軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

46.

マリーヴェルの部屋をノックしたものの、返事はなかった。

二回ノックをして、返事がなくて、アルロはここで初めて今が夜だと気づいた。

夜の九時前。まだぎりぎり寝る時間ではないが、用もないのにふらりと訪ねる時間ではない。

夕食後に訪ねたのは、十歳の誕生日の時以来である。

しまった。何か用事がないだろうか——そう思って、いや、取り繕って用事を作るなんて、侍従失格だと考える。

今まで真面目にやって来たアルロはそう思い直し、明日また出直そうと思った時。

「——アルロ?」

マリーヴェルが廊下の向こうから小走りに駆けてきた。どうやらお風呂から出てきたらしい。ペンシルニアの浴室はすぐ横に化粧室があって、女性らはそこで身支度まで済ませてから出て来る。なので、髪も乾かしてもらって、あとは寝るだけ、という格好だった。

薄手のワンピースが走るたびにゆらゆらと揺れる。銀の髪がまだ少しだけ濡れていて、いつもより艶やかに見えた。アルロは直視できなかった。頭を下げるふりをして、そのまま自分の足元を見た。

「どうしたの?こんな時間に」

足元を見ていたのに、身長差のせいで自分をのぞき込むマリーヴェルとばっちり目が合ってしまった。

息が止まるかと思う。

マリーヴェルは、心配そうにアルロを見つめた。

「何かあった?」

この心配そうな目には見覚えがあった。アルロがまだここに来たばかりの頃。アルロが自分を傷つけることで何とか自分を保っていた頃。温かく抱きしめてくれた、あの時の優しい金の瞳だ。

「いいえ・・・」

アルロは泣きそうになって、思わず唾を飲み込んだ。

この気持ちを自覚してから思い出す、マリーヴェルのアルロへの一つ一つが、どれほど尊くて奇跡のような事だったのか。

「すみません、こんな時間に。——何でもないんです。ただ、会いに来ただけです」

「えっ・・・」

マリーヴェルは驚いたようだったが、すぐににっこりと笑った。そのままドアに手を伸ばし、開けてくれる。

「じゃあ、ちょっとお話しない?今日、何があったとか」

「いえ、もう、遅いので——」

「いいじゃない。まだ眠くなかったの。眠くなる話、して?」

こう言うとアルロが断れないと分かって、言ってくれている。もしかしてアルロが話をしたいと思っていることまで察して、こういってくれているのだろうか。

——こういう所が、愛おしい。

ふわりと脇を通り抜け、漂ってくる石鹸の香りも。どうぞ、とにこりと笑って招き入れてくれる笑顔も。

「果実水があるの。入れるわ」

夜のマリーヴェルの部屋は慣れないので、マリーヴェル自らもてなしてくれるらしい。

どれもこれもが、愛おしくて、つらいほどだった。胸は痛いくらいだし、油断すると泣きそうになるし。世の人たちは、こんな感情に耐えているんだろうか。

それでも、何とか平静を装ってマリーヴェルと話すことはできそうだ。触れ合いさえしなければ、侍従としての仕事はこれまで通りできそうだ。

そう思って部屋を進み、いつもの机の上を見て——ふと、アルロは足を止めた。

机の上には白銀に少し青色の混じった、見覚えのある花がケースに入って飾られていた。

「——姫様、これ」

「あぁっ・・・!」

マリーヴェルがまだ空っぽのグラスを持ったまま近づいてきて、身体でそのケースを隠した。

「み、見た・・・?」

「その花・・・」

アルロが驚いて言った台詞に、マリーヴェルは観念してゆっくりとケースから離れた。

もう一度見た花は、やはり見覚えのある形をしていた。一部折れてしまったところまでそのままだ。

アルロがマリーヴェルの十一歳の誕生日に贈った花束だった。

マリーヴェルにもらった馬をすっかり乗りこなし、遠乗りを繰り返すうちに、かなり険しく切り立った崖に群生する美しい花々を見かけた。白銀に輝くその花はマリーヴェルの風に揺れる髪のようで、あまりの美しさに目を奪われた。調べてみると、それはマドンナリリーという花の亜種で、幸せをもたらす幻の花と言われていた。確かに、前人未到の崖である。開花時期もたった三日ほどという事だったから、アルロは能力を使って、鷹に手伝ってもらって花を採ってマリーヴェルに贈った。

