作品タイトル不明
恋多き青年の自覚
化粧室での一件以来、クリストフが過保護になった。
彼は相当怒り心頭のようで、即座に加害者側の身元を調べ上げて公表し、場が王家主催の夜会だったことから、彼ら彼女らには厳しい罰が与えられたという。
エステルには、一切の情報が遮断されている。婚約者の心情を理解して、エステルも特に探ることはしなかった。
そしてクリストフは、婚姻式の日程の大幅な前倒しを提案し、半年後には式を挙げることになった。
しかも、婚姻の手続き自体は現在進行形で進んでいて、数日中には完了する予定だ。
「いいの? もうしばらく、今のままでもいいのよ」
好きな人を恋焦がれる目で見ていられるのも、まだ婚約段階だからだ。
婚姻してしまえば、一夫一婦制かつ不貞に厳しいこの国では、非難の的になってしまう。
他に好ましい人がいることは、つい先日も見かけたので知っている。確か、伯爵家のご令嬢だ。
恋仲にはならなくとも、ちょっといい雰囲気なのも知っている。
問いかけたエステルに、なぜか非常に顔を強ばらせたクリストフは、噛みしめるようにゆっくり首を振った。
「今まで、甘えきってしまってごめん。僕はエシィに不誠実だった」
「そんなことはないわ。とても大切にしてくれたもの」
「それこそないだろう……」
「あるわよ。蔑ろにされたことなんて、一度もないもの」
「エシィ、それ本気……?」
なぜ引き気味なのか。エステルは首を傾げつつ頷く。
本当に本心から、大切にされてきたと思っている。今も。
ただ、恋をし合わないだけ。
恋心の有無と、幼い頃から積み重ねてきた信頼とは、必ずしもイコールではないのでは。
「わたしはあなたが大切。あなたも、わたしが大切。それでいいじゃない」
「……愛だなと、思ったんだよ」
ぽつりと零された意外な単語に、エステルは目を見開いた。
麗しい翠色がゆらゆらと揺らめいて、どこか切実さを滲ませて見つめている。
「僕は、きみに恋をしているんじゃない。愛しているんだ」
「…………」
「憧れのようなものだったんだ、僕にとっての恋は。ハッと目を引いて、どこででも探してしまう、でも一過性の熱」
エステルは、ただ静かに耳を傾けた。
苦しそうなクリストフには申し訳ないが、ちょっと面白い気もしてくる。
いい歳した男女が、愛だの恋だのを語り合う。もうすぐ婚姻という時に。
「でも、きみは常に隣にあって、いつも触れているから、探し回ることもない。あまりに自然だったから、特別そうと意識したことがなかったと思う」
「それは、わかるわ」
「でも……きみが、初めて、僕の元から去ろうとした」
化粧室で首にナイフを当てた時のことだろうか。
確かにあの時、クリストフは可哀想なほど真っ青だった気がする。エステルは頷いた。
「怖かった。恐ろしかった。もしそうなったら、後を追おうと思った」
「え……」
ちょっと待ってほしい。エステルは、そんなつもりで命を賭けたわけではない。
焦って立ち上がったエステルに笑い、クリストフはそっと華奢な両手を包み込んだ。