作品タイトル不明
34.
夜の森の風は涼しくて心地よかった。夜闇に目を慣らしながら進んでいるから少し時間がかかる。
濡れた岩場に足を滑らせないように気を付けながらアルロは川辺に立った。
ふと、少し離れた所に人の気配を感じる。
「——誰」
ざ、と砂利を踏む音がする。
「やあ」
聞き覚えのある声だった。手元の明かりを向けると——ヘルムトだった。
「突然来ちゃってごめんね」
「つけてきたんですか」
「君と一対一で話がしたくて」
神出鬼没だ。
相変わらず旅装ではあるが、野営に向いているとは言い難い軽装だ。馬は見当たらなかった。
「この前は、公爵様がすごい圧でちゃんと伝えられなかったからさ」
「僕は貴方と話すつもりはありません」
「あの時何が悪かったのか考えてみたんだよ」
聞こえなかったのだろうか。ヘルムトはううん、と考え込んでいるような仕草を見せた。
「自分の話ばっかりしたからよくなかったかなって。だから、君の話を聞かせてくれないか」
「・・・・・」
今までにないタイプかもしれない。会話がしづらい。
話すつもりはないと言ったのに、話を聞かせてくれと言われても。
「調べてみても、ファンドラグの孤児院にいたところからしか分からなくて。でも君は間違いなくシャーン国民だろう?お父さんはシャーン国軍の中級官吏だった」
「父は死にました」
「そうだったね・・・。お悔やみ申し上げるよ」
アルロの沈黙をどう受け取ったのか、ヘルムトは労わる様に続けた。
「それだけ濃い漆黒の髪と眼だと、さぞかしシャーン国では生きづらかっただろう。それでなのかな。祖国にいい印象がなくて、帰りたいとは思えない?」
アルロは返す言葉が見つけられなかった。
確かに、シャーン国にはいい思い出はない。けれどそれよりも、ペンシルニアが自分の場所だと思っているから、離れるなんて露ほども考えられない。それだけだ。
マリーヴェルの側を離れるなんてありえない。
「わかるよ。私だって迫害され、色々と失った」
わかる・・・?アルロは不思議に思ってヘルムトを見た。
その視線を受け、ヘルムトが力強く頷く。
「だからこそ、私と一緒に、もう何も奪われない国を作——」
「僕と貴方は別の人間で、経験したことも全く違うのに、何が分かるんですか」
「あ・・・」
ヘルムトは急に勢いをなくした。
「すまない。失言だった。——傲慢な物言いだった。私は、君の苦しみも何も、知らないのに」
随分と急に態度が変わった。
本当に申し訳なさそうに言われて、一瞬抱いたヘルムトへの嫌悪感のようなものがあっという間にしぼんでいく。——どうにも、不思議な男だった。
「分かった気になって言われるのが一番腹が立つってのに、まさか私がこんなことを口にするなんて・・・。同郷の、同じ能力者に会ったのは初めてでさ。思ってた以上に舞い上がってたみたいだ。本当に、ごめんな」
「いえ・・・」
心底後悔しているように言われる。調子がくるって、アルロはそれだけ言った。
さっさと立ち去ろう。そう思って水を汲もうと岩場にしゃがんだ。
「——なあ、君は、祖国の窮状を知っているか?今、シャーン国がどれほど逼迫した状況か」
ヘルムトの言葉に反応は返さず、アルロは水筒に水を入れた。水はヒヤリと冷たかった。
「五万!!」
そのまま歩き出そうとして、ヘルムトの大きな声につい、足を止める。
「去年一年間で死んだ国民の数だ。これがどれほどの数字か、君にはわかるだろう」
一年間で、五万。苛烈な戦争でも起きたような数だ。
「そのほとんどは平民だよ。圧倒的に足りないのは食料。貧しい年寄り子供、弱い者から飢えて死んでいく。街には浮浪者があふれ、謂れのない罪で多くの民が虐殺された。国情が他国に漏れることを恐れ、王家は国を出ようとする者を次々に虐殺した。死体があふれて、墓場が足りなくなるほどだ。腐敗した死体をまとめて街の外れで焼くしかない——地獄だよ」
ヘルムトの言葉は、情景が目に浮かんでくるようだった。
「一部の者だけが利権を貪り、贅を尽くし、国を導くはずの王家は誰が国王となるかに夢中で民草の悲鳴などまるで聞こえていない」
ぎり、とヘルムトは歯を食いしばった。
シャーン国の革命軍は元は田舎の、数人の集団だったという。それが数年で、本当に国家を取れるほどの規模にまで成長した。時代がそうさせたのかもしれない。それでもきっと、余程の信念がないと成せないんだろうと思った。
「自分たちが有利に立つために、汚い金を集めることに必死で、そのせいで死体が日々山積みに積みあがっていっている。——我々革命軍が占拠しなければ、絶滅した町はもっと多かっただろう」
