作品タイトル不明
少年
10歳くらいの少年が大きな木の根元、僅かに乾いた草の上にハンカチを敷いて座っている。
少年は、茶色い髪に緑色のリボンを飾り真っ白いドレスを着た女の子を、そのドレスを汚さないように細心の注意を払って、大事そうに膝の上に乗せていた。
女の子はダイモス公爵家の次女リリア 5歳。
少年はリリアの後ろから手を回し、リリアの膝に乗せた本を読み聞かせている。
読み聞かせていたのは、可愛い絵本などではなく経済学の入門書であったが。
キラキラ輝く瞳で自分を見上げる膝の上のリリアが、少年は可愛くて堪らなかった。
ここ 2年くらい断続的に続く月に一回有るか無いかの短い逢瀬。
少年は、王太子の末の息子の遊び相手としてかなりの頻度で王宮へ通っていた。
リリアの方は月に一度くらい、父親に付いて王宮へ来るのだが、父親の目を盗んでは王宮探検に出てしまう。
父親は気を利かせたメイドが面倒を見ているのだろうと思い、メイド達は誰も頼まれていないからリリアが部屋を抜け出しても探すことはない。
最初は偶然だった。
王宮の廊下を供も付けずにちょこちょこ歩く女の子。
気になって声を掛ければ、にぱっと向日葵みたいな笑顔が返って来た。
最初は相手が誰かなんて分からなかった。
お前はいずれこの家を継ぐ人間なのだからと言われ、のしかかって来る諸々の重圧に押し潰されそうだった少年にとって、目一杯の笑顔と小さな手で思いっきり飛びついて来る少女は、可愛くて可愛くて仕方なかったのだ。
少女の言葉は、年齢に比べ妙に辿々しかった。
『お兄ちゃま』すら上手く言えずに『オニチャ』になっていた。
だが少女の知性はおそろしく高く、5歳年上の少年と知識量も理解度も勝るとも劣らなかった。
普通に考えれば周囲からの重圧にやりきれなさを抱える少年にとって、自分より余程賢い 5歳も下の少女など、決して許容出来るものではないだろう。
けれども少女の賢さに気付いた時には、もうすっかり少年は少女の虜だったのだ。
少女が自分より大層賢いのは気にならない。
だが少女の家門は…。
少女の賢さに気付くまでに半年かかったが、その出自に気付くまでには更に 1年を要した。
確かに身なりは良かったが、護衛もメイドも付けず一人で王宮をちょこちょこ歩く少女が、よもや公爵令嬢とは思わなかったのだ。
あまりに放置されていた。
物心つく前から、あちらの家門の人間とは付き合うなと刷り込まれて来た。
負けることは許さない、徹底的に叩き潰せ!
そう言われ続けて来た。
両公爵家の反目は、それぞれの派閥末端の家々にまで多大な影響を及ぼしている。
もしその敵対派閥の主家の娘であるこの少女と仲良くしていることがばれれば、叱責程度ではすまないだろう。
そしてそれは少女の家も同じ筈で…。
沢山悩んである日少年は、少女の家での様子を本人自身へ探りを入れてみた。
少女は、へにょっと泣きそうな顔を一瞬見せて、少年に聞き返した。
『もう、会えにゃいの?』
少年は絶句する。
『そっかぁ』
ポロリとこぼれた涙を、少女は自分の袖口で拭いてから、無理矢理笑顔を作って見せた。
『あのね、お父ちゃまはわたちが嫌いなの』
『え? なんで? リリアはこんなに可愛いのに!」
思いもかけないリリアの言葉に、少年はつい大きな声で聞き返してしまう。
『ねぇねは、キラキラの髪にょ毛で、しゅんごくかわいーの』
『リリアだってホントに可愛いよ! リリアのお父様だって、絶対リリアが大好きだよ。その証拠に、公爵はこうやってリリアを王宮に連れて来るじゃない』
『んとね、お父ちゃまがわたちを連れてきゅると、お母ちゃまがうれちいっていうきゃら。ふたりゅでおでかけ、なかよちーって』
『でもわたち、男の子じゃにゃい…』
あ、と少年は思った。
フォボス公爵家には男の子がいる。
ひきかえ二人目に生まれたのもまた女の子だった時のダイモス公爵の心中はいかばかりだったろう。
『んとね、お母ちゃま跡取り産めにゃいって言われりゅ。わたちが女の子だきゃらって』
『っ!』
そんなのリリアのせいじゃない、そう叫ぼうとした時、ガサゴソ茂みの音がして大柄な男が現れた。
この日も二人は王宮の庭園の片隅にある、人目につかない茂みの陰で会っていた。
誰も来ない場所の筈だった。
少年は、咄嗟に両手を拡げて少女リリアを背に庇った。
そして見上げた相手の男が、王宮に飾られている大きな国王の肖像画に描かれている人物その人であることに気が付いた。
3秒ほど見つめ合った時、その背に庇ったリリアがトコトコとその背を離れ、すぐ側にあった水溜りに、あろうことか自らべしゃっと倒れ込んだ。
今日は晴れたが、昨日は大雨だった。
リリアの顔も真っ白なドレスも泥だらけになった。
少年も国王さえも、唖然とリリアを見つめた。
リリアはムクっと顔だけ上げると、国王を見つめ、少年を人差し指で指差した。
『おじちゃま、たしゅけて。 このおにーちゃがいぢめるのぉ』
嘘泣きをしながら、そう言った。
少年は何がなんだか分からずに、ちょっと口を開けたまま、大きく目を見開いてリリアを見つめた。
僅かな沈黙のあと、ガハハハハ…と国王が笑い出した。
あまりの大声に、リリアがビクリと身体を震わせる。
国王は笑い過ぎて目尻に浮かんだ涙を手のひらで擦りながら、リリアに尋ねた。
『そうか。そんなにその坊主が好きか?』
『うん! だいしゅき!!』
満開の笑顔だった。
『そうか、そうか』
ブフッと国王が思い出し笑いをした。
少年には、二人のやり取りの意味が分からなかった。
この時はまだ。
何故にリリアは自分に『いじめられている』と言ったのだろう、そしてその舌の根も乾かないうちに、何故にリリアは自分のことを『大好き』と言ったのだろう。
少年がその答えを知ったのは、その夜父親が帰宅してからだった。
父親は酷く上機嫌に、ガシガシと少年の頭を撫で回した。
『ダイモスの娘を突き飛ばしたそうだな! よくやった! それでこそ我が家の跡取りだ』
『女の子を突き飛ばすなんて』と、少年を責める者は誰も居ない。
母親だけが、苦々しい顔をしていた。