作品タイトル不明
人気者との婚約は事件ありき
あら、まずいことになったわ。
夜会の化粧室の個室で、エステルは小さくため息をついた。
人気者の婚約者を持っていると、些細な嫌がらせや嫌味などは日常的にある。
だから、可能な限り一人にならないよう気をつけているし、できればクリストフから離れない。
とはいえ、化粧室だけは例外だ。
用を済ませて一度個室から出たところで、度々嫌がらせを仕掛けてくる集団と鉢合わせ、数の力で個室に逆戻りさせられた。
向こう側から押さえているのか、扉が開かない。
「早く連れていらっしゃい! やっと一人になったのよ!」
「最奥の休憩室を押さえていますわ」
「あちらも複数人でしょう? 簡単よ」
どうやら、彼女たちは邪魔者の排除に本気になったらしい。会話から、人を使って貶めるつもりだと気づく。
エステルを傷物にすれば、クリストフが手に入ると思っているのか。
────謎理論だわ……。
優しい彼のことだ。エステルの傷を気遣うことはあっても、捨てるなど想像もつかない。
まして、加害者の女性に焦がれる翠色を、どうしてもイメージできなかった。
とはいえ、傷つけられるなんて論外である。
エステルは小さなバッグから護身用のナイフを取り出し、躊躇なく手の中に握り込んだ。
人の気配が増え、扉が開く。
瞬間、エステルは利き手を振りかぶった。
侵入した男が伸ばしてきた腕を、ナイフが撫でる。急な攻撃に驚いたのか、男が大声を上げて飛び退いた。
次いで、いくつかの手が伸びてきて、エステルは無言のままナイフを振る。
護身術以上の技術を持っているわけでも、特別に訓練を重ねているわけでもない。
ただの不意打ちと、かつてないほどの必死さの成果である。
男たちが大袈裟に叫んだり物に当たったりするため、化粧室は一気に騒がしくなった。
だが、所詮は男と女。状況はすぐに不利になり、地面に引き倒されてしまう。
「逃がさないわよ」
エステルは強気に呟き、努めて落ち着いた仕草でナイフを首に当てた。
ぴたりと動きを止めた男たちと、その後ろで焦った表情をしている嫌がらせ集団を、ひたと見つめる。
誇りを守ってここで死んだら、この人たちは侯爵令嬢を殺した罪に問われる。
穢されるくらいなら、潔く散るのも一興。ただし、堕ちるならば道連れだ。
クリストフ以外の男に、触れられてなるものか。
しばしの沈黙を破ったのは、何かを殴る音と知らない悲鳴。
エステルの迫力に押され気味だった男たちや嫌がらせ集団も、はっと我に返った。
「エシィ! エシィ、いる!?」
目を見開く先、拳を腫らした婚約者が飛び込んできて、エステルは呼吸を忘れた。
彼の方も、ぺたりと座り込んでナイフを首に当てるエステルを見て、息を呑む。
「……エシィ、それを僕に渡して」
「…………」
「エシィ?」
ゆっくりと近づいてきたクリストフが、膝を折って目線を合わせる。
今さら緊張や恐怖が襲ってきて、エステルの全身が震えた。
危険だと思ったのか、柔らかな手つきがナイフを取り上げて、強ばった頬を撫でた。
「遅くなってごめんね、エシィ」
「……」
「一人にしてごめん。よく頑張ったね」
エステルは何も言えず、あたたかな腕に抱きしめられるまま、瞼を閉じた。
だから、婚約者の翠色が凍えるほど冷え切っていたことも、睨めつけられた周囲が震え上がっていたことも、気がつかなかった。