軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

5 壊れかけた心

翌日。

私は王都へと、馬車に揺られていた。

窓の外を流れていく景色は曇っている。まるで今の私の心みたいに。

──出発前。

やはりセシリーは私を説得した。

『貴方が不幸になるのは嫌よ。兄の元に戻るって約束して。ねえ、離婚したって、レリアーナと同じ。惨めな運命が待ってるだけよ!』

泣きそうな顔だった。

……でも。

レリアーナは、最後にはカミーユの元へ戻れたじゃない。

愛されて、彼女は許された。

それのどこが惨めなの?

四年間。

私は一度だって、あの人の心を掴めなかった。

妻だったのに。

隣にいたのに。

毎日笑いかけていたのに。

結局、最後まで“他人”のままだった。

──私の方が、ずっと惨めでしょう?

そう思ったのに、口には出せなかった。

私はただ、「ありがとう」とだけ告げて、セシリーと別れた。

きっと今頃、離婚証明書はカミーユに届いている。

邪魔者はいなくなった。

だから彼は、レリアーナに求婚して、

あの子の父親になる。

王都までは数時間。

けれどその道中、私はずっと“あの声”から逃げられなかった。

『パパ……』

耳元で囁かれる幼い声。

目を閉じるたび、白い小さな影が浮かぶ。

……私は、もう壊れてしまったのかもしれない。

王都に着くと、荷物のほとんどを換金した。

残ったのは、古びたトランクが一つだけ。

馭者(ぎょしゃ) に手間賃を渡して馬車を帰らせた。

それから歩いて、駅に向かった。

一度くらい汽車に乗ってみたかったのだ。

どこか遠くへ行きたかった。

知らない場所へ。

行けるところまで行って。

その先は……その時考えればいい。

汽車の旅は、思っていたほど優雅ではなかった。

蒸気の轟音。

線路の軋み。

絶え間ない振動。

窓の景色を眺める余裕もないまま、私は国境の町で降ろされてしまった。

他国へ入るための許可証を持っていなかったからだ。

小さな町だった。

数時間後の、王都へ戻る汽車を待つしかない。

私は駅前の古びた食堂へ入り、軽食を注文した。

中にはお客が数人、静かに食事をしている。

温かなスープの湯気を見つめながら、ぼんやり耳を澄ませる。

『パパ、あの人、いなくなったね』

また、あの声。

「ええ。私は遠くまで来たの」

そう答えた、その瞬間だった。

『ああ、あの人は関係ないからね』

今度は。

カミーユの声が聞こえた。

「え……?」

椅子を鳴らして立ち上がる。

鼓動が一気に速くなる。

私は必死に辺りを見回した。

いるはずのない人の姿を探して。

「カミーユ、どこ?」

胸が苦しくて、呼吸が浅くなる。

すると突然、肩をぽんと叩かれた。

「カミーユ?!」

振り返った瞬間、希望は砕け散った。

そこにいたのは、見知らぬ青年だった。

細身で、知的そうな眼鏡を掛けている。

茶色の髪。優しげな顔立ちだ。

「大丈夫ですか?」

青年は私の目を覗き込んでいた。

まるで本当に、私を心配しているみたいに。

「あの……なんですか?」

警戒を隠せずに尋ねると、青年は軽く頭を下げた。

「あ、私は医者のルノーと申します。怪しいものではありません」

「お医者様?」

「ええ、貴方の様子が気になって、声をおかけしました」

私の……様子?

なにか、変だったのかしら。

「もしよければ、お話をお聞かせ願えませんか?」

見ず知らずの男の人に?

私の話を?

離婚したことを?

頭の中で声がすることも?

そんなの――。

『騙されちゃだめよ。悪い男だわ!』

今度はセシリーの声。

「あ……っ」

思わず頭を抱える。

やめて。

お願いだから、静かにして。

すると周囲の客たちが、ひそひそ声で囁き始めた。

「ブツブツ呟いて、なんだか異常だな?」

「暴れ出さないといいが」

なんてこと!

私は異常者扱いされている。

「店を出て、私の医療施設まで行きましょう」

ルノーは穏やかな声でそう言った。

けれど私は反射的に叫んでいた。

「失礼な! 私は正常です!」

「分かってます。ただ、私のお勧めの場所は、ここよりも落ち着けると思うのです」

否定しないその言い方は、とても優しかった。

でも、私を止める声が響く。

『メイベル、ダメよ!』

『部屋で大人しくしているんだ!』

セシリー。

そして、カミーユ。

頭の中をぐるぐる掻き回される。

「貴方達の命令はもうたくさん!」

私は叫んでいた。

店の中が静まり返る。

けれどルノーだけは驚かなかった。

彼は自然な仕草で私のトランクを持ち上げると、静かに微笑む。

「行きましょうか」

その声に泣きそうになる。

責めるでもなく。

哀れむでもなく。

ただ、手を差し伸べるみたいに。

私は小さく頷いた。

──これが。

心を壊しかけた私と、青年医師ルノーとの出逢いだった。