作品タイトル不明
5 壊れかけた心
翌日。
私は王都へと、馬車に揺られていた。
窓の外を流れていく景色は曇っている。まるで今の私の心みたいに。
──出発前。
やはりセシリーは私を説得した。
『貴方が不幸になるのは嫌よ。兄の元に戻るって約束して。ねえ、離婚したって、レリアーナと同じ。惨めな運命が待ってるだけよ!』
泣きそうな顔だった。
……でも。
レリアーナは、最後にはカミーユの元へ戻れたじゃない。
愛されて、彼女は許された。
それのどこが惨めなの?
四年間。
私は一度だって、あの人の心を掴めなかった。
妻だったのに。
隣にいたのに。
毎日笑いかけていたのに。
結局、最後まで“他人”のままだった。
──私の方が、ずっと惨めでしょう?
そう思ったのに、口には出せなかった。
私はただ、「ありがとう」とだけ告げて、セシリーと別れた。
きっと今頃、離婚証明書はカミーユに届いている。
邪魔者はいなくなった。
だから彼は、レリアーナに求婚して、
あの子の父親になる。
王都までは数時間。
けれどその道中、私はずっと“あの声”から逃げられなかった。
『パパ……』
耳元で囁かれる幼い声。
目を閉じるたび、白い小さな影が浮かぶ。
……私は、もう壊れてしまったのかもしれない。
◇
王都に着くと、荷物のほとんどを換金した。
残ったのは、古びたトランクが一つだけ。
馭者(ぎょしゃ) に手間賃を渡して馬車を帰らせた。
それから歩いて、駅に向かった。
一度くらい汽車に乗ってみたかったのだ。
どこか遠くへ行きたかった。
知らない場所へ。
行けるところまで行って。
その先は……その時考えればいい。
汽車の旅は、思っていたほど優雅ではなかった。
蒸気の轟音。
線路の軋み。
絶え間ない振動。
窓の景色を眺める余裕もないまま、私は国境の町で降ろされてしまった。
他国へ入るための許可証を持っていなかったからだ。
小さな町だった。
数時間後の、王都へ戻る汽車を待つしかない。
私は駅前の古びた食堂へ入り、軽食を注文した。
中にはお客が数人、静かに食事をしている。
温かなスープの湯気を見つめながら、ぼんやり耳を澄ませる。
『パパ、あの人、いなくなったね』
また、あの声。
「ええ。私は遠くまで来たの」
そう答えた、その瞬間だった。
『ああ、あの人は関係ないからね』
今度は。
カミーユの声が聞こえた。
「え……?」
椅子を鳴らして立ち上がる。
鼓動が一気に速くなる。
私は必死に辺りを見回した。
いるはずのない人の姿を探して。
「カミーユ、どこ?」
胸が苦しくて、呼吸が浅くなる。
すると突然、肩をぽんと叩かれた。
「カミーユ?!」
振り返った瞬間、希望は砕け散った。
そこにいたのは、見知らぬ青年だった。
細身で、知的そうな眼鏡を掛けている。
茶色の髪。優しげな顔立ちだ。
「大丈夫ですか?」
青年は私の目を覗き込んでいた。
まるで本当に、私を心配しているみたいに。
「あの……なんですか?」
警戒を隠せずに尋ねると、青年は軽く頭を下げた。
「あ、私は医者のルノーと申します。怪しいものではありません」
「お医者様?」
「ええ、貴方の様子が気になって、声をおかけしました」
私の……様子?
なにか、変だったのかしら。
「もしよければ、お話をお聞かせ願えませんか?」
見ず知らずの男の人に?
私の話を?
離婚したことを?
頭の中で声がすることも?
そんなの――。
『騙されちゃだめよ。悪い男だわ!』
今度はセシリーの声。
「あ……っ」
思わず頭を抱える。
やめて。
お願いだから、静かにして。
すると周囲の客たちが、ひそひそ声で囁き始めた。
「ブツブツ呟いて、なんだか異常だな?」
「暴れ出さないといいが」
なんてこと!
私は異常者扱いされている。
「店を出て、私の医療施設まで行きましょう」
ルノーは穏やかな声でそう言った。
けれど私は反射的に叫んでいた。
「失礼な! 私は正常です!」
「分かってます。ただ、私のお勧めの場所は、ここよりも落ち着けると思うのです」
否定しないその言い方は、とても優しかった。
でも、私を止める声が響く。
『メイベル、ダメよ!』
『部屋で大人しくしているんだ!』
セシリー。
そして、カミーユ。
頭の中をぐるぐる掻き回される。
「貴方達の命令はもうたくさん!」
私は叫んでいた。
店の中が静まり返る。
けれどルノーだけは驚かなかった。
彼は自然な仕草で私のトランクを持ち上げると、静かに微笑む。
「行きましょうか」
その声に泣きそうになる。
責めるでもなく。
哀れむでもなく。
ただ、手を差し伸べるみたいに。
私は小さく頷いた。
──これが。
心を壊しかけた私と、青年医師ルノーとの出逢いだった。