作品タイトル不明
第2話 私がいないだけで壊れるなら、それが本当の価値です
王都を出て、半日も経たない頃だった。
馬車の窓越しに見える空が、わずかに揺らぐ。
ほんの一瞬。
気づかない人間の方が多い程度の歪み。
けれど、分かる。
結界の外層が、削れている。
予想より早い。
「……もう始まったのね」
小さく呟いて、私は視線を外した。
あとは、知らない。
同じ頃、王都東門。
「今、光が揺れなかったか?」
見張りの兵が空を見上げる。
「気のせいだろ。結界は聖女様が——」
言い終わる前に、ぱき、と音がした。
薄い膜に爪を立てたような、不快なひびの音。
二人の兵が顔を見合わせる。
「……報告、上げろ」
*****
翌朝、私は隣国アルヴェインとの国境近くの街へと着いた。
本来なら追放者が丁重に扱われることなどない。せいぜい入国記録を取られ、余計な問題を起こさぬよう監視される程度だろう。
だが門をくぐった瞬間、空気が変わった。
「……失礼ですが、お名前を伺っても?」
門兵の一人が、ひどく緊張した面持ちで私を見る。彼の視線は私自身というより、私の胸元に下げられた聖女証に向けられていた。
「エレノア・ルーヴェルです。今はもう、王国の聖女ではありませんが」
そう言うと、門兵は眉を寄せた。
「失礼ながら、その証には極めて高密度の聖属性魔力が付着しています。昨日まで最前線で大規模結界を維持していた方としか思えません。……罷免、ですか?」
「そういうことになっています」
門兵はもう一人と顔を見合わせると、すぐに上官を呼びに走った。
数十分後、私は街の詰所ではなく、なぜか領主館の応接室に通されていた。
温かい茶が出され、医師まで呼ばれる。魔力枯渇による衰弱が見られるからだという。
向かいに座ったのは、アルヴェイン皇国の国境防衛総監を務める中年の男だった。
「率直に伺います。あなたは、ルーヴェル王国の防衛結界を一人で支えていたのですか」
「一人、というほどではありません。補助祭司や管理官もいました。ただ、主供給者は私でした」
「どの程度」
「王都領域は八割強。地方中継を含めれば、全体の六割ほどでしょうか?」
淡々と事実だけを伝える。
総監は口を閉ざした。
信じられない、という顔だった。だが疑っているのではない。むしろ、だからこそありえない、という衝撃だった。
「そんな人材を、追放した?」
「ええ」
「正気か、あの国は……」
それには同意するしかない。
私は少しだけ口元を和らげた。
「そういう判断だったようです」
その日のうちに、私は皇都へ向かうことになった。
事情が事情である以上、国境で放置できないらしい。途中の馬車は、昨夜とは比べものにならないほど乗り心地がよかった。眠るように揺られながら、久しぶりに、深く息を吸えた気がした。
*****
同じ頃。
王国では、当然ながら騒ぎになっていた。
——といっても、最初はごく小さな異常だ。
城下の東門周辺で結界が薄くなり、魔獣よけの灯石が一斉に消えた。
浄水塔の聖刻が半分ほど機能停止し、井戸水に濁りが出た。
聖堂に設置された加護陣が弱まり、病人の回復が遅れ始めた。
だがそれらは、すぐに「些細な不具合」と処理された。
新聖女ミリアの就任直後に問題が起きたとなれば、見栄えが悪いからだ。
「お姉様が、きっと嫌がらせをしたんです」
ミリアはそう言ったらしい。
「私が聖女になるのが悔しくて、結界核に細工をしたのかもしれません……」
自分にできないことは、相手が壊したせい。
自分の失敗は、他人の妨害のせい。
そして最後には泣けば許されると思っている。
レナードも、それに乗った。
何の証拠もない。
けれど、断定した。
「エレノアの悪意ある置き土産だ。心優しいミリアは悪くない」
結果、王宮は原因究明ではなく、エレノアへの責任転嫁に動いた。
