなかったでしょう?」
ルーナが目を瞬く。
「――『子』という字はね、『 一(はじまり) 』と『 了(おわり) 』から成っているの。つまり、それは一つの生――〝一生〟を意味する字だと、貴方の先祖であるステラから教えられた。彼女はね、その字を自分の子どもに授けたいと願っていたけれど……叶わなかった。だからウチは、その想いを継いで、ステラの子孫である貴女を『ルゥ子』と呼んでいたのよ」
静かな声だった。
けれどその言葉には、数百年の想いが込められていた。
ルーナは涙をこぼしながら、それでも微笑む。
「……それなら、ティターニアはご先祖様の願いを叶えてくれたということですね」
「ふふ……そんな大げさなものでもないけどね」
ティターニアが冗談めかして笑う。
その身体がもうほとんど光に溶けていた。
ルーナが慌てて手を伸ばす。
けれど、その手はティターニアの身体をすり抜けてしまう。
「……ティターニアっ!」
声が震え、涙が頬を伝う。
「私は――ティターニアや、ご先祖様の想いを抱えて、これからも自分の人生を精一杯生きます! 貴女たちに恥じない人生を送ったあと、天国で再会したときに胸を張って言えるように……! だから――!」
ルーナは嗚咽に声を詰まらせた。
ティターニアはルーナを見つめ、そっと目を細めた。
「……そうね。今日という日は、特別な日でもあるもの」
「…………特別……?」
「ええ。今日は十月一日。つまり――ルゥ子の誕生月。そして、二十歳を迎える節目の日。旧き時代では、二十歳からが大人とされていたの。だから、今日で貴女は正式に大人になったのよ。だから、もうウチが居なくても、大丈夫」
その声は、慈しみに満ちていた。
ルーナの頬を新たな涙が伝う。
「ティターニア……」
ティターニアは小さく笑みを浮かべ、静かに頷いた。
「ルゥ子……ピクシー……。――貴女たちは、ウチの誇りよ。二人の幸せを、天の上からいつまでも願っているわ」
そう言い残して、ティターニアの身体が光となって散っていった。
白亜の羽のような粒子が、星空に溶ける。
静寂の中、ルーナはゆっくりと髪飾りに触れた。
そこには、淡く光る白の宝石――精霊の瞳が宿っていた。
ピクシーがそっとルーナの隣に寄り添う。
涙が頬を伝いながらも、ルーナは微笑んだ。
「……ありがとう、ティターニア。私は貴女から学んだ教えを――必ず未来へ繋げます」
幽世の空には、星々が煌めいていた。
それはまるで、天から見守るように――別れを祝福へと変えて、静かに二人を照らしていた。