作品タイトル不明
9.乳母ヤーレ
アレックスの部屋についてもアレックスはアルロから降りなかった。膝の上に乗ったまま絵本を見始める。
マリーヴェルがやや不機嫌にそれを眺め、ソフィアはその隣で絵本をのぞき込む。
「そ、ら、か、ら、お、お、き・・・」
「おおきな、ほしが、です」
アルロが指で指しながら読むと、ソフィアがまた読み始める。
「アルロに読んでもらえばいいのに」
そうすればさっさと読み終わるのに。マリーがやれやれと口を挟みながら自分も本を読んでいる。
アルロの声は優しくて、じわりと胸に沁み込んでくる。その声で朗読を聞けたら、マリーヴェルは手元の本を読むふりをして聞き入るだろうに。
「あ、これしってる!ふ、でしょ」
「そうです。王子殿下、すごいですね」
そう言ってアルロがアレックスの頭を撫でた。
ついそれを見つめてしまっていたのだろうか。はたとアルロの目が合って、マリーヴェルは自分がどんな顔をしていただろうかと思って固まった。
アルロはにこりと微笑んだ。
「懐かしいですね、姫様。姫様が小さい時も、よくこうして絵本を読んでいました」
「えっ・・・そ、そうだったかしら」
「はい。姫様は僕の膝で眠ってしまわれたこともあって——」
「ち、小さい時ね!」
「はい」
それはもちろん、とアルロが頷いた。
マリーヴェルは顔が赤くなっているような気がした。
アルロにとって、自分はただの主人だ。それ以上でも以下でもなく、本当にただの主人。だからこんな自分を大切にして褒めて、仕えてくれている。少しの恋愛感情もないから、一ミリも意識されない。
アルロが向けてくれるのはいつも親愛の情だ。マリーヴェルがアルロに恋愛感情を向けていると知られる訳にはいかなかった。
自分がひどくよこしまな人間になったような気にもなる。
——ああ、やだやだ。
マリーヴェルは気持ちに蓋をするように、また読書を再開した。
「——アルロ」
アルロの後方からそっと話しかけてくるのは、アレックスの乳母のヤーレだった。かなり年配の熟練の乳母で、三人いる乳母のうちの筆頭ともいえる。
今はヤーレの番らしく、部屋に大人はヤーレだけだった。
「はい」
アルロはアレックスを抱いているので、首だけ回してそちらを向いた。
「王族の頭を撫でるのは、不敬ですよ」
「あ・・・そうなんですね。失礼いたしました」
ヤーレは子爵家の出身だから、礼儀作法に精通している。これまでも度々アルロに指摘をしてくれている。
シンシアからは、まだ慣れていないから大目に見てねと言われているが、ヤーレにとってアルロの色々な所作は目に余るものばかりだった。
アルロが平民だと聞いたら余計に気になってしまう。いくらペンシルニアに雇われているからといって、平民が侍従になって、内城を自由に出入りするだなんて。
今も、膝に乗せるなんてとんでもないと思うが、その上頭を撫でたから驚いてしまった。
平民が、王族の頭を撫でるだなんて。
それでも感情的に指摘することはしない。感情の抑揚なく、努めて平静に言ったつもりだ。
「ヤーレ、いじわる!」
アレックスがヤーレを睨みつけた。
「王子殿下、なんてことを」
「ヤーレきらい。アルロがいい!」
「殿下」
「あっちいって!」
ヤーレがアレックスの前にしゃがみ、目線を合わせた。
「嫌いですとか、あっちいってとか、そういったことをすぐに言ってはいけません」
ヤーレは穏やかに話しているが、アレックスはかなり不服そうだった。
この年の頃には、乳母との関係はとても親密だ、本来。
母親に代わる乳母が気に入らないとなると、アレックスはなかなかに大変だな、とマリーヴェルは冷静に二人の関係性を眺めていた。
「殿下は王族なのですから。アルロに対してと、陛下に対してと。それぞれ同じにはいきませんよ。さあ」
差し出したヤーレの手をアレックスが激しく振り払った。バシン、と子供の手にしては大きな音が鳴る。
「あ・・・大丈夫ですか」
アルロが心配して声をかけるが、ヤーレはそれには答えず、アレックスに更に手を伸ばした。
「さあ、王子殿下、こちらへ」
「いやー!!」
アレックスの脇にヤーレが手を差し込んだものだから、アレックスはとっさにアルロの服を握りしめ、ヤーレの腕に噛みついた。
「あっ・・・」
アルロが驚いて声を上げる。ヤーレは動じずにポケットから何かを取り出し、それをそのままアレックスの口の中に入れた。
アルロも、マリーヴェルもソフィアも、ヤーレのその素早い動きに呆気に取られた。
ヤーレはそのままアレックスの口を布で結んで、軽々と抱き上げてアルロから取り上げた。
「んー・・・!んうー!!」
アレックスは口の中に何かを入れられて、暴れ出す。ヤーレは慣れた仕草でそれを抑え込むように抱き締めた。
「王子殿下、暴れるといつまでもこのままですよ」
「な・・・何を、してるんですか」
アルロが驚きつつも立ち上がった。ヤーレは視線はアレックスに向けたまま、力づくで押さえ込んでいた。
「王子殿下には噛み癖があるのです。危険ですので、離れてください」
「ま、待ってください。危険って・・・そんな、無理矢理」
アレックスは顔を真っ赤にして暴れ出した。それでも所詮は四歳の力だから、ヤーレの力を以ってすると押さえ込まれている。
「噛む力がとてつもなく強いので、危険です。こうなったら手がつけられないので・・・外の乳母をもう一人呼んできてちょうだい」
