作品タイトル不明
完結後番外編十 最後の手紙
エレノアは、リネリアからの手紙を読み終えて、しばらく動けなかった。
北境の執務室には、午後の光が差している。机の上には、名簿局からの報告書、保護院の予算表、王妃からの制度改正案への意見照会、そしてリネリアの手紙が並んでいた。
どれも大事な書類だ。
けれど、今いちばん重いのは、娘の手紙だった。
名前を守ってくれて、ありがとうございます。
でも、私は守られただけでは終わりません。
次は、私が誰かの名前を一緒に探します。
エレノアは、その一文をもう一度読んだ。
涙は出なかった。
代わりに、胸の奥が静かに満ちていく。
あの朝、アルベルトが言った。
リネリアの名前を、ミーナに譲ってやってくれ。
たかが名前だろう。
その瞬間に感じた怒りは、今も消えていない。
だが、怒りだけでここまで来たわけではなかった。
リネリアの外套に名を縫った。宿でミルクの紙片を見た。ノルの名札を直した。北境の子どもたちと出会い、黒インクを暴き、白紙の子を抱き、王妃のリーナの布を見た。父親たちに針を持たせ、母親たちの涙を受け止め、名を捨てたい少年と仮名の橋を渡った。
その一つ一つが、娘の未来につながっていた。
扉が叩かれる。
「入って」
テオドールが入ってきた。
髪に少し白いものが増えたが、姿勢は変わらない。胸元には、リネリアが縫った針入れがある。使い込まれて、紺色の布は柔らかくなっていた。
「リネリアから?」
「ええ」
エレノアは手紙を渡した。
テオドールは読み、静かに息を吐いた。
「守られただけでは終わらない、か」
「あなたに似ましたね」
「あなたに似たのだと思う」
「頑固なところは?」
「両方だ」
二人は笑った。
十年は長い。
リネリアはもう、抱き上げるほど小さくない。自分で王都へ行き、自分で相談を受け、自分で名を選ぶ。母の手から離れていくのは寂しい。けれど、それこそが守った先にあるものだ。
子どもは、母の腕の中に留めるために守るのではない。
自分の足で、名前を持って、世界へ行くために守る。
「返事を書くのか」
「書きます」
エレノアは新しい便箋を出した。
筆を持つ前に、少し考える。
何を書けばいいだろう。
誇らしい。寂しい。心配。嬉しい。全部本当だ。
でも、娘にまず返すべき言葉は一つだった。
リネリアへ。
手紙を読みました。
ユウという仮名を選んだ子のこと、よく聞きました。布の調査は時間がかかるでしょう。焦らず、一緒に待ってあげてください。
あなたが守られただけで終わらないと言ったことを、とても誇りに思います。
けれど、忘れないでください。
誰かの名前を探す人にも、帰る名前が必要です。
疲れたら、北境へ帰ってきなさい。失敗したら、相談しなさい。怒ったら、お茶を飲みなさい。泣いたら、泣いたままでも手紙を書きなさい。
あなたはもう子どもではないけれど、私の娘です。
そのことは、あなたの自由を縛るためではなく、帰る場所を示すためにあります。
リネリア。
あなたの名前は、あなたのもの。
そして、あなたを呼ぶ私の声は、いつでもここにあります。
母より。
書き終えると、エレノアは封をした。
テオドールが蝋を温める。
封蝋には、グランヴィル家の紋章ではなく、名前の家の小さな印を使った。
針と糸巻き。
窓の外では、リネ草が咲いている。
かつてヴァルト侯爵家の庭に咲いていた花を、アルベルトが株分けして送ってきたものだ。最初は植えるか迷った。だが、リネリアが言った。
「花は悪くないよ」
その一言で、北境の庭にもリネ草が増えた。
アルベルトからは、今も年に数回手紙が届く。内容は短い。庭の花、王都の天気、名札講座でまた糸を絡ませたこと。リネリアは返事を書いたり書かなかったりする。それでいい。
許すことも、許さないことも、急ぐ必要はない。
名前と同じで、関係にも余白があっていい。
夕方、エレノアは名前の家の広間へ出た。
子どもたちの声がする。
マリベルは相変わらず小言を言い、ノルは鍛冶場から戻って金具の修理をしている。リン・エイルは白紙名の相談記録を整理し、カイル・ウィロウは木工所で作った新しい看板を運んできた。黒パンの子どもだった白靴は、すっかり大きな猫になり、暖炉の前で丸まっている。
誰かがエレノアを呼んだ。
「奥様、この名札の裏はどうしますか」
「エレノア先生、仮名欄の書き方を見てください」
「お母さま、リネリア様から手紙ですか」
最後の声は、保護院に来たばかりの小さな女の子だった。
エレノアはうなずいた。
「ええ。リネリアから」
「リネリア様って、どんな人?」
女の子が尋ねる。
エレノアは少し考えた。
娘を説明する言葉はたくさんある。
名綴り師。王都分室の相談員。北境伯家の娘。かつて名前を奪われかけた子。針仕事が得意で、予定表に遊ぶ時間を縫いつけると言った子。魚の印を守った子。黒パンの子どもに名前をつけた子。
でも、最初に言うべきことは決まっている。
「私の娘です」
女の子は首を傾げた。
「それだけ?」
「まずは、それだけ」
エレノアは笑った。
「ほかのことは、リネリアが自分で話すでしょう」
夜、名前の家の門に灯りがともった。
帰る名を持つ者を迎える。
その文字は、十年前より少し色褪せている。だが、何度も塗り直され、風雪に耐え、今も読める。
エレノアは門の前に立った。
あの日、屋敷を出たとき、未来は何も決まっていなかった。
娘の名前を守る。
ただそれだけを胸に、馬車に乗った。
それだけだったのに、今はこんなにも多くの名が周りにある。
ノル。
ミーナ。
リン・エイル。
エリス。
カイル・ウィロウ。
ユウ。
テオドール。
テオ。
リネリア。
一つ一つの名が、物語になった。
名を呼ぶことは、相手を自分のものにすることではない。
そこにいると認めること。
返事をする自由を渡すこと。
迷子になったとき、戻れる目印を残すこと。
エレノアは、王都へ送る手紙を胸に抱いた。
「リネリア」
声に出して呼ぶ。
娘はここにはいない。
けれど、その名は北境の夜に静かに響いた。
いつか娘が帰ってくるとき、この門は同じ文字で迎えるだろう。
帰る名を持つ者を迎える。
そして、エレノアは何度でも呼ぶ。
リネリア。
私の娘。
あなたの名前は、あなたのもの。
それが、この物語の最初の約束で、最後まで変わらない答えだった。