作品タイトル不明
149 それは脅威か恩恵か(4)
口、に。
アセリアは、目を瞬かせた。
とても近いところにハルムがいる。
焦点が合わないほど近いところに。
触れている。
ハルムの口が。
これ、は……?
これがキスなんだと理解した時には、すでにハルムはアセリアから離れていた。
ダン。
と、大きな一歩目の音を残して、気付けばハルムは扉から出て行ってしまった。
呆気に取られる。
その背中を、慌てて追いかけた。
どこに行きますの?今のはなんですの?
そして何よりも、もうすぐ外は暗くなる。
ハルムは今ランプを持っていかなかったから、すぐに一歩も歩けない場所に放り出されることになるだろう。
そんな場所に一人、ハルムを取り残させるわけにはいかない。
ギ。
門の音はせず、門は閉まったまま。
では、家の裏ですわね。
慌てて家の裏の井戸の方へと足を向けると。
ザバァッ!!
という音が聞こえてきた。
どう聞いても、井戸水がどこかへひっくり返された音だ。
どこかへ。
どこへ?
薄闇の中、窓からの灯りに照らされているのは、井戸のそばにしゃがみ込んだハルムの姿だった。
バケツをひっくり返したのはやはりハルムの頭の上だったらしい。
髪から、水滴が滴る。
シャツが身体に張り付いている。
「ハルム!?」
その奇行に思わず声を上げる。
「何してますの!?風邪をひいてしまいますわ」
さすがに最近涼しい日も増えた。
確かに浴槽はない家だけれど、水浴びで構わない時期でもあるまい。それも、この時間に。
腕を引き上げて、家に入れようとする。
ハルムはびくともしなかったけれど、
「ちょっと、」
言いながら、大きく息を吐いて立ち上がる。
「頭を冷やさないとと思って」
そんな、理由のような言葉を聞きながら、アセリアは改めてハルムの腕をつかむ。
家の方へ引くと、思ったよりも素直についてきた。
ギギ。
いつもの音と共に家の中へ入る。
家の中はなんの変哲もなく、いつもと変わりなく。
ハルムが後ろから、
「もう大丈夫です。着替えますね」
と言うので、アセリアはお湯を沸かしに行った。
水差しから鍋の中に水を入れる。
オーブンはまだ温かい。
水面を眺める。
なんでしたのかしら。
唇に触れる。思い出す。
なんでしたのかしら。
事故、では、ありませんでしたわね。
ついさっきのことを思い出す。
ハルムは、謝りませんでしたわね。
さすがのアセリアでも、執事が主人に口付けするのはおかしいことだとわかっている。
謝る気は、ないということですわね。
顔が火照る。
キス、しましたわね?
水の中で、泡がポコポコと生まれ出す。
キス、しましたわね。