あれからずいぶん経つのに、しおれてもいない。ケースは魔石が敷かれていた。

「これ・・・もしかして、品質保持の・・・」

半永久的に植物を保管できる魔道具である。高価な薬草などに使われる。通常は企業規模で使われるもので、その価格は計り知れない。

「こんな高価な物、姫様、お持ちだったんですか」

「まあ、ね。お小遣いで買ったの」

「お小遣い・・・」

お小遣いで買えるレベルの品物ではない。五年分くらいのお小遣いになるんじゃないだろうか。日頃から散財していたマリーヴェルがそんなにお金を貯めていたとも思えなかった。

アルロが不思議そうにしていたのが分かったのだろう、マリーヴェルが補足した。

「お勉強をちゃんとやるっていう条件で、前借りしたの。ちゃんとやらなくなったら取り上げられる約束」

そういえば誕生日辺りから、マリーヴェルが課題を積極的にこなすようになってきたと思っていた。シスイの教え方がうまいのかと思っていたが、そんなからくりがあったとは。

「そこまでして、大切にしていただいて・・・」

貴重な花だと、とても喜んでくれていたとは思うが。

「毎年、採ってきますよ」

「いいの。これがいいの。——だってアルロ、この花を見て、私を思い出してくれたんでしょう?」

マリーヴェルが少し照れたように言った。渡したときのアルロの台詞まで、覚えていたのだ。

「なんでもない時でも、アルロが私を思い浮かべてくれた花だもの。そのまま、取っておきたいの」

「姫様・・・」

マリーヴェルは再びグラスに果実水を入れに行った。マリーヴェルが離れて行って、ガラスケースの横に置かれた箱に目が留まる。蓋は空いていて、中には見覚えのあるものばかりが入っていた。

アルロの贈ったしおり、その時の包装紙、リボン。街に行ったときのお土産、中にはよく覚えていないが、押し花だったり絵だったり、字だったり。きっと自分がマリーヴェルに贈った何かだろう。

「あー!置きっぱなし!」

戻って来たマリーヴェルが叫んだが、すぐに観念したように椅子に座った。コン、とグラスを置かれて、アルロも対面に掛ける。

「お風呂に入ってる間にレナが気を利かせて出してくれるのよね。あー、恥ずかしい」

毎晩これを眺めながら眠るのがマリーヴェルの日課だった。片付けをちゃんとしないせいで、毎朝レナが片付けてくれていた。だったらもう出しときますね、という配慮でこうなった。いつもの見慣れた光景だから、ガラスケースに気を取られてうっかりしていた。

「——ひいた?」

マリーヴェルは心配そうにアルロを窺った。上目遣いのその目に、アルロは別の意味で固まった。

「ごめんなさい。——気持ち悪かった・・・わよね」

「いえ!そんなことないです」

「気を遣わないで。兄様にも、いい加減にしろって言われるの。——ごめんなさい、負担に思わないでほしいの」

アルロが使ったハンカチとかを持ってた時はエイダンに取り上げられた。良かった、それを入れていなくて。マリーヴェルはしょんぼりしながら、そんなことを考えていた。

「マリーヴェル様」

名前を呼ばれて、マリーヴェルははっとして顔を上げた。

こんなことをしてはいけません、とでも言われるかと覚悟して顔を上げたが、アルロはじっとマリーヴェルを見つめていた。その黒くていつも感情を抑えた静かな目が、今は、熱をもって自分を見つめているような気がした。