言われてアルロはちらりと扉を見て、またアレックスを見た。アレックスは声にならない叫びをあげ、暴れて、はあはあと息苦しそうに暴れている。
アルロは驚きつつも、何とか首を振る。
「できません、王子殿下を離して差し上げてください」
「部外者は口出しをしないでちょうだい!こうなったら、どんどんエスカレートするの。怪我をするわよ!」
アルロは力づくでアレックスを奪おうかと思った。しかし、暴れている子供とそれを抑え込む乳母の間に入って、間違っても怪我をさせたら大変だ。
どうすれば。
「離れるのは貴方よ。アレックスから手を離しなさい」
マリーヴェルがよく通る声で叫んだ。ばしん、と読んでいた本を机に叩きつける。
「命令よ、離れなさい!」
ヤーレが険しい顔で、それでもゆっくりと手を離した。床に置かれる形になり、アレックスは身を捩って動き回った。口に縛られた布を取ろうと暴れる。
「後悔なさいますよ」
「アレク、アレ——!」
ソフィアが駆け寄ろうとするのを制して、アルロはアレックスを抱き寄せた。暴れて手足がぶつかったが、とにかく口の布を外す。信じられないことに、中には布で包んだ石のような硬いものが入っていた。
「王子殿下、もう大丈夫です」
アルロが抱きしめても、アレックスは顔を真っ赤にして手足をばたつかせた。殴られて蹴られて、アルロはそれを黙って受け止めた。
ゆっくりと背中を撫でる。
「びっくりしましたね、殿下。もう大丈夫です・・・」
アレックスは全身真っ赤になっていた。額は汗のせいで髪が張り付き、涙と涎と鼻水で、もう顔はぐちゃぐちゃだ。
理不尽な扱いに憤慨して、力の限り反抗して、それも叶わず、何も言えず。悔しくて苦しくて、泣きながら暴れるしかない。
そんなアレックスを見たら、アルロは抱きしめるしかできなかった。
「う、ううぅ・・・」
暴れるのがようやく治まってくると、今度はアレックスはぼろぼろと涙を流した。顔がぐちゃぐちゃになって、体を揺らして、唸りながら泣いていた。
少し落ち着いてくると、ソフィアがアルロの抱きしめているその上からそっとアレックスを抱きしめた。アルロは腕を広げて、二人を抱きしめる形になった。
「——貴方、こんなやり方、イエナ様もご存じなの?」
マリーヴェルが信じられないといったように尋ねたが、ヤーレは全く悪びれる様子はなかった。
「第一王子殿下のことは、このヤーレにお任せくださっています」
「口を縛ることまで許可しているの?信じられないわ」
「方法は一任すると言っていただいております。安全のために口を布で覆う事は申し上げています」
「安全のためって・・・」
マリーヴェルが怯んだあとをアルロが引き継いだ。
「安全ではないと思います」
「何ですって」
「口の中に物を詰めて縛るのは、恐怖を煽ってより混乱させるだけです。暴れるのも無理はないと思います」
「貴方は何も知らないからそんなことが言えるのよ。普段はもっと——」
「どんな理由があっても、こんなこと、許されないことです」
アルロはポケットからハンカチを取り出して、アレックスの濡れた顔を拭った。まだ顔は赤く目も充血して、唸るように泣いていたが、取り敢えず拭かせてはくれる。
「泣く子の口を塞げば良いというような、そんな安易な対処法で、殿下の気持ちも無視して——これが必要な措置だなんて、とても思えません」
「言う事を聞かない子供は鞭を打つものでしょう?」
あまりにもあっさりと言うものだから、アルロは目を見開いた。その表情を見てヤーレは長い溜息をつく。
「——それを知らないで育てられたと言うことは、随分と優しい方針の元、伸び伸びとされていたようね」
食事を抜かれる、閉じ込められる、鞭で打たれる。それはごくごく一般的な躾の方法だった。少なくとも、ヤーレの幼少期は。知らないのはアルロが平民だからだろう、そう思った。
「王子殿下はいずれ国王陛下となり国を統べるお方ですから。甘やかす訳にはいかないのです」
「・・・・・」
「口に石を詰められて育てられた子供が良い王様になるの?おかしいでしょ」
マリーヴェルがアレックスの口に入れられていた石入りの布を手に拾い上げた。
「思い通りにいかなければ力づくで、こういうことをすればいいって教え込むの?恐ろしいわね」
「・・・・・」
「何が恐ろしいって、こんな暴力がまるで正しいかのように貴方が話す事だわ。他の乳母も知ってるのよね」
マリーヴェルが言う事は本質をとらえているように、アルロには思えた。幼少期から力で人を操作することを教えているようなものだと言っているのだ。
「アルロ、私の言うこと、間違ってる?」
「姫様の仰る通りです。国王陛下になられるお方だからこそ、仁愛をもち世を治めることが必要なはずです」
「貴方は知らないから・・・!」
「それでも、ヤーレ様のなさっている事は、力で支配しようとしているだけのように思います」
悪意はないのかもしれない。職務に忠実になるあまり、何とかしようと思ったのだろう。
けれどその結果は、どんどん歪んでいったんじゃないだろうか。
「無力な四歳の子供にとっては、ただの暴力だと思います」
アルロに指摘されたことでヤーレは屈辱だったのかもしれない。それでもマリーヴェルに対して反論が許されないのは貴族として身に染みている。
不満そうな顔をしたまま、しばらくマリーヴェルとアルロを見比べていたが、やがて黙って部屋を出て行った。