作品タイトル不明
番外編【エイダンの学園生活】1(ep.52から)
冬の寒さも和らぎ春の訪れを感じるある日。
「えぇっ!」
ペンシルニア邸、談話室にシンシアの声が響いた。
マリーヴェルはお人形遊びをして、エイダンはマリーヴェルの相手をしていた。ライアスの腕の中ではたっぷりとお乳を飲んで満足そうにソフィアが微睡んでいた。びくっ、と小さな両手が上がる。
三人の視線がシンシアに集中した。
「シンシア、どうしましたか」
シンシアの手には、先ほど執事から渡された手紙が握られていた。
「入学式が……ない……?」
シンシアが愕然として呟く。思わずライアスとエイダンが顔を見合わせた。
手紙の紋章は、エイダンが来月から通う学園の校章だった。ということは、それは学園からの案内状
だろう。
ライアスはソフィアを抱いたまま、その案内状を覗いてみた。よく見かける定型文がそこにあるだけだった。
入学の手続きが滞りなく行われ、来月から通うという事、そして持ち物や注意事項等。
「入学式、というのは……?」
シンシアは深刻な顔でライアスを見上げた。
「ないんですか?入学式」
シンシアは学園に通ったことがないから知らなかった。当然あると思っていたのは、前世の記憶のせいだ。
「親が見守る中、小さな子供たちが入場して、並んで挨拶したり、学園長が挨拶したり」
「入場……?」
「お歌歌って、ああ、こんなに大きくなって、お友達出来るかしら、とか不安と期待にホロリする、っていうイベントです」
ライアスの戸惑ったような表情を見て、シンシアは初めて気づいた。
そうなんだ……どこの学校でも、そんなイベントはないんだ。
「それは、その……どのような」
それでもライアスは何とか理解しようとしていた。シンシアのいう事が本当によくわからないが。分からないからこそ、言っていることを理解したいと思った。
シンシアが望むのなら、その通りにすればいい。
「学園のお話ですよね」
「いえ……いいの」
しゅう、と風船がしぼむようにシンシアの勢いもなくなった。
それではいけない。
ライアスはシンシアの手を握った。
「親が見守る、という事は、参列するという事ですね。学園に入る初日に親が参列する場を設けてはどうでしょうか」
「——待って。待って待って」
シンシアが慌てて手を振った。ライアスの手が離れないから、一緒にぶんぶん揺らされる。
「今までやってなかったのに、突然、しかもこんなに直前になってそんな」
「問題ありません。やりましょう」
「いや……」
「母上が一緒に来るの……?」
エイダンは不思議そうに首を傾げた。
「僕、タンでいいよ」
エイダンは学園に入るという事がどういう事か、家庭教師からも乳母のダリアからも聞いていた。
どんなことを勉強して、どんな風に過ごすのか、どんな子供たちが通うのか。
母親が付いてくるような場所じゃないことも分かっている。
「あ。タンで、とか言っちゃだめだよね」
エイダンがいけない、と口を押さえる。
「僕の侍従はタンだから。タンがずっと側にいてくれるって聞いてるよ?タンも昔通ってたから、よくわかってるし。タンがいいよ」
「そ、それは、そうよね。心配しないで、付いて行ったりしないわ」
ソフィアが眠くなってぐずり始めた。
エイダンがさっと駆け寄ってきてライアスに両手を伸ばす。
「父上、ソフィアをください」
「……………」
ライアスは一瞬だけ逡巡してから、エイダンに渡した。
ライアスの腕の中だとすっぽりと収まって小さく見えるソフィアだったが、エイダンもソフィアをあやすのは上手だ。8歳にしては大きめの体格だし、マリーヴェルの時からよく抱いていたから、もう抱く姿勢にも安定感がある。
そのままゆらゆらと揺らしながら歩いていると、ソフィアは大してぐずることもなく目を閉じた。
ソフィアもエイダンの事は大好きなようだ。
「シンシア」
ソフィアが眠って、ライアスが改めてシンシアに向き直った。
「遠慮することはありません」
「してないわ」
