作品タイトル不明
完結後番外編十一 ユウの本名
ユウの本名調査は、思ったより難航した。
焦げた布に残っていたのは、最初の一文字だけ。ユ。糸の色は青に近い灰色で、布は安価な麻。王都近郊の孤児院、荷馬車の事故、十年前の火事、焼けた名簿。手がかりは多いようで、どれも細かった。
リネリアは王都分室の机に資料を広げた。
名簿局の古い火災記録。
町の教会の洗礼台帳。
廃止された孤児院の受け入れ名簿。
ヘレンの養子申請書。
そして、ユウ本人が書いた短い聞き取り票。
覚えていること。
煙。
赤い布。
誰かが「ゆ」と呼んだ気がする。
パンの匂い。
雨の日が嫌い。
それだけだった。
ミーナは向かいの机で、講座の予約表を整理している。十年前より落ち着いた雰囲気になったが、忙しいときに眉間へ皺が寄る癖は変わらない。
「リネリア様、休憩を」
「あと少し」
「その『あと少し』は、エレノア様と同じ危険な言葉です」
リネリアは苦笑した。
「お母さまも言う?」
「言います。そして倒れる前にアンナ様に止められます」
「私は倒れない」
「その台詞も同じです」
ミーナは容赦がない。
リネリアは資料から顔を上げ、肩を回した。
「ユウは、知りたいと言っているのに、怖がっている」
「当然です」
「本名が見つかったら、自分が誰か分からなくなるかもしれないって」
「見つからなくても、傷つきます」
「うん」
名を探す仕事は、結果が出ればよいわけではない。
探しても見つからない名がある。見つかっても、本人が受け取れない名がある。受け取った瞬間に、忘れていた喪失が戻ってくることもある。
リネリアは、それを母から教わった。
だからこそ、調査結果を急がない。
その日の午後、古い教会から返答が届いた。
王都南区、聖アリア教会。
十年前の火災で一部焼失した台帳の写し。
そこに、ユの文字で始まる子どもの名が三つあった。
ユリウス。
ユーニ。
ユーフェン。
年齢が合うのは、ユーニだけだった。
性別欄は、不明。
母親の名は、マラ。
父親欄は空白。
備考には、こう書かれていた。
赤布の揺り籠。パン屋街より搬送。
リネリアは、聞き取り票の「パンの匂い」に丸をつけた。
赤い布。
パンの匂い。
ユーニ。
可能性は高い。
けれど、確定ではない。
ミーナが紙を覗き込む。
「伝えますか」
「本人に、確認の手続きを説明してから」
「直接見せる?」
「見せる。でも、一人では見せない」
ユウはその夕方、ヘレンと一緒に来た。
彼は以前より少し背筋が伸びていた。帽子は深くかぶっているが、受付でミーナに名を聞かれると、「ユウ」と自分で答えた。
談話室に入ると、リネリアは資料を机に置いた。
「手がかりが見つかりました。確定ではありません」
ユウの喉が動いた。
「名前?」
「可能性のある名前です」
「言って」
「ユーニ」
音が部屋に落ちた。
ユウは何も言わなかった。
ヘレンが膝の上で手を握る。
「ユーニ」
ユウは自分で繰り返した。
その声は、誰か知らない人の名を読むようだった。
「変だ」
「そう感じてもいい」
「俺じゃないみたい」
「今は、そうかもしれない」
「本当の名前なのに?」
「本当の名前でも、長く呼ばれなければ遠くなります」
ユウは紙を見た。
「母親の名がある」
「マラさん。これも確定ではありませんが、同じ記録にあります」
「父親は空白」
「はい」
「空白は、悪いこと?」
リネリアは首を振った。
「分からないことがある、ということです。悪いこととは限りません」
ユウは長く黙った。
そして、聞いた。
「ユーニって呼ばれたら、返事しなきゃいけない?」
「いいえ」
「ユウのままでも?」
「はい」
「本名が見つかったのに?」
「名前は、見つかった瞬間にあなたを支配するものではありません」
ヘレンが涙をこらえていた。
ユウはそれに気づき、少し困った顔をした。
「泣くなって」
「ごめんなさい」
「まだ、分かんないんだ」
「うん」
「でも、紙、見たい」
リネリアは写しを渡した。
ユウは、ユーニの文字を指でなぞった。
「ユウと、似てる」
「あなたが選んだ仮名は、橋になりましたね」
「橋」
「急いで渡らなくてもいい橋です」
ユウは少しだけ笑った。
「名前の家の人は、すぐ橋って言う」
「便利な言葉だから」
「便利ならいい」
その日は、ユーニを正式に使うかは決めなかった。
代わりに、仮名欄へ追記した。
ユウ。候補本名、ユーニ。本人確認継続。
帰り際、ユウはリネリアに言った。
「パン屋街、行ってみたい」
「一人で?」
「いや。ヘレンと。あと、あんたも来る?」
「仕事としてなら」
「仕事じゃなくてもいい」
その言葉に、ヘレンがまた泣きそうになった。
ユウは慌てて言った。
「だから泣くなって」
数日後、三人でパン屋街へ行った。
ユウはパンの匂いを嗅いでも、何かを思い出したわけではなかった。赤い布を売っていた店も、十年前の火事の跡も、ほとんど残っていない。
それでも、古いパン屋の女主人が、マラという女性を覚えていた。
「細い人だったよ。赤い布で赤ん坊を抱いていた。よく、余ったパンの耳を買っていった」
ユウは黙って聞いた。
「その赤ん坊が、俺?」
「さあね。目は似ている気がする。でも、十年も前だから」
確証はない。
けれど女主人は、古い木箱から小さな布切れを出した。
「火事の後、店先に残っていたものだよ。誰のものか分からなくて取っておいた。赤い揺り籠の布かもしれない」
ユウはその布に触れた。
赤は色褪せ、端は焦げている。
「何も思い出さない」
彼は言った。
「でも、嫌じゃない」
リネリアはうなずいた。
「持ち帰りますか」
「うん」
「ユーニとして?」
ユウは少し考えた。
「ユウとして」
その答えは、拒絶ではなかった。
今の自分で過去に触る。
それが、彼にできる最初の受け取り方だった。
半年後、ユウは生活名を正式に登録した。
ユウ・ヘレン。
養母ヘレンの名を家名ではなく後見名として使う形だ。候補本名ユーニは、記録欄に保存された。本人が望めば将来、ユーニを中名として足すこともできる。
登録の日、ユウはリネリアに言った。
「ユーニを消してないのが、少し安心する」
「使わないのに?」
「使わなくても、どこかにあるなら、なくしてないって分かる」
「それでいいと思います」
「でも、今はユウ」
「はい。ユウ」
彼はようやく、返事をした。
「うん」
その返事を聞いて、リネリアは母の言葉を思い出した。
名前は、世界で迷子にならないための目印。
けれど、目印は一つでなくてもいい。
過去に置く目印。
今を歩く目印。
未来で選び直すための目印。
ユウは、三つの目印を持った。
それは、名前を一つに決めきれなかった失敗ではない。
自分を急がせなかった成功だった。