作品タイトル不明
三人目の管理者
庭だった。
地下十層に、庭があった。
花が咲いていた。草が生えていた。光源がわからないのに、全体がやわらかく明るかった。
《構造透視》を起動した。
壁の構造が、他の層と全然違う。石の組み合わせ方が違う。圧力の通り道が違う。設計者が——ここだけ、特別に作り直している。
少女が椅子から立ち上がっていた。
ソフィア・エレシュキガル。
銀色の髪。褐色の肌。二十二歳にしては細すぎる体つき。目が大きく——金色の瞳に、獣のような警戒の色が残っていた。
「……来ないで」
美鈴を通じて、声になった。
俺は止まった。
ひなたが、俺の前に出た。
「こんにちは」
英語だった。
ひなたの英語は上手くない。発音が妙だった。でも、ちゃんと言葉になっていた。
「私は天野ひなた。あなたを傷つけに来たんじゃないです」
ソフィアが固まった。
「……日本人?」
「そうです。あなたは?」
「……」
「名前、教えてもらえますか」
ソフィアが少し顔を伏せた。
「ソフィア、と言います。ここで生まれた、わけじゃないですが——もうここしか知らない」
美鈴が日本語に訳した。
---
時間をかけた。
急かさなかった。
俺とレオンは壁際に立ったまま、ひなたとソフィアの会話を聞いた。美鈴が通訳した。凛花が近くの花壇の縁に座った。
ひなたは余計なことを言わなかった。ただ、話を聞いた。
「何年、ここにいるの?」
「正確にはわかりません。三年か、四年か」
「一人で?」
「……一人で」
「大変だったね」
「大変かどうか、比べる対象がなかったです」
ひなたが微笑んだ。日本語で「そっか」と言って、美鈴に訳させた。
ソフィアが少し目を細めた。
泣きそうな顔じゃなかった。むしろ、見たことのない表情を観察するような顔だった。
俺はそれを見ていた。
---
三十分後。
ソフィアが話し始めた。
白衣の男について。
美鈴を通じて言葉が来た。
「数ヶ月前から、上層に人間の気配がありました。最初は気のせいかと思いましたが——ある日、声が聞こえてきました。管理者権限を渡せ、と。私のスキルが必要だ、と」
「Dr.ファウスト」とレオンが言った。
「白衣の男でした。仮面をしていました。会ったわけじゃない。通信のような——声が、壁を通じて響いてきました」
俺は《構造透視》を上方に伸ばした。七層、八層。
汚染が、また少し広がっていた。
「彼のスキルを、何と言っていたか覚えていますか」とひなたが聞いた。
「《構造模倣》、と言っていました。何でも複製できると。ただ——」
ソフィアが少し間を置いた。
「本物には届かない、と自分で言っていました。だから、私のスキルを——原型として使いたいと。《構造創造》の本物を。それさえあれば、完全な模倣ができるようになると」
「全部持とうとしている」
レオンが言った。
「管理者の三つのスキル。それを揃えて、何をするつもりか」
「……言っていました」とソフィアが続けた。「『管理者権限は人類全体のものだ。一部の人間が独占すべきではない。解放する』と」
「解放」
俺は繰り返した。
「三つのスキルを自分に集めて——それを、人類に解放する、という理屈か」
「私には意味がわかりませんでした。でも、怖かったです」
---
ソフィアに説明した。
ゲートネットワークのこと。管理者システムのこと。世界中にダンジョンが存在しているという、彼女が知らなかった事実を。
美鈴が丁寧に訳した。
ソフィアは聞いていた。途中で何度か日本語で聞き返した。美鈴が答えた。
ひなたが水のボトルを渡した。ソフィアが受け取った。
「……世界に、他にも管理者がいるんですか」
「二人います」
俺が答えた。
「一人は俺。もう一人は、この男です」
レオンが頷いた。
「レオン・ヴァルトシュタインです。ドイツの探索者です」
「ドイツ——」
ソフィアが繰り返した。
「ドイツって、どこですか」
ひなたが、スマホで地図を出した。ソフィアが初めて地図を見るような顔で覗き込んだ。
「世界は——こんなに広いんですね」
「知らなかったんですか?」
「本で読んだことはあります。でも、見たことはなかったです」
---
凛花がソフィアの隣に座ったのは、その頃だった。
何も言わなかった。
花を見ていた。
ソフィアも何も言わなかった。
二人は、しばらく黙ったまま並んでいた。
美鈴が俺に小声で言った。
「通訳、必要ないみたいですね」
「ああ」
人間が一番伝えられるものは、言葉じゃない場合がある。
---
「見せてもらえますか」
俺が言った。
「あなたのスキルを。《構造創造》を」
ソフィアが俺を見た。
少し考えた。
そして——手を伸ばした。
何もない空間に、向けた。
スキルが起動した。
光だった。白い光。細い糸のような。それが空気の中を編み始めた。何かを作るように。
俺は《構造透視》を全開にした。
光が——形になった。
花。
白い花。
五枚の花弁。細い茎。わずかな葉。
落ちなかった。
宙に浮いていた。
空気の中に、ある。
俺はその構造を見た。
本物だった。
幻影じゃなかった。細胞構造があった。水分が循環していた。根がないのに、生命活動を維持する何かが内部にあった。
「……本物だ」
思わず言った。
「本物ですか?」とひなたが聞いた。
「細胞がある。生きている。何もないところから——構造を作り出している」
ひなたが口を開けた。
「化け物じゃないですか(いい意味で)」
ソフィアが、美鈴を通じた訳を聞いて、小さく笑った。
初めて笑った。
---
その時、床が揺れた。
小さな振動。
一秒後に、また来た。
《構造透視》を伸ばした。
七層。
汚染が——一気に広がっていた。
六層にまで届いていた。
速度が変わっていた。
「ナビ」
俺が呼ぶと、ゲート接続のインジフェイスが開いた。
「汚染の進行速度が変化しています。先ほどまでの試算では余裕がありましたが——現時点では六層への到達まで、六時間以内です」
「意図的に加速させているということか」
「その可能性が高いです」
レオンが立ち上がった。
「時間がなくなった」
「ああ」
俺はソフィアを見た。
ソフィアが宙の花を、まだ持っていた。
「この庭が、どうなるかわかりますか」
美鈴が訳した。
ソフィアが花を見た。
「……消える、ということですね」
「今すぐ動く必要があります」
「わかりました」
ソフィアが花を、凛花に手渡した。
凛花が受け取った。
美鈴が短くアラビア語で訳した。ソフィアが頷いて、日本語で言った。
「行きましょう」
でも、俺にはわかった。
《構造透視》が見ていた。汚染は六層で止まらない。このままでは——
「時間がない。今すぐ動かないと、この庭も——」