作品タイトル不明
完結後番外編十二 春の再会
王都での仕事が一区切りついた春、リネリアは北境へ帰った。
馬車の窓から見える景色は、昔より低く見える。子どもの頃は、森も門も、空さえも大きかった。今は違う。大きさが変わったのではない。自分が大人になったのだと、リネリアは少し照れくさく思った。
それでも、北境の門が見えた瞬間、胸が跳ねた。
帰る名を持つ者を迎える。
文字は塗り直されていた。
昔、母と初めてこの門をくぐったとき、リネリアはまだ四歳だった。名前を奪われないように外套を握りしめ、母の手を離さなかった。
今は、自分の鞄に自分で縫った名札がある。
リネリア・エレノア・グランヴィル。
裏には、小さくリネ。
母だけがそう呼んでいいというわけではない。けれど、その音は、母の声にいちばん似合う。
馬車が止まる前に、玄関の扉が開いた。
エレノアが立っている。
十年前より少し髪に銀が混じったが、背筋は変わらない。後ろにはテオドール、アンナ、マリベル、ノル、リン・エイル、白靴、そして名前の家の子どもたちがいる。
リネリアは馬車を降りた。
「ただいま」
エレノアが微笑んだ。
「おかえり、リネリア」
その声を聞いた瞬間、王都で張っていた背筋がほどけた。
リネリアは大人で、相談員で、名綴り師で、誰かの仮名を支える人になった。
それでも、母に名前を呼ばれると、四歳の自分が安心する。
それは弱さではない。
帰る場所があるということだ。
夕食は賑やかだった。
ノルは鍛冶場で新しく作った名札金具を見せ、リン・エイルはカナから届いた手紙を読ませてくれた。カイル・ウィロウは木工所の看板注文が増えすぎて困っているとこぼし、マリベルは「困っている顔をしながら嬉しそうです」と指摘した。
テオドールは、王都分室の報告を真剣に聞いた。
「ユウの登録は落ち着いたのか」
「はい。生活名はユウ・ヘレン。候補本名ユーニを記録欄に残しました」
「よい処理だ」
北境伯にそう言われると、リネリアは少し誇らしかった。
食後、エレノアとリネリアは庭へ出た。
リネ草が咲いている。
白い小花が、春の光の中で揺れていた。
「お父さまから株分けされた花?」
「ええ」
「増えたね」
「北境の土に合ったみたい」
リネリアは花壇の前にしゃがんだ。
ヴァルト侯爵家の庭にも、同じ花が咲いているだろうか。父は今も、下手な名札を縫っているだろうか。
リネリアは父を完全に許したわけではない。
だが、父から届く押し花を捨てることもない。
その距離を、母は急かさない。
「お母さま」
「なあに」
「私、王都分室に正式に残ろうと思う」
エレノアは驚かなかった。
「そう」
「北境も好き。でも、王都にはまだ名前で困っている子が多い。制度はできたけど、使い方を知らない人もいる。ユウみたいに、名前を持つのが怖い子もいる」
「ええ」
「だから、王都で働きたい。時々帰ってくる」
言い終えると、胸が少し痛んだ。
母は寂しがるだろうか。
引き止められたら、困る。
引き止められなかったら、それも少し寂しい。
エレノアはリネ草に触れた。
「リネリア」
「はい」
「あなたが選びなさい」
その言葉は、昔から何度も聞いた。
けれど今のリネリアには、その重さが分かる。
母は、選ばせるために守ってくれた。
自分の手元に置くためではなく、どこへ行くか選べるように。
「寂しくない?」
「寂しいわ」
正直な答えだった。
リネリアが顔を上げると、エレノアは笑っていた。
「でも、寂しいから行かないでとは言いません」
「お母さま」
「疲れたら帰ってきなさい。困ったら手紙を書きなさい。嬉しいことがあったら、それも書きなさい。あなたが王都で誰かの名を探すなら、私は北境であなたの帰る名を呼びます」
リネリアは立ち上がり、母に抱きついた。
もう四歳ではない。
それでも、母の腕は変わらなかった。
「ありがとう」
「こちらこそ」
「名前を守ってくれて」
「守らせてくれて」
その返事に、リネリアは泣いた。
夜、彼女は昔の子ども部屋で眠った。
壁には、幼い頃に縫った曲がった名札がいくつか残っている。こげ丸の失敗布、魚の印、初めて書いたリネリア。どれも少し恥ずかしいが、捨てたいとは思わない。
机の上に、母からの小さな包みがあった。
開けると、新しい針入れが入っていた。
表には、リネリア。
裏には、小さく、帰ってくる人へ。
リネリアは針入れを胸に抱いた。
王都へ戻れば、また忙しい日々が始まる。相談票、泣く母親、怒る父親、名前を拒む子、名前を探す子。うまくいかない日もあるだろう。失敗して、落ち込んで、母に手紙を書く夜もあるだろう。
それでも、帰る名前がある。
翌朝、リネリアは門の前に立った。
王都へ戻る馬車が待っている。
エレノアが手を振った。
「いってらっしゃい、リネリア」
リネリアは答えた。
「いってきます、お母さま」
馬車が動き出す。
門の文字が遠ざかる。
帰る名を持つ者を迎える。
リネリアはその文字を、最後まで見ていた。
そして、胸元の名札に触れる。
自分の名前は、自分のもの。
母が守ってくれた最初の約束。
今度は、自分が誰かへ渡す約束。
王都の空は、きっと今日も騒がしい。
けれど、リネリアはもう怖くなかった。
名前を呼ばれたら、返事をする。
迷ったら、帰る。
そして、誰かが名無しで終わりそうなときは、そっと尋ねる。
あなたは、どんな音で呼ばれたいですか。
その問いを持って、彼女は春の道を進んでいった。