シンシアは苦笑した。
「私が学園に行っていないし、未だに、実は知らなかったって事が時々あるのよね。だからちょっと驚いただけ」
そりゃもちろん残念だけど、学園の様子はタンに——聞けるだろうか。シンシアは寡黙でほとんどしゃべらないタンの事を思い浮かべた。
いや、聞けなくても、元気に通ってくれたらそれでいい。
「制服の採寸をしなくちゃいけないわね」
ケープなので注文すればすぐ届くと聞いて、まだ準備をしていなかった。
案内状の準備物品を見て、シンシアはよし、と頷いた。
小学校の入学準備を思い出す。入学式がないのは残念だけど、それでも一つ節目だと思うと感慨深い。
「楽しみね、エイダン」
「んー」
エイダンは生返事を返す。
「きっと楽しいわよ。新しい友達ができるかしらね」
「うん。交友関係を広げないとね」
その回答に、シンシアは、ん、と言葉に詰まった。
エイダンは時々、真面目を通り越してこういう面白みのない——何というか、子供らしくなく実に貴族らしい言い方をする事がある。
義務的で。そうじゃなくてね、と言いたいものの、何と言っていいのか難しい。本人も無理をしているわけではなさそうだから、余計に。
ソフィアを抱いて、可愛いなあ、とすりすりしている様子を見れば……まあ、大丈夫かなとも思えるのだけど。
夕食前の訓練所。春になってきて、日が長くなってきたせいか、まだ明るい。
春と秋は体が動かしやすい。とは言え、訓練を終えると服はすっかり汗で濡れていた。
汗を拭きながら荒くなった息を整え、エイダンは片付けを始めたタンに並んだ。
新しい友達……。
エイダンはふと、シンシアの言葉を思い出していた。
「タンはさ、学園でできた友人っている?」
「……………」
タンは少し考えるように上を見た。それから首を傾ける。
「俺は、友人を作りに行った訳ではないので」
「そっか」
タンは父親は貴族だけど、母親は異国の人だし、社交で人脈を作る必要もない。
タンもエイダンと同じく剣術一筋だ。きっとそれ以外のことは必要最低限で済ませたんだろう。
エイダンもそうしたかった。時折出かけていくティーパーティーや親同士の付き合いで高位貴族とは既に顔見知りで、これ以上仲良くなる必要もないかなと思っている。何より、剣術以外の話にエイダンは興味がない。
しかし……シンシアがああ言ったって事は、新しい友達を作って欲しいと言う意味なのかな、とも考える。
「僕も、学園なんて行かずにずっとこうやっていたいけどさ」
学園に行けば絶対に訓練の時間は減ってしまう。
「いつもより1時間早く起きればいいんです」
タンはそう言うけど、1時間ではそれ程のことはできない。かといってそれ以上早起きすると夜中だ。シンシアが許すとは思えない。
「体力づくりしろって、ダンカーに言われてるのに」
「毎日学園まで、走って通いますか」
「汗臭くならない?」
タンがそれ以上言わないので、適当に言ってたんだな、と思う。
昔から一緒に遊んでもらっていた侍従だからなのか、タンはエイダンに適当に返事をすることが、度々ある。見上げても片付けに集中しているようだった。
「——坊ちゃん」
片付けを終えてから、タンがエイダンと目線を合わせて膝をついた。
「たった2年ですから、あっという間です」
「まあね」
「顔見知りも多いでしょうし、俺もずっと側にいますから」
力強く頷かれる。
「——あのさ。僕、別にナーバスになってるわけじゃ」
「隠さなくてもいいんですよ坊ちゃん」
8歳は背伸びしたい、難しいお年頃だ、ちゃんと気にかけてやりなさい、と、そういえば今朝父親に言われたのを、タンは思い出した。
「環境が変わるのにドキドキするのは普通の人間がなることなんです。俺はなかったですけど。——夜は寝れてますか」
「いや、だからさあ」
たまに喋るとこれだ。
そうだな。タンをみていると、もっとたくさんの人と付き合いをした方がいい——のかもしれない。
そう思い理由をつけながら、エイダンは学園の準備を始めた。