追放した女ひとりを悪者にしておけば、その場はしのげると思ったのだろう。
だが、結界は言い訳では維持できない。
*****
私が皇都に到着した頃には、王都外周の結界はもう目に見えて薄くなっていた。
アルヴェイン皇国の皇宮は、私の想像以上に簡素だった。豪奢ではあるが、無駄な飾りが少ない。実務が回っている場所の空気がある。
私はすぐに謁見の間へ通された。
玉座に座っていたのは、若い皇帝だった。
銀灰色の髪に冷えた湖のような瞳。年はレナードとそう変わらないはずなのに、その場を支配する気配がまるで違う。見た目の華やかさで人を惹きつけるのではなく、立っているだけで周囲を黙らせる類の人間だった。
「エレノア・ルーヴェル」
皇帝は私の名を呼ぶ。
「亡命希望者として受け入れる前に、確認したい。あなたは本当に、追放されたのか」
「はい」
「理由は」
「無能で不要だから、と」
一瞬、側近たちの空気が止まった。
皇帝だけが、ほんの少し眉を上げる。
「それを言った者の名は」
「ルーヴェル王国第一王子レナード殿下です」
「なるほど。無能が、誰を無能と呼んだのかは分かった」
その場に笑いは起きなかった。だが数人が視線を伏せたので、内心では同じ感想だったのだろう。
皇帝は続けた。
「あなたの身柄は、アルヴェイン皇国が保護する。以後、我が国の客人として遇する」
「……よろしいのですか」
「昨日まで国防級結界を支えていた聖女を放り出すほど、我が国は愚かではない」
簡潔で、飾り気のない言葉だった。
それだけなのに、胸の奥に何かが落ちる。
正当に評価される、というのは、こういう感覚なのかもしれない。
「感謝いたします」
「礼はまだ早い」
皇帝は私をまっすぐ見た。
「あなたには休養を取ってもらう。医師と魔術師によれば、今のあなたは慢性的な魔力欠乏状態だ。まずは身体を立て直せ」
「ですが、何かお役に立てることが——」
「休むことが役に立つ」
言い切られて、私は言葉を失った。
これまでの人生で、そんなふうに命じられたことは一度もない。役に立つなら働け、支えろ、我慢しろ、耐えろ。そればかりだった。
休め、と言われたのは初めてだ。
「分かりました」
絞り出すように答えると、皇帝はわずかに頷いた。
「それでいい」
そしてその夜。
ルーヴェル王国では、ついに大きな破綻が起きた。
王都を覆うはずの結界が、王城周辺を残して消えたのだ。
国民たちは恐慌に陥った。
なぜ王都全体を守るはずの加護が、城の中枢だけ残して消えたのか。
なぜ外縁部から魔獣が侵入しているのか。
なぜ聖女ミリアは、聖堂で泣いているだけなのか。
答えは簡単だ。
結界は最初から、王都全体を一枚で覆っていたわけではない。
中核から外縁へ、何重もの層を張り巡らせていたのだ。
そして私が最後まで維持していたのは、その大半だった。
城の周辺だけ残ったのは、王宮専用の緊急結界が別系統で存在するからにすぎない。つまり王族は守られ、民は晒された。
これ以上ないほど、醜い形で。
「ど、どうして……!? 私はちゃんと祈ったのに!」
ミリアは半狂乱になったという。
「やっぱりお姉様が呪いを残したのよ! あの人が悪いの!」
「なら、直せ!」
怒鳴ったのはレナードだ。
「今すぐ結界を戻せ! お前が聖女だろう!」
「む、無理よ……だって、私、こんなの知らな——」
そこまで言って、ミリアは口をつぐんだ。
知らない。
それを認めた瞬間、今までの嘘がすべて崩れるからだ。
だがもう遅い。
王都の外縁では悲鳴が上がり、商人たちは荷を捨てて逃げ、兵たちは結界頼みだった防衛線の崩壊に対応できず後退していた。
そして民衆は見たのだ。
王城の空だけ、薄く光っていることを。
自分たちは見捨てられ、王族だけが守られているという、あまりにも分かりやすい現実を。
その瞬間、怒りの矛先は魔獣より先に、王宮へ向いた。