作品タイトル不明
完結後番外編七 名を捨てたい少年
名前の家に来る相談は、名を守りたい人ばかりではない。
ある秋の午後、一人の少年が、名を捨てたいと言ってやって来た。
年は十四。背は高いが、肩が痩せている。手には古い革袋を持ち、旅の埃をかぶっていた。受付のマリベルが水を出すと、少年は礼を言わずに飲み干した。
「名前を消したい」
最初の言葉がそれだった。
私は彼を談話室へ案内した。
リネリアは隣室で年少の子どもたちに文字を教えている。テオドールは領庁、アンナは市場へ出ていた。ノルが鍛冶場から戻る前の、静かな時間だった。
「消したい名前は、あなた自身の名前ですか」
少年は頷いた。
「カイル・ロッジ」
彼はその名を、吐き捨てるように言った。
「父親が罪人だ。ロッジの名を見るだけで、皆が俺を同じ目で見る。だから消したい。別の名をつけてくれ」
名前の家では、安易な改名を勧めない。
けれど、名前を変える必要がある場合もある。虐待から逃げる子、犯罪組織に追われる子、本人が過去の名で危険に晒される場合。名を守ることは、同じ名を永久に背負わせることではない。
「事情を聞かせてください」
「聞けば、やってくれるのか」
「聞かなければ、何が必要か分かりません」
カイルは苛立ったように革袋を握った。
「父は、名簿局の黒インク事件に関わった。子どもの名を売った側だ。捕まって、鉱山送りになった」
私は息を止めた。
黒インク事件。
それは、ダリウス副局長が裁かれた一連の事件の末端だ。名簿から子どもの名を抜き、別の家へ売る。保護名を偽造し、白紙の子を作る。その犯罪に関わった者は多く、全員の家族まで把握できているわけではなかった。
「あなたは、その事件に関わっていましたか」
「関わってない」
「では」
「でも、ロッジだ」
カイルは低く言った。
「市場で働こうとしても、父の名を聞かれる。宿に泊まっても、あのロッジかと聞かれる。母は病気で死んだ。親戚は俺を置いて行った。名前があるから、どこへ行っても父の罪がついてくる」
その怒りは、もっともだった。
名は守りにもなるが、時に重荷にもなる。
「新しい名を得たら、何をしたいですか」
「何でもいい。ロッジじゃなければ」
「何でもいい名前は、危ういです」
「贅沢を言うなって?」
「いいえ。あなたがまた、誰かの都合で名をつけられてしまうからです」
カイルは黙った。
私は机の上に白い紙を置いた。
「名前を消す、変える、足す、分ける。方法はいくつかあります。たとえば、ロッジの家名を凍結し、生活名を別に登録することができます。危険があるなら保護名を申請できる。完全に改名するには審査が必要ですが、不可能ではありません」
「消せるんだな」
「消す前に確認します。あなたは、カイルという名も捨てたいのですか」
彼の目が揺れた。
「……カイルは、母がつけた」
「では、父の家名と母が呼んだ名は、同じ重さですか」
カイルは答えなかった。
革袋の口を開け、中から小さな木片を取り出す。木片には、不器用な文字が刻まれていた。
カイル。
「母が作った」
彼はそう言った。
「字が下手で、イが変だ。でも、これだけ持ってきた」
私は木片を見た。
たしかに、文字は歪んでいる。だが、何度も撫でられた跡があった。少年はそれを捨てなかった。
「カイルを捨てたいようには見えません」
「でも、カイル・ロッジは嫌だ」
「では、分けましょう」
「分ける?」
「カイルは残す。ロッジは凍結する。生活名として、母方の名や、あなたが選ぶ新しい家名を仮登録する」
「母方の名は、分からない」
「調べられます。時間はかかりますが」
「時間なんか」
カイルは言いかけて、口を閉じた。
すぐに全部消したい。
その気持ちは分かる。
でも、急いでつけた名前は、また彼を苦しめるかもしれない。
そのとき、隣室から子どもたちの声が聞こえた。
リネリアが、文字の練習をしているらしい。
「名前を間違えたら、怒らずにもう一回書くよ。紙は破らない。紙がかわいそうだから」
子どもたちが笑う。
カイルは少しだけそちらを見た。
「ここは、変な場所だな」
「よく言われます」
「名前を大事にするくせに、変える話もする」
「大事にするからです」
私は木片を彼へ返した。
「あなたが捨てたいのは、名前そのものではなく、父の罪をあなたへ貼りつける周囲の目かもしれません」
「そんなの、変えられない」
「全部は変えられません。でも、あなたが自分を呼ぶ音は選べます」
カイルは木片を握った。
「仮の家名を選ぶなら」
「はい」
「母は、よく柳の木の下で休んでた。市場の裏の、細い柳。そこだけ涼しかった」
「柳」
「ウィロウって、旅人が言ってた。北境の言葉じゃないけど」
「カイル・ウィロウ」
声に出すと、少年は少し目を伏せた。
「変かな」
「いい名前です」
「ロッジは?」
「凍結名として残します。あなたの責任を示すためではなく、過去の記録を正しく切り離すために。父の罪は父の名簿に。あなたの生活は、あなたの名簿に」
カイルは長く息を吐いた。
「完全に消えないんだな」
「消えないものもあります」
「残酷だ」
「はい」
私は否定しなかった。
名は魔法のように見えるが、過去を消す万能薬ではない。むしろ、消えないものをどこに置くか決めるためにある。
「でも、全部背負わせるよりはましです」
カイルは、初めて私をまっすぐ見た。
「カイル・ウィロウ。仮で」
「仮で」
「母方が分かったら、また考える」
「それでいいと思います」
その日、カイルは名前の家に一泊した。
夕食の席で、リネリアが彼に声をかけた。
「カイル様、ごはん足りますか」
カイルは慣れない顔で皿を見た。
「様はいらない」
「じゃあ、カイルさん」
「さんも、変だ」
「カイル兄さま?」
「それはもっと変だ」
リネリアは真剣に考えた。
「じゃあ、カイル」
カイルは少しだけ笑った。
「それでいい」
名前は、制度だけでは定着しない。
食卓で呼ばれ、返事をし、水を渡され、もう一度呼ばれる。その繰り返しで、少しずつ身体に戻る。
翌朝、カイルは北境の木工所へ見習いとして紹介されることになった。柳の木片を持っているなら、木を扱う仕事が合うかもしれないとテオドールが言ったのだ。
出発前、カイルは私に言った。
「ロッジの名を、憎んでてもいいか」
「いいです」
「父を許さなくても」
「許さなくてもいい」
「カイルは、残してもいいか」
「もちろん」
彼は木片を胸元にしまった。
「じゃあ、行く」
「いってらっしゃい、カイル」
その呼びかけに、彼は一度だけ振り返った。
「行ってくる」
返事があった。
たったそれだけで、今日の相談は前へ進んだのだと思った。
名を守るとは、同じ名を押しつけ続けることではない。
名を捨てたい痛みを聞き、どこを残し、どこを凍らせ、どこに新しい音を足すかを一緒に考えることだ。
カイル・ウィロウ。
仮の橋を渡る少年の背中は、まだ細かった。
それでも、彼は自分で選んだ音へ向かって歩いていた。