強い思いは伝染する。ざわりと胸を撫でるような、引き込まれるような不思議な感覚にアルロは戸惑った。
「あの国を救えるのはもう、我々しかいない」
「ご大層な演説だね。そのご高説の中に、アルロの犠牲が必要ってところがなければ、拍手を送ったところだよ」
暗闇に紛れ、木々の間から現れたのはエイダンだった。
エイダンは不機嫌そうな声だった。表情も今までになく固い。明かりも持たずにここまで来たようで、木の幹に体を預けていた。
「君は・・・ペンシルニアの」
ヘルムトの問いには答えずエイダンは続けた。
「アルロがペンシルニアで幸せに暮らしている事はどうなるの?何が祖国だよ。我々?アルロの居場所はここだ。今日だって野営訓練をやって、今夜は僕と楽しく話をして夜更かしする予定だった。そこに水を差しておきながら、いけしゃあしゃあと。まったく、気に入らないね」
「エイダン様・・・」
「アルロがペンシルニアで、ファンドラグで。今まで、並大抵じゃない努力の上に積み上げてきたものを、あっさり捨ててさあ行きましょうってよく言えたものだ。厚顔無恥ってあんたみたいな人のことを言うんだよ」
「恥知らずなのはわかっているよ。私も必死なんだ。国を救うためなら——」
「それ。それだよ、民の命を引き合いに出すだなんて。巧みに問題をすり替えるなよ。いいか、民が苦しんでるのも、犠牲になっているのも、全て現王家の責任だ。アルロには何の責任もなければ義務も発生していない」
アルロは目が覚めた思いだった。
この男の言葉にいつの間にか感化されそうになっていた。流石にペンシルニアを離れることは考えられないが、それでもヘルムトの言葉に引き込まれた。
「あの」
アルロはヘルムトに向き直った。
既に何度も伝えたのに来るから意味はないかもしれないが。
「・・・教育も、居場所も、ペンシルニアがすべてくれたものです。言葉にできないほど、かけがえのないものを沢山もらったんです。僕はここを離れるつもりはありません」
「大事なことだから僕からももう一度言っとくよ。アルロはペンシルニアから離れるつもりはないから!」
「エイダン様・・・」
きっぱりと念押ししてくれた。
ヘルムトは鷹揚な雰囲気のままだ。エイダンにきつく言われても特に怒る様子もなく、うーん、とまた唸った。
「分が悪いようだから、退散するよ。——どうもうまくいかないね。これはきっと、私が悪いんだろうな・・・」
そんなことをぶつぶつと言いながら、また闇の中に消えて行った。
「何あの人」
「あ、シャーン国の反乱軍の——」
「知ってる。そういう事じゃなくて。嫌な奴かと思ったら、なんだろ。へらへらして・・・掴みどころないな」
「敵意がないんでしょうね」
「敵意、悪意のない言葉の方が乱暴だよ」
アルロはエイダンをまじまじと見た。
「深いですね、エイダン様」
何か過去にあったんだろうか。——まあ、自分より人付き合いは余程熟練者だから、何かしらあったのだろう。
「言ってみただけ。ね、帰ろう」
「はい。あの・・・大丈夫ですか?」
暗闇を歩くのが怖くてアルロが水を汲みに来たのに。木の幹に寄りかかっているのは、動きたくないからのような気がしてきた。
「お一人でここまで来たんですか」
「だってアルロが・・・いなくなって、こっちに人の気配がしたからさ」
「怖くなかったですか」
エイダンは急に情けない声に変わった。
「怖いよ!ほんと、勘弁してほしいよ!あそこの木のうろがさ、もう人の顔にしか見えなくて。なんかチーチキ言ってるの、あれ何の声?オレンシアが言ってたお化けの鳴き声なんだっけ」
「チージ・・・」
「いい!言わないで。でも目を開けないと歩けないし。もう嫌だよほんと」
「あ、ありがとうございます」
こんなに取り乱しているエイダンは初めて見る。声も裏返っていた。
本当に怖い話が苦手なんだ。それなのに、ここまで来てくれた。
「手を繋ぎますか?そしたら、目を閉じたまま歩けますよね」
「え、いいの?でも僕、手汗すごいんだけど」
「ふ、ふふ・・・」
さっきまでの緊張感が嘘のようで、アルロは思わず声を上げて笑った。
それから慌てて口元を押さえる。
「あ、これはエイダン様を笑ったわけでは」
「いいよなんでも、繋いでくれるなら」
エイダンはそう言って自分の手をごしごしと服で拭いて、ずい、と差し出した。もうすでに目は閉じている。
アルロはまた笑いがこぼれてしまい、声に出さないよう気を付けながらその手を握った。