作品タイトル不明
わたしとあなたの、愛だの恋だの
「きみがいない世界では、呼吸の仕方もわからない」
エステルは、麗しい翠色を見つめながら、頬が熱くなるのを自覚した。
美麗なお顔で、なんて甘やかな台詞を吐くのだ。この婚約者は。
「ごめんね、エシィ。嫌なところばかり見せた。婚約者がよそ見しているなんて、不快だったよね」
全然気にしてない、なんて言っていい場面でないことだけはわかる。
エステルは賢く沈黙を選び、淡蒼の髪を撫でてあげた。
甘えるようにすり寄る年上の男に笑いながら、少し背伸びをして撫で続ける。
「きみがそんなに小さいことも、細いことも、全然気づかなかった」
悔やむように呟いたクリストフの長い腕が、エステルの身体を柔らかく抱きしめる。
今まで、こんな風に触れ合ったことはない。心臓が壊れるほど暴れて、息が苦しい。
「許さなくていい、エシィ。ただ僕は、きみの夫になりたい」
「もちろんよ」
「うん……きみは、 そ(・) う(・) あ(・) る(・) べ(・) き(・) だから頷くんだろう。だけど、僕は き(・) み(・) だ(・) か(・) ら(・) 望んでいると、覚えておいてね」
「…………」
クリストフの言は、よくわからない。
エステルにとって彼との婚姻は、もうずっと昔から訪れると知っていた将来だから。
色っぽく首を傾げた長身が屈み、そっと額に口づけを落とす。
驚いて見れば、わずかに潤んだ翠色が幸福そうに微笑んでいた。
「愛してるよ、エシィ。いつの日かきみの心に届くよう、努力し続けるね」
「……ねえ。わたしは、あなたが大切よ」
そう。たとえば、どうしても恥ずかしくて呼べない愛称を、こっそり練習するくらいには。
彼と歩いていく人生を、一瞬も疑ったことはないのだ。
これを愛と呼ばずに、何をそう呼ぶのか。エステルにとってのそれは、信頼と同じ自然さでここにある。
「あなたとのこれからを、楽しみに感じているの」
きっと、穏やかで柔らかな日々だと、信じている。
つらいことや苦しいことも、クリストフと一緒に乗り越えていける。だって、今までもそうしてきた。
「わたしには、あなたしかいないわ。あなたもね」
他の誰かに興味をそそられたことも、目を惹かれたこともない。
ただ、色っぽく麗しい恋多きこの男を、一番近くで眺めていた。
エステルには持ち得ない厚情さや和やかさを見ているのが、とても幸せだったから。
「まったく……無自覚にそういうことを言うよね、エシィは」
仕方なさそうに笑った婚約者の指が唇を掠めて、わずかに瞳が躊躇って、諦めたように離れる。
その一連の仕草がおかしくて、エステルは踵を目いっぱい上げて薄い唇に口づけた。
ぎょっとするクリストフは、今まで見たことがないほど顔が赤くて、やっぱりおかしくて笑ってしまう。
心臓がバクバクとうるさいけれど、こんな顔を見られるなら勇気を出してよかった。
「……エシィ、婚姻前だから」
「そうね?」
「あんまり……ええと、こういうことはやめよう」
抱きしめながら何を言っているのか。
また笑ったエステルに、悔しいような苦しいような表情のクリストフがため息をつく。
「…………覚えといてよ、ほんと」
「ふふ。勉強し直しておくわね?」
「エシィ!」
慌てて身体を離したクリストフの腕を惜しみながら、エステルは思う。
────大丈夫。大丈夫よ、クリフ。
わたしたちの愛だの恋だのは、そう軽々しいものではないわ。
十年以上の年月をかけて、成長や変化を共に経験しながら、確かに積み上げてきた重厚さがある。
だから、わたしたちは大丈夫。
人生の終わりの日、きっとあなたとの歩みこそ幸せだったと、わたしは笑うのでしょう。