軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

完結後番外編九 十年後の名前の家

十年後、リネリアは王都分室の窓を開けた。

朝の通りは、昔より少し騒がしい。名札屋、紙屋、子ども用の靴屋、代筆人の小さな店。名前の家がこの通りに分室を開いた頃には、ここまで子どもの持ち物を扱う店が増えるとは誰も思っていなかった。

王都の人々は変わった。

もちろん、すべてが良くなったわけではない。

家名を重んじすぎる貴族は今もいる。子どもの愛称を軽んじる大人もいる。名簿の手続きを面倒がり、古い慣習に戻ろうとする者もいる。

けれど、子どもの外套に名前を縫う父親は増えた。

保護名申請は簡略化され、生活名欄も正式に設けられた。白紙名の子を出した施設には、厳しい監査が入る。名前を売る店は姿を消し、代わりに名札修繕の店が増えた。

小さな変化が積み重なっている。

リネリアは十九歳になっていた。

母に似て針を持つ手は正確で、父代わりのテオドールに似て、必要なときは短くはっきり言う。髪は少し伸ばし、仕事中は後ろで結ぶ。胸元の名札には、こう縫われていた。

リネリア・エレノア・グランヴィル。

自分で選んだ名だ。

ヴァルトの家名は、記録上は父方名として残っている。手紙をくれる父を憎んではいない。だが、今の生活名に入れる必要はないと、彼女自身が決めた。

エレノアを中名に入れたとき、母は少し困った顔をした。

「私の名を入れなくてもいいのよ」

「入れたいから入れるの」

「母親への気遣いで?」

「私が迷子になりそうなとき、お母さまの名前があったら戻れるから」

そのとき、母は泣かなかった。

ただ、リネリアの額にキスをした。

今日、リネリアは王都分室で新しい相談を受ける。

相談票には、奇妙な名前が書かれていた。

名無し。

冗談かと思ったが、そうではないらしい。

十時の鐘が鳴ると、母親らしき女性が少年を連れて入ってきた。少年は十二歳くらい。痩せているが、目は鋭い。帽子を深くかぶり、誰とも視線を合わせない。

「ご予約の、ヘレン様ですね」

「はい。この子は……」

女性は言い淀んだ。

少年が先に言った。

「名無しでいい」

リネリアは椅子を勧めた。

「では、相談中はナナシさんとお呼びしても?」

少年は驚いたように顔を上げた。

「変だって言わないのか」

「相談票にそうあります。ただ、あなたを傷つけるための呼び名なら、別の呼び方を一緒に探します」

「俺が自分でそう言ってる」

「では、今はナナシさんで」

ヘレンは泣きそうな顔をした。

「この子は、町の孤児院でそう呼ばれていたんです。書類がなくて、職員たちが名無し、名無しと。最近、うちで引き取ることになって、本名を探したのですが、本人がもういらないと言って」

「本名の手がかりはありますか」

「古い布が一枚だけ」

ヘレンは鞄から布を出した。

焦げた端、薄い糸。読めるのは、最初の一文字だけだった。

ユ。

リネリアの胸が、少しだけ痛んだ。

母から何度も聞いた昔の物語がある。

もし母が屋敷を出なかったら、リネリアは名無しの子になって消えていたかもしれない。

今、目の前にいる少年は、本当に名無しと呼ばれて生きてきた。

「ナナシさん」

「何」

「本名を取り戻すことと、今すぐその名で呼ばれることは、別にできます」

少年は眉を寄せた。

「どういう意味」

「布の名を調べることはできます。でも、見つかった名前をすぐ使わなくてもいい。あなたが選ぶまで、仮名で生活できます」

「俺は名無しでいい」

「名無しは、あなたが自分で選んだ音ですか。それとも、周りから投げられた言葉を先に拾っただけですか」

少年は黙った。

その沈黙は長かった。

リネリアは急かさない。

母がそうしてくれたように。

「名無しなら」

少年は低く言った。

「誰にも期待されない」

「期待されたくない?」

「名前があると、誰かの子みたいになる。いい子になれって言われる。名無しなら、捨てられても当たり前だ」

ヘレンが口元を押さえた。

リネリアは、少年をまっすぐ見た。

「捨てられて当たり前の子はいません」

「きれいごとだ」

「はい。きれいごとです。でも、名前の家はそのきれいごとを制度にするためにあります」

少年の目が揺れた。

「制度?」

「そうです。大人が気分で言う優しさではなく、書類と布と手続きで、あなたを置き去りにしない仕組みにする」

リネリアは白い紙を出した。

「今日決めることは三つだけです。一つ、布の名を調査するか。二つ、生活上の仮名をどうするか。三つ、ヘレン様の家で呼ばれたい音があるか」

「多い」

「では一つずつ」

少年は、少しだけ口元を曲げた。

笑いかけたのかもしれない。

「布は、調べてもいい」

「はい」

「でも、見つかっても、すぐ使わない」

「分かりました」

「仮名は……」

彼は窓の外を見た。

向かいの紙屋の老人が、店先に新しい紙束を並べている。風で一枚が飛び、通りを滑った。

「ユウ」

少年が言った。

「布にユってあるなら、ユウでいい。名無しより、短いし」

「ユウさん」

リネリアが呼ぶと、少年は顔をしかめた。

「さんはいらない」

「では、ユウ」

ヘレンが泣き始めた。

ユウは困った顔をした。

「泣くなよ」

「ごめんなさい」

「まだ決めただけだ」

「それが嬉しいの」

リネリアは布を預かり、調査票に記入した。

ユ。

仮名、ユウ。

本人の同意あり。

その文字を書きながら、彼女は自分の胸元の名札に触れた。

リネリア。

かつて奪われかけた名。

今は、誰かが名無しで終わらないために使う手の力になっている。

夕方、リネリアは北境の母へ手紙を書いた。

お母さまへ。

今日、ナナシと呼ばれていた子が、ユウという仮名を選びました。布にはユの一文字だけが残っていました。調査を始めます。

昔、お母さまが私を連れて屋敷を出てくれなかったら、私はこういう相談を受ける側にはなれなかったと思います。

名前を守ってくれて、ありがとうございます。

でも、私は守られただけでは終わりません。

次は、私が誰かの名前を一緒に探します。

リネリア・エレノア・グランヴィルより。

書き終えると、窓の外は夕方になっていた。

王都分室の看板が、薄い光を受けている。

帰る名を持つ者を迎える。

十年前、母が作った場所。

今はリネリアも、その戸口に立っている。