作品タイトル不明
4 白い影
最初から、実家に頼るつもりなんてなかった。
ただ。
離婚したことを報告したかった。
それだけだったのに。
……泣かない。
だってもう、引き返せない。
屋敷を飛び出すようにして馬車へ乗り込んだ。
すると。
「待て!」
兄の声が響く。
「荷物を下ろせ。後で届けてやるから、手ぶらで帰って、謝罪するんだ!」
……苦笑した。
兄は、私が本当にイベール侯爵家へ戻るのか疑っているのだ。
……当然よね。
離婚届まで出した女が、素直に元の屋敷へ戻ると思えるはずがない。
私は、いつものように穏やかな笑みを貼りつけた。
「ご心配はいりません。他に行く当てもないから、戻ります」
「カミーユに、必ず離婚は取り消して貰うのだぞ」
「ええ。ではお兄様、御機嫌よう」
馬車が静かに動き出す。
私は窓の外を見つめながら、小さく息を吐いた。
誤魔化すことには慣れていた。
苦しくても。
泣きたくても。
カミーユの前で四年間、私はずっと笑ってきたのだから。
妻……いいえ、
“物分かりの良い従者”として。
そうして私は、行き先を告げる。
向かうのは、義妹セシリーの嫁ぎ先――カロライム伯爵領。
◇
翌日。
突然の訪問にもかかわらず、セシリーと伯爵様は私を迎え入れてくれた。
義父母とは入れ違いだったらしい。
「ちょうど今朝、両親は帰ったのよ」
「そうだったのね」
久しぶりの再会に、最初は自然と会話も弾んだ。
「まあ! レリアーナが戻って来たですって? どの顔で……」
セシリーは呆れたように眉を寄せる。
私は紅茶のカップをそっと置き、あの差出人不明の紙を見せた。
「これ、お兄様に見せたの?」
私は首を振った。
「それで、来る前に、神殿で離婚届を出してきたの」
そう。
これで私は、ようやく自由になった。
セシリーなら、この気持ちを分かってくれると思っていた。
けれど――。
「どうして勝手に離婚なんかしたの? 白い結婚なんてイベール侯爵家の恥だわ! レリアーナなんか追い出せばよかったじゃないの! 貴方が女主人なんだから!」
彼女の態度は一変した。
……ああ、分かってもらえなかった。
四年間。
私は何よりもカミーユを優先してきた。
無視されても。
突き放されても。
機嫌が悪くても。
病を抱える彼に逆らうことなど、私には許されなかった。
セシリーだって、その事情を知っていたはずなのに。
「お兄様の病気だって回復したんでしょう? 遠慮なんかいらないわ。きつく叱ってやればよかったのよ! 私なら、レリアーナに汚水を掛けてやったわ! 黙って受け入れるなんて、貴方どうかしてるわ!」
責める言葉が、次々に降ってくる。
私は黙って膝の上で指を握り締めた。
結局、私はどこへ行っても責められるのだ。
夫にも。
家族にも。
友人にも。
「セシリー。私とカミーユの結婚の成り行きは貴方だって知っているじゃない。カミーユの愛する人が戻って、彼は受け入れた。それがすべてなのよ」
やっとの思いでそう告げると、セシリーは苦い顔をした。
「メイベル。そんな弱気で離婚して、貴方これからどうするつもり? うちで面倒は見れないわよ?」
……セシリー
……違うの。
世話になりたいわけじゃない。
ただ少しだけ。
「辛かったわね」と言ってほしかっただけなの。
「貴方の出産のお祝いに来たのよ。可愛い赤子にも会えてうれしかったわ。貴方の世話になる気など無いわ。直ぐにお暇するから、安心して」
そう言って、私はセシリーへ微笑みかけた。
泣きそうな時ほど、私は綺麗に笑える。
「責めているのではないわよ? 離婚は取り消したらどうかしら? レリアーナは両親が追い出すに決まってるわ。大丈夫よ」
「そうね」
私は頷くしかない。
きっと、セシリーが正しい。
お父様も。
お兄様も。
皆、同じことを言う。
我慢しなさい。
戻りなさい。
耐えなさい、と。
……間違っていたのは、私なのだ。
なぜ私は、離婚しようなんて思ってしまったのだろう。
カミーユを愛していた。
どんな形でも、彼を支える覚悟をしたはずなのに。
どうして……
『パパ……』
ふいに、幼い声が耳の奥で響いた。
私はびくりと肩を震わせる。
あの声。
忘れたくても忘れられない。
耳を塞いでも、頭の中で何度も響く。
『パパ……抱っこして』
「やめて」
聞きたくない。
私は、この声から逃げたいのに。
みんな、私に「戻れ」と言う。
──どうして?
「メイベル、大丈夫?」
セシリーの声で、はっと現実に引き戻された。
気づけば、また唇を噛んでいた。
「ちょっと疲れたみたい。休ませてもらっていいかしら?」
「ええ、部屋を用意したから休んでね。きつく言い過ぎたわ。ごめんなさい」
「いいえ、ありがとう……」
微笑んだつもりだった。
けれど、ちゃんと笑えていた自信はない。
◇
部屋へ通され、ベッドへ横になる。
柔らかな寝具に身体を沈めた瞬間、張り詰めていたものが一気に崩れそうになった。
疲れた。
そう思いながら目を閉じかけた。
静寂の中、
ダークブラウンの天井に、白い影が見えた。
ぼんやりした輪郭が、ゆっくり形を成していく。
……小さな女の子。
無邪気に笑いながら、こちらを見下ろしている。
『パパ……この人だれ?』
心臓がぎゅっと締めつけられた。
私は――。
「……私は誰でもない」
「関係ない人……」
そう呟くと、涙が静かに枕へ